僕はびわ湖のカイツブリ

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“男のためのガーデニング”改め

御朱印蒐集~長等山園城寺 三井寺①~

2017-04-21 19:22:22 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 三井寺(園城寺)は西国33所観音霊場の札所として、また近江八景の「三井の晩鐘」として知られ、桜の名所・紅葉の名所としても有名な寺院です。
近江大津京は667年に天智天皇により開かれていますが、天智天皇の死後に勃発した壬申の乱に敗れた大友皇子(天智天皇の子:弘文天皇)の息子である大友与多王が父の霊を弔うために寄進して圓城寺を創建したことが始まりとされています。

その後、天台宗の僧・円珍により寺院は再興され、天台別院として「東大寺・興福寺・延暦寺」と共に「本朝四箇大寺(しかたいじ)」に数えられる大寺院となったようです。
円珍は弘法大師空海の姪の子供とされる説があり、比叡山の僧侶として籠山修行の後、入唐して密教の奥旨を伝授されて帰国したとされています。
また円珍は、三井寺の別当職となり、その後は比叡山延暦寺の第5代座主にまでなった方で、「智証大師」の諡号を賜るほどの高僧であったとされています。

 



さて、三井寺ではまず大門(仁王門)から入ることになりますが、この門は寺の記録によると、滋賀湖南にある常楽寺の門であったが、豊臣秀吉によって伏見に移された後に、徳川家康によって現在地に建てられた(1601年)とされる重要文化財に指定された門です。
迫力のある仁王像が左右から睨みを効かせていますが、線径の太い金網越しなのでちょっと見にくい感じなのが残念です。





大門を抜けると釈迦堂(食堂)へ参拝することになります。
室町時代に建立されたとされる重要文化財の建築物で、同じく室町時代の作とされる釈迦如来立像を本尊として祀っています。
仏像は本尊釈迦如来立像の左側に十一面観音像と智証大師像、右側には延命地蔵が祀られていて、名称が釈迦堂(食堂)と()が付いていますので、かつては食堂(じきどう)として使われていたのかもしれません。



近江八景の「三井の晩鐘」と呼ばれるこの大鐘は、1602年に作られたもので参拝客が撞く鐘の音色が絶え間なく境内に響き渡っていました。
鐘には108の乳が付いていて人間の煩悩の数になっていますが、108乳が作られるようになったのは室町時代末期から江戸時代といわれますから、鋳造年代も合っていますね。



金堂は国宝に指定されている建築物で、1599年に秀吉の正室・北政所(ねね)によって再建されたもののようです。
建物は正面7間・側面7間と大きな建物ですが、特に屋根の大きさと反り軒の見事さに圧倒されます。



金堂の正面には「堂前灯籠」があり、これは天智天皇(中大兄皇子)が大化の改新で蘇我氏を滅ぼした罪障主滅のため、自らの左薬指を切って灯籠の台座の下に納めたと伝えられているそうです。
この灯篭は別名「圓城寺金堂無名指灯篭」とも呼ばれていますが、無名指(むめいし)を奉納した話は初めて聞きます。
「薬指」は薬師如来に由来するという説もありますから無名指には法力があると考えたのでしょうか。



金堂内部は内陣の横から脇陣・後陣をぐるっと一回り出来て、その4面全てに仏像が祀られていました。
左側の脇陣には、まず室町時代作の「大黒半跏像」が祀られていましたが、この大黒さんはかつて見たことのないような憤怒の表情の仏像でしたので、かなりの違和感を感じます。

さらに江戸期の「閻魔像」・「愛染明王像」、鎌倉期の「毘沙門天像」・「地蔵菩薩立像」と続き、南北朝期の「地蔵菩薩坐像」がもう1躰安置されています。
美しい顔の「毘沙門天像」の左目の下には傷があり、その傷がまるで涙を流しているかのように見えるのは大変印象的です。

驚いたのは最後に祀られていた「尊星王立像」でした。
北極星を神格化したものとも言われますが、月輪の上に片足で立っているさまは、まる球技するピエロのようにも見えます。しかも頭の上には鹿の姿まである不思議な仏像です。


ポストカード

後陣には室町期の「聖徳太子立像」が2躰、室町期の「宝冠釈迦如来座像」・「帝釈天」と続き、江戸期の「円空仏」が7躰・室町期の「釈迦如来坐像」と安置されています。
「宝冠釈迦如来座像」は少し変わった雰囲気がする仏像で。宝冠をかぶった釈迦像ということになるのですが、非常に中国風というか、渡来仏のイメージのある仏像です。


ポストカード

さらに平安末期の作とされる「大日如来坐像」が安置されています。
金剛界大日如来と胎蔵界大日如来は結んだ印によって見分けるとされており、智拳印を結んだこの「大日如来」は金剛界大日如来ということになりそうです。

後陣には続いて、室町期の「大黒像」、平安期の「不動明王像」と「毘沙門天像」、室町期の「阿弥陀如来坐像」、鎌倉期の「阿弥陀如来坐像」と数多くの仏像が並びます。
ここにあった大黒像はよく見る感じの穏やかでふくよかな大黒さんで脇陣にあった憤怒の大黒半跏像とは随分印象が違います。
「阿弥陀如来坐像(鎌倉期)」の横の脇侍2躰は、文殊と普賢かと思われますが、今にも動こうとするような前傾姿勢だったのが魅力的です。


ポストカード

内陣の右側の脇陣には、江戸期の「役行者」、平安後期の「十一面観音立像」が2躰、更に江戸期の「聖観音立像」、室町期の「不動明王と2童子」、江戸期の「千手観音像」、江戸期の「阿弥陀如来坐像」と「普賢菩薩像」と大きな仏像はないものの数多くの仏像が祀られていました。
尚、金堂の御本尊は「弥勒菩薩」で、この仏像は絶対秘仏とされて見ることは出来ないそうです。

金堂を出ると「閼伽井屋」という霊泉を祀った建物がありました。
この霊泉は天智・天武・持統天皇の産湯に使われた「御井(みい)の寺」という逸話があり、三井寺の名前の由来となったとされています。
有名な話ですが、この井戸の近くで耳を澄ましていると、本当にボコッボコッという音が聞こえてきます。



ところで、三井寺には「三井の晩鐘」の鐘とは別にもう一つ有名な鐘で、「弁慶の引き擦り鐘」という鐘があります。
この梵鐘は奈良時代の作とされますが、三井寺と延暦寺の争いで弁慶が三井寺から鐘を奪って、比叡山へ引き擦り上げて撞いてみると“イノー・イノー(帰りたいの意味の方言)”と響いたので、弁慶が怒って比叡山の谷底へ投げ捨ててしまったという伝説がある梵鐘です。





三井寺前半の最後は「一切経蔵」という経典を安置するお堂になります。
室町時代の建築物として重要文化財に指定されており、1602年に毛利輝元によって移築されたものとされています。
元は毛利家のお膝元の山口市にあった禅宗寺院(国清寺)からの移築で、造りも禅宗の雰囲気のある建物です。



内部には「八角輪蔵」という回転式の経典を安置する輪蔵がありますが、これがなかなか見ごたえがある美しい輪蔵です。
現在も中に経典が収められているのかは知りませんが、元は版木の一切経(仏教のすべての経典)が収められていたとされます。



圓城寺(三井寺)は、創建から1300~1400年の間に何度も焼失し、その度に蘇ってきた寺院だといいます。
境内には特徴のある伽藍が多く、観光寺としての一面もあるとはいえ、見所の多い寺院ですね。


コメント (2)
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