近江八幡市と東近江市の境近くには「岩戸山」「小脇山」「箕作山」「赤神山」などが連なる箕作山系があり、「瓦屋禅寺」「太郎坊宮」「岩戸山十三仏」などが祀られる霊山になります。
また、飛鳥時代に聖徳太子が四天王寺建立の際に「瓦屋寺」に10万枚以上の瓦を焼かせたとの伝承のある聖徳太子ゆかりの山であり、地域となります。
「岩戸山」には、聖徳太子が「瓦屋寺」を建てられた時に、同じ山並みにある岩戸山に、金色の光を発する不思議な岩を見つけたという。
聖徳太子は巨岩に仏像を彫ろうとしたが道具を持ってなかったため、自らの爪で十三躰の仏を刻まれた。と伝承されているようです。
獣除けの鉄柵を開けて入っていくと「新四國八十八箇所霊場」の石碑があり、不揃いの石段を登って行く。
岩戸山は箕作山の西側になるため、朝は日当たりが悪い上に樹木が鬱蒼と茂っていて、石碑の近くには大きな竹藪があったりして心細い。
岩戸山には百六十躰といわれる石仏が各所に祀られた道はあまり気持ちの良いものではないが、お借りした2本の杖を支えにして石段を登ります。
登って行く途中でおそらく猿かと思われる獣糞を何ヶ所かで見ましたが、道はいたって静かで野鳥の声さえ聞こえない。
紅白の晒が巻かれている巨石と周辺に神仏の名前が彫られた石碑のある場所があり、巨岩信仰と神道・密教が入り混じったような空間に後ずさりしそうになる。
なぜ紅白の晒なのかは分かりませんが、岩戸山では巨石に巻かれていることが多かった。
巨岩の下の空間には大量の塩が供えられていて、この場所も山の一つの霊場となっているのかと思います。
道のほぼ大半は石段が800段ほど続きますが、傾斜の強い場所もあるので石段の先が見えない場所もある。
とはいえ、いつものように息も絶え絶えにならないのは2本の杖のおかげですので、山登りにはトレッキングポールがあると便利なのかと実感しました。
しばらく登るとまた紅白の晒を巻いた巨岩があり、石碑には「大黒天」と彫られていました。
古来、巨岩を神の依り代と考えて崇拝してきた日本人の自然信仰が息づいている証かと思います。
岩戸山と呼ばれるだけあって巨石・巨岩がありこちに点在していますが、この岩場には「白龍」「荒神」「水神」などの碑が建てられています。
岩戸山の中腹にはこのような祭祀空間が多いが、歴史資源開発機構 主任研究員の大沼芳幸さんは著書の中で“山頂には公的な信仰の対象となる強い神(山岳宗教と仏教の習合世界が展開する”。
“中腹には個人的な信仰により招かれた小さな神が祀られる”と書かれており、“自然物を神として祀る聖地”とも書かれており、まさに言い得て妙です。
四丁目の石碑のある辺りからは蒲生野の風景が一望できる場所があり、この辺りから頭上から光が射仕込むようになり、雰囲気が変わってくる。
しかし厳しい石段はまだまだ続きますのでただひたすら石段を登る。
そして見えてくるのは、石垣とそそり立つような御神体の巨岩です。
こういった巨岩と巨岩に挟まれた場所は湖東地方には幾つも見られますが、これらの磐座は母性を表すものへの信仰との説もあります。
御神体の巨岩は近くで見ても計り知れないくらいに大きい。
古代にこの山へ入って、樹木の中にこの巨岩に出会った人は、この岩に圧倒され、神そのものに見えたと感じたとしても不思議はないでしょう。
御神体の2つの巨岩の間には祠が祀られていて、ここにも各所に石仏が祀られています。
「岩戸山十三仏(摩崖仏)」は祠に包み込まれていて春の千日会の法要の時しか観ることは叶いませんが、ここには自然崇拝と仏教信仰が融合した信仰があったと言えます。
巨岩の下には「霊場 岩窟」という竪穴があり、案内板には“巨巌神明岩 自然の岩窟八畳余りにして、太子窟内にて御修行遊され...。”とある。
また由緒書には“神明岩下に岩窟あり這入れば坑内は八畳敷高さ四尺(1.2m)あり、明治以降は山賊の住家で、捕吏の難を逃んが為とか云う。”と中はかなり広そうですが、入る勇気はない。
神明岩と比べると高さは低くなりますが、左側にある巨岩もかなり大きく、さらに左側で十三仏の岩につながっています。
この岩の下にも石仏が並び、百60躰の石仏が祀られているというのもよく分かります。
神明岩の右側に回り込むと「岩戸神明神社」の鳥居があり、ここでも岩の間に大量の塩が供されています。
神明岩の右側には神社が祀られ、左側へ行くと十三仏の摩崖仏があるという岩戸山には神も仏も巨岩に宿る。
右側の道はここより先へは進めませんが、横から見ても神明岩が尋常な大きさではないことが分かります。
登山口から中腹を越えた辺りまでの鬱蒼とした暗さはどこへやら、光に満ち溢れた世界が広がります。
境内の外れまで来ると箕作山や赤神山への登山ルートがあり、岩戸山の頂上まで行ってみます。
この道も2つの大岩に挟まれた道となっており、悪路になりますので杖を置いて登って行く。
で、これが道なのでしょうか?
どうやら岩を登って進めということなのでしょうけど、いきなりの岩登りになります。
登り終えた岩には『界』の文字が彫られています。
境内の巨岩に『境』の文字も彫られているといい、ここが神域の境界となるのかもしれません。
岩戸山は神明岩までは石段が続きましたが、頂上への道は険しい坂道となり、山登りが始まります。
岩場の途中に断崖がありましたので、恐る恐る突き出した岩の先端まで行き、下界の風景を眺める。
頂上と思われる場所にも岩が点在しており、下の岩には色あせてはいますが、紅白の晒が巻かれている。
この岩も何か信仰があったのかと思いますが、真ん中の岩には方向を示す矢印が彫られています。
調べてみると、岩に彫られた矢印は「旗振り通信」の場だったといい、江戸時代中期から明治期にかけて大阪の米相場の情報を伝えるための伝達手段だったようです。
その伝達速度は、熟練した者ならば旗振り場の間隔を3里とした場合、通信速度は時速720kmということになるとの説もあり、先物取引だった米取引には一刻も早く相場の情報を得ることが求められたのでしょう。
岩戸山の場合は、野洲の旗振山から情報を受けて、彦根市の荒神山~佐和山へと情報伝達を行ったとされます。
岩戸山の頂上で折り返して下界を眺めると、八幡山の向こうに琵琶湖が見える。
山上から琵琶湖が見えると嬉しくなるのは琵琶湖愛かな。
方角を変えると、丸山と西の湖だろうか?
水の色のブルーが美しい。
下山して岩戸山を振り返ってみる。
山頂に2つのピークがありますが、左が岩戸山で、右が小脇山かと思います。
また、飛鳥時代に聖徳太子が四天王寺建立の際に「瓦屋寺」に10万枚以上の瓦を焼かせたとの伝承のある聖徳太子ゆかりの山であり、地域となります。
「岩戸山」には、聖徳太子が「瓦屋寺」を建てられた時に、同じ山並みにある岩戸山に、金色の光を発する不思議な岩を見つけたという。
聖徳太子は巨岩に仏像を彫ろうとしたが道具を持ってなかったため、自らの爪で十三躰の仏を刻まれた。と伝承されているようです。
獣除けの鉄柵を開けて入っていくと「新四國八十八箇所霊場」の石碑があり、不揃いの石段を登って行く。
岩戸山は箕作山の西側になるため、朝は日当たりが悪い上に樹木が鬱蒼と茂っていて、石碑の近くには大きな竹藪があったりして心細い。
岩戸山には百六十躰といわれる石仏が各所に祀られた道はあまり気持ちの良いものではないが、お借りした2本の杖を支えにして石段を登ります。
登って行く途中でおそらく猿かと思われる獣糞を何ヶ所かで見ましたが、道はいたって静かで野鳥の声さえ聞こえない。
紅白の晒が巻かれている巨石と周辺に神仏の名前が彫られた石碑のある場所があり、巨岩信仰と神道・密教が入り混じったような空間に後ずさりしそうになる。
なぜ紅白の晒なのかは分かりませんが、岩戸山では巨石に巻かれていることが多かった。
巨岩の下の空間には大量の塩が供えられていて、この場所も山の一つの霊場となっているのかと思います。
道のほぼ大半は石段が800段ほど続きますが、傾斜の強い場所もあるので石段の先が見えない場所もある。
とはいえ、いつものように息も絶え絶えにならないのは2本の杖のおかげですので、山登りにはトレッキングポールがあると便利なのかと実感しました。
しばらく登るとまた紅白の晒を巻いた巨岩があり、石碑には「大黒天」と彫られていました。
古来、巨岩を神の依り代と考えて崇拝してきた日本人の自然信仰が息づいている証かと思います。
岩戸山と呼ばれるだけあって巨石・巨岩がありこちに点在していますが、この岩場には「白龍」「荒神」「水神」などの碑が建てられています。
岩戸山の中腹にはこのような祭祀空間が多いが、歴史資源開発機構 主任研究員の大沼芳幸さんは著書の中で“山頂には公的な信仰の対象となる強い神(山岳宗教と仏教の習合世界が展開する”。
“中腹には個人的な信仰により招かれた小さな神が祀られる”と書かれており、“自然物を神として祀る聖地”とも書かれており、まさに言い得て妙です。
四丁目の石碑のある辺りからは蒲生野の風景が一望できる場所があり、この辺りから頭上から光が射仕込むようになり、雰囲気が変わってくる。
しかし厳しい石段はまだまだ続きますのでただひたすら石段を登る。
そして見えてくるのは、石垣とそそり立つような御神体の巨岩です。
こういった巨岩と巨岩に挟まれた場所は湖東地方には幾つも見られますが、これらの磐座は母性を表すものへの信仰との説もあります。
御神体の巨岩は近くで見ても計り知れないくらいに大きい。
古代にこの山へ入って、樹木の中にこの巨岩に出会った人は、この岩に圧倒され、神そのものに見えたと感じたとしても不思議はないでしょう。
御神体の2つの巨岩の間には祠が祀られていて、ここにも各所に石仏が祀られています。
「岩戸山十三仏(摩崖仏)」は祠に包み込まれていて春の千日会の法要の時しか観ることは叶いませんが、ここには自然崇拝と仏教信仰が融合した信仰があったと言えます。
巨岩の下には「霊場 岩窟」という竪穴があり、案内板には“巨巌神明岩 自然の岩窟八畳余りにして、太子窟内にて御修行遊され...。”とある。
また由緒書には“神明岩下に岩窟あり這入れば坑内は八畳敷高さ四尺(1.2m)あり、明治以降は山賊の住家で、捕吏の難を逃んが為とか云う。”と中はかなり広そうですが、入る勇気はない。
神明岩と比べると高さは低くなりますが、左側にある巨岩もかなり大きく、さらに左側で十三仏の岩につながっています。
この岩の下にも石仏が並び、百60躰の石仏が祀られているというのもよく分かります。
神明岩の右側に回り込むと「岩戸神明神社」の鳥居があり、ここでも岩の間に大量の塩が供されています。
神明岩の右側には神社が祀られ、左側へ行くと十三仏の摩崖仏があるという岩戸山には神も仏も巨岩に宿る。
右側の道はここより先へは進めませんが、横から見ても神明岩が尋常な大きさではないことが分かります。
登山口から中腹を越えた辺りまでの鬱蒼とした暗さはどこへやら、光に満ち溢れた世界が広がります。
境内の外れまで来ると箕作山や赤神山への登山ルートがあり、岩戸山の頂上まで行ってみます。
この道も2つの大岩に挟まれた道となっており、悪路になりますので杖を置いて登って行く。
で、これが道なのでしょうか?
どうやら岩を登って進めということなのでしょうけど、いきなりの岩登りになります。
登り終えた岩には『界』の文字が彫られています。
境内の巨岩に『境』の文字も彫られているといい、ここが神域の境界となるのかもしれません。
岩戸山は神明岩までは石段が続きましたが、頂上への道は険しい坂道となり、山登りが始まります。
岩場の途中に断崖がありましたので、恐る恐る突き出した岩の先端まで行き、下界の風景を眺める。
頂上と思われる場所にも岩が点在しており、下の岩には色あせてはいますが、紅白の晒が巻かれている。
この岩も何か信仰があったのかと思いますが、真ん中の岩には方向を示す矢印が彫られています。
調べてみると、岩に彫られた矢印は「旗振り通信」の場だったといい、江戸時代中期から明治期にかけて大阪の米相場の情報を伝えるための伝達手段だったようです。
その伝達速度は、熟練した者ならば旗振り場の間隔を3里とした場合、通信速度は時速720kmということになるとの説もあり、先物取引だった米取引には一刻も早く相場の情報を得ることが求められたのでしょう。
岩戸山の場合は、野洲の旗振山から情報を受けて、彦根市の荒神山~佐和山へと情報伝達を行ったとされます。
岩戸山の頂上で折り返して下界を眺めると、八幡山の向こうに琵琶湖が見える。
山上から琵琶湖が見えると嬉しくなるのは琵琶湖愛かな。
方角を変えると、丸山と西の湖だろうか?
水の色のブルーが美しい。
下山して岩戸山を振り返ってみる。
山頂に2つのピークがありますが、左が岩戸山で、右が小脇山かと思います。
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