福井県敦賀市と滋賀県高島市の間には両市を隔てる七里半越という峠があり、敦賀市疋田から高島市マキノ町海津までの七里半の道は「七里半街道」と呼ばれています。
敦賀側には古代三関とされる「愛発関」(平安中期に大津市の逢坂関に代わる)があり、日本海と畿内への道の間で関所となっていたようです。
古代三関の残りの2つは、美濃国からの侵入を遮断する「不破関」、伊勢国方面に設けられた「鈴鹿関」となり、東国からの侵入を防いだり、謀反者の東国への逃走を防ぐ役割を果たしていたという。
七里半街道の疋田には巨石を御神体として祀る「大岩大権現」があるといいますので、七里半街道(国道161号線)を北へ向かうことにしました。
疋田集落は村の中央に川舟運送のために作られた「敦賀運河(疋田舟川)跡」が流れる古くからの集落ですが、どこから山へ入っていっていいか分からない。
地元の方に道を聞き、舗装された細い山道を登っていった先には、大岩大権現を示す看板が掲げられていました。
朱に塗られた橋を渡ると、橋の下に流れる笙の川の清流が眺められる。
鳥居の奥には驚くほど大きな巨石が祀られているが、この神社には巨石以外には祠も何もなく、御神体の巨石だけが信仰の対象になっています。
また、山の中腹にありながらも綺麗に下草が刈られていることから、地元の方の信仰の篤さが伺われます。
現地案内板によると、慶応2年5月15日、夕方から激しい雨が降り続き、翌朝には山が鳴り出し土石流が流れ出した。
村人は逃げ出そうとするものの、村の上下におびただしい大石や大木が流れ出て、大川は大洪水となっていて逃げ出すことができず、人々はそこかしこにかがみこみ、泣き叫ぶばかりだったという。
同日の昼時分になって晴天になってきたので、山に登り様子を見にいったところ、大岩が現れ出て、この大岩が村を直撃する大石や大木を堰き止めたり、水を左右に分けたりして、村人の命を守っていたことが分かった。
村人は感謝して氏神に「おみくじ」でお伺いを立てたところ、山王権現のお力によって救われたと告げられた。と伝わります。
山王権現は、日吉大社の祭神であり、山岳宗教と神道・天台宗が融合した神仏習合の神とされています。
「大岩大権現」の由来は1866年の災害とされていますが、明治維新による神仏分離・廃仏毀釈が2年後の1868年ですので、「大権現」と名乗り続けられたのは謎になります。
もしかするとこの大岩は、遥か昔からの信仰の対象だったのではないかと考えた方が正解かもしれません。
大岩の裏側に回り込んでみると、別の岩に支えられる形で隙間が出来ており、鳥居が置かれています。
この岩の隙間は、闇の空間ともいえ、足が竦むような場所でもあります。
恐る恐る大岩の下の空間を除いてみると、中にももう一つの鳥居が祀られている。
そして大岩の向こうからは一筋の光。
境内には御神体の巨石の他にもう一つの大岩があり、こちらの大岩にも水が供えられてお祀りをされているようです。
岩や巨樹あるいは山に対する信仰は、日本人の共通のDNAだったのかもしれません。
疋田集落には「黒龍と白龍の伝説」という大蛇と人間の娘との悲恋伝説が残るといい、大蛇に恋した娘が祈ったとされるのが「大岩大権現」だったという伝説があります。
この伝説は、平安末期~鎌倉時代の話ともされていますので、その頃から「大岩大権現」が存在していたことが伺われる伝説です。
敦賀側には古代三関とされる「愛発関」(平安中期に大津市の逢坂関に代わる)があり、日本海と畿内への道の間で関所となっていたようです。
古代三関の残りの2つは、美濃国からの侵入を遮断する「不破関」、伊勢国方面に設けられた「鈴鹿関」となり、東国からの侵入を防いだり、謀反者の東国への逃走を防ぐ役割を果たしていたという。
七里半街道の疋田には巨石を御神体として祀る「大岩大権現」があるといいますので、七里半街道(国道161号線)を北へ向かうことにしました。
疋田集落は村の中央に川舟運送のために作られた「敦賀運河(疋田舟川)跡」が流れる古くからの集落ですが、どこから山へ入っていっていいか分からない。
地元の方に道を聞き、舗装された細い山道を登っていった先には、大岩大権現を示す看板が掲げられていました。
朱に塗られた橋を渡ると、橋の下に流れる笙の川の清流が眺められる。
鳥居の奥には驚くほど大きな巨石が祀られているが、この神社には巨石以外には祠も何もなく、御神体の巨石だけが信仰の対象になっています。
また、山の中腹にありながらも綺麗に下草が刈られていることから、地元の方の信仰の篤さが伺われます。
現地案内板によると、慶応2年5月15日、夕方から激しい雨が降り続き、翌朝には山が鳴り出し土石流が流れ出した。
村人は逃げ出そうとするものの、村の上下におびただしい大石や大木が流れ出て、大川は大洪水となっていて逃げ出すことができず、人々はそこかしこにかがみこみ、泣き叫ぶばかりだったという。
同日の昼時分になって晴天になってきたので、山に登り様子を見にいったところ、大岩が現れ出て、この大岩が村を直撃する大石や大木を堰き止めたり、水を左右に分けたりして、村人の命を守っていたことが分かった。
村人は感謝して氏神に「おみくじ」でお伺いを立てたところ、山王権現のお力によって救われたと告げられた。と伝わります。
山王権現は、日吉大社の祭神であり、山岳宗教と神道・天台宗が融合した神仏習合の神とされています。
「大岩大権現」の由来は1866年の災害とされていますが、明治維新による神仏分離・廃仏毀釈が2年後の1868年ですので、「大権現」と名乗り続けられたのは謎になります。
もしかするとこの大岩は、遥か昔からの信仰の対象だったのではないかと考えた方が正解かもしれません。
大岩の裏側に回り込んでみると、別の岩に支えられる形で隙間が出来ており、鳥居が置かれています。
この岩の隙間は、闇の空間ともいえ、足が竦むような場所でもあります。
恐る恐る大岩の下の空間を除いてみると、中にももう一つの鳥居が祀られている。
そして大岩の向こうからは一筋の光。
境内には御神体の巨石の他にもう一つの大岩があり、こちらの大岩にも水が供えられてお祀りをされているようです。
岩や巨樹あるいは山に対する信仰は、日本人の共通のDNAだったのかもしれません。
疋田集落には「黒龍と白龍の伝説」という大蛇と人間の娘との悲恋伝説が残るといい、大蛇に恋した娘が祈ったとされるのが「大岩大権現」だったという伝説があります。
この伝説は、平安末期~鎌倉時代の話ともされていますので、その頃から「大岩大権現」が存在していたことが伺われる伝説です。
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