
山頂まではロープウェイで上がることが出来て、山の麓には日牟禮八幡宮やロケ地で有名な八幡掘りがあり、和洋菓子のたねや・クラブハリエの近江八幡日牟禮ヴィレッジなどが立ち並びますから、近江八幡の観光ゾーンということになりますね。
八幡山にはかつて八幡山城が築かれており、1582年の本能寺の変から3年後の1585年に後の関白 豊臣秀次が築いたといいます。
秀次は諸説ある方のようですが、八幡山城も築城5年後の1590年に城主が京極高次に変わり、秀次切腹の1595年には廃城となった短命の城だったとされます。

秀次本人も享年27歳だとか32歳だとかいわれていますので短命な方だったようです。
秀次の自害については、“関白を継いだが、秀吉の正統な後継者である秀頼が生まれたため、正統な系譜を守るために自害させられた”、“「殺生関白」と呼ばれる暴君だったため、秀吉に高野山へ追放・切腹させられた”などいろいろ言われています。
実際のところは何が真実か分かりませんけどね。


秀次は秀吉の姉「智(とも)」の長男とされていますから、その時点で後継者のいなかった秀吉は甥を養子(跡取り)としたのでしょう。
結局、秀次は切腹して自害ということなりましたが、秀吉は秀次の一族処刑までしてしまいます。
この動機にも諸説あるようですが、豊臣家のその後の悲劇の運命に影響する事件だったのかもしれません。


寺院は、智が出家後に日秀尼として京都の村雲に秀次の菩提を弔うために創建したことから村雲御所と呼ばれ、後陽成天皇より「瑞龍寺」の寺号を賜って門跡寺院となったとされます。
瑞龍寺は日連宗では唯一の門跡寺院とされ、代々皇女や公家の娘を貫首(かんじゅ)に迎えていた格式高い門跡寺院だとされます。
地図がありましたが、二条城の少し北の辺りにに当時は建てられていたようですね。

江戸時代になると同じ京都の西陣に移転されますが、1788年に全焼してしまったようです。
再建後の瑞龍寺が秀次ゆかりの八幡山の地に移築されたのは1961年のこと。
尼僧が続いてきたといわれる瑞龍寺でしたが、現在の15世住職は男僧の方だそうです。

滋賀県には天台宗・浄土真宗の寺院が圧倒的に多いように感じているのですが、日蓮宗の寺院に参拝するのは県内では初めてとなる寺院です。
外陣に大きな太鼓がふたつあったのは少し変わっているかもしれません。
廊下を通って奥へ進むと、宮御殿「雲の間」と呼ばれる京都時代に「貴賓の間」として使われていた御座所があります。
派手な襖絵などはなく、しっくりと落ち着いた部屋に造られています。

廊下を進むと「妙法の庭」という庭があり、石で描かれた妙法の文字が見えます。
この庭は戦時中は防空監視所があったといい、戦後取り壊された瓦礫の山を整理して現在の「妙法の庭」となったそうです。
写経石は現在も奉納することが出来、文字の書けるよう石と筆記具が室内に準備されていました。

奥の部屋の廊下には悲運の関白・豊臣秀次の像があります。
八幡山の山麓にある八幡公園に豊臣秀次の銅像があるようですが、瑞龍寺の像はその原型となった像とありました。

本堂の一番奥には仏間があり、見ているとお寺の方(女性)がお茶を上げにきて、短い経を唱えられています。
小さな厨子に祀られていたのは「妙見菩薩」でした。妙見菩薩は北極星を神格化した菩薩とされていますが、祀られている場所からして、どちらかというと念持仏のような祀られ方なのでしょうか。

八幡山の山頂へは日牟禮八幡宮のすぐそばにあるロープウェイで登ることになります。(歩いても登れる)
少し旅気分になってロープウェイを撮ってみました。ロープウェイの駅の裏側に日牟禮八幡宮が見えますね。

琵琶湖側を望めば姨綺耶山と琵琶湖。対岸の山にはまだ残雪が残る3月下旬の景色です。
対岸の山はおそらく比良山系だと思いますが、湖西の山は雪深そうですね。
琵琶湖を挟んで見る湖西の残雪の山は見るたびに美しいと感じてしまいます。

安土山・錣山を望む東方面に広がる湖は琵琶湖ではなく西の湖。
その手前にある入り組んだ水路は水郷めぐりの水路のようです。
奥には霊仙山と鈴鹿山系になるのでしょうか。

ところで、よく見てみると西の湖の向こう側から煙が上がっています。
望遠最大で見てみると、どうやら葦焼きをやっているようです。

これは面白いものをみつけてしまいました。
寄り道して立ち寄ってみよう!と思ったのは当然の成り行き。
“行くまで焼き尽くさないで”と願いながらでした。
