僕はびわ湖のカイツブリ

滋賀県の風景・野鳥・蝶・花などの自然をメインに何でもありです。
“男のためのガーデニング”改め

御朱印蒐集~日吉大社摂社 唐崎神社~

2017-04-13 07:28:28 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 近江八景『唐崎の夜雨』の名勝 唐崎神社は、由緒によると日吉大社で代々神職を務められた家の先祖である「琴御館宇志丸」という方が「唐崎」と名付けた地にある小さな神社です。
また、日吉大社の西本宮の御祭神である大己貴神を奈良の三輪山から天智天皇によって勧請された折には、琵琶湖を渡り唐崎の地に降り立ったとされることから日吉大社と縁の深い神社とされています。

日吉大社の神事に「みたらし祭り」という祭典があり、これは平安時代の貴族により行われていた「七瀬の祓」の一所とされる唐崎神社の夏の禊神事になっているそうです。
比叡山の麓にある日吉大社は、平安京の魔除・比叡山延暦寺の護法神とされていますが、ここ唐崎神社はその日吉大社の摂社といことになります。



創建は奈良時代、持統天皇(天智天皇の娘・女帝)の御代の697年とされ、御祭神は「女別当命(わけすきひめのみこと)」。
女別当命は、唐崎を名付けた琴御館宇志丸の妻とされており、平安時代から姫君達が訪れてお祓いをされていたことから、現在も女性の方の参拝が多いそうです。



細い生活道路へ入っていくと見えてくるのは鳥居の姿。神社のすぐ後方には琵琶湖が見えています。
鳥居の外側の看板には「下の病 平癒祈祷」と書かれてあり、下の病・婦人病平癒に御利益のある神社ゆえに女性の参拝が多いのかもしれません。



参拝は拝殿からになりますが、拝殿の前には「ちの輪守」・「みたらし団子守」という少し変わった授与品がありました。「ちの輪守」は便所のお守りで、婦人病などに利益があると書かれてあります。
「みたらし団子守」は日吉大社の「みたらし祭り」をもじった縁起物と受け取れます。



拝殿の隙間から垣間見える本殿は小さな祠のように見えます。参拝に来ておられる方の大多数は女性の方でしたので、やはり女性に御利益のある神社なのでしょう。
さて、霊松「唐崎の松」ですが、横に大きく広がっている松でした。



現在の霊松は3代目の松ということで、初代は633年頃に植えられた松だとされています。しかしこの松は1573年に大風によって倒れてしまったため、1591年に2代目の松が植えられたそうです。
初代の松が1000年近く生きていたことになることにも驚きますが、2代目の霊松は幹周り11㍍・高さ27㍍・東西に72㍍・南北に86㍍と伝わりますから、ホンマかいなというような巨大な松だったということになります。
とはいえ、江戸後期の歌川広重の唐崎夜雨図の松を見ると、まるっきりの嘘ではないようにも思えます。

3代目の現在の松は、2代目霊松が枯れてしまった後の1923年に霊松を引き継いだ松だそうです。
近くには将来の後継樹となるであろう松が2~3本植えられていて、不測の際には次世代の霊松としての引き継ぎに待機しているようです。



浜に建てられている石碑には「名勝 近江八景 唐崎の夜雨」と彫られており、琵琶湖の対岸には近江富士こと三上山の姿があります。
この石碑の左面には「七瀬祓所の址」と彫られていました。





ところで、唐崎神社の近辺には日吉大社にまつわる史跡をいくつか見ることが出来ました。
「神馬仮屋地」という石碑がありましたが、ここはかつて日吉大社の山王祭の神馬が繋がれる場所だったとされています。
江戸時代の古地図ではこの場所に「山王一の鳥居」があったとも記されているらしく、かつての日吉大社の社領の大きさに驚いてしまいます。



また琵琶湖にせり出すような形で山王鳥居が建てられている場所があります。
ここは「山王祭」の神輿渡御の際に7基の山王神輿がこの鳥居をくぐって船で唐崎神社へ渡っていくとのことでした。
釣り人が集まっていましたが、釣りのいいポイントにもなっているようですね。



余談になりますが、「みたらし祭」にちなんで神社の門前には“みたらし団子”の茶屋がありました。
注文を聞いてから焼いてくれるのですが、狭い店内には女性客ばかりが団子を食べておられます。やはり神社参拝の帰りには団子ですよね。



「みたらし祭」は“罪やけがれを祓って無病息災を祈るお祭り”といわれ、7月の終わり頃に盛大に行われるようです。
京都の下鴨神社でも「みたらし祭」は行われているといい、共にみたらし団子発祥の地とされています。


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西の湖の葦焼きは不動明王の火炎光背のようだった!

2017-04-10 19:17:17 | 風景・イベント・グルメ
 湖東の山の上から地上を見下ろしていると、西の湖から煙が上っていました。
何かと見てみると、どうやら近江八幡市の西の湖で葦焼きをやっているようです。

早速、西の湖へ行ってみると確かに激しい炎が上がっています。
どういう擬音が適当なのか分かりませんが、“ゴォー”とか“バキバキ”といった物凄い音と一緒に顔には熱風が吹きつけてきます。



まず感じたのは、“これは不動明王の火炎光背のようだ!”です。
不動明王は大日如来の化身とも使者とも言われますが、火炎光背は“人間の煩悩や欲望を烈火で焼き尽くす”激しい怒りの炎とされます。



この凄まじい炎の迫力を見ていると、烈火で焼き尽くすお不動さんの炎を感じざるをえませんでした。
炎の熱風で顔はサウナにいるように熱く、近くにまで火花が飛んできて延焼するのを防ぐために役の方が水をかけながら消火する慌ただしい姿が見えます。



ヨシ原は自然浄化作用を持ち、ヨシ焼きをすることで病害虫駆除や新芽成長の助けになるといわれます。
新芽が出て人の背丈より高くなった頃には、オオヨシキリが飛来して巣作りを初めて繁殖しますから、古来より自然のサイクルの一つに人間の手が関わってきたということなのでしょう。





西の湖には広大なヨシ原が広がりますから、どこまで燃やすのだろうと見ていましたが、お役の方々が休憩に入られましたので見物はそこで終わりとしました。
しかしこの凄まじい光景に偶然出会えたのは運が良かったな。不動明王愛のおかげかもね。


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御朱印蒐集~彦根市 大雄山 西圓寺~

2017-04-08 21:05:05 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 寺院巡りをしていると“一期一会”の機会を感じることがあります。
米原市にある西園寺を訪れた時のこと。標高100㍍少々の山裾にある集落で寺院への道が分からず、村人に道を聞いてみる。
“住職は不在ですよ”と教えてもらい寺院へたどり着きました。

西園寺は“普段から誰も常駐されておられず、設置してある販売機にコインを入れて入場すると寺の紹介が放送される寺院”と聞いていましたので、最初から境内を散策するだけのつもりでした。
ところが境内へ入ってみると、住職の奥さんがおられ“今日は本堂が開いていますから上がって参拝ください。”と寺運の良さを感じることになります。



西園寺は縁起によると、1388年に仁風実導和尚を開山に迎え、比叡山延暦寺の寺院として建立。6坊がこの一帯に点在してた天台宗の有力寺院であったと伝わります。
しかし、織田信長の比叡山焼き討ちに際して西園寺の全ての伽藍も焼き尽くされたとされます。

この焼失におって、天台寺院としての西園寺は無住の廃寺となってしまいましたが、江戸初期に彦根藩の援助により京都宇治の黄檗山万福寺の末寺として復興されたとされます。
西園寺は「びわ湖108霊場の第52番札所」とされ、「湖北27名刹の第52番札所」になっています。
108霊場は「湖西・湖北・湖東・湖南」に各27の霊場があり、その合計が108寺になるのですが、108霊場の1番札所は「石山寺」・結願の第108番が「比叡山延暦寺横川中堂」で札所が琵琶湖をぐるりと取り囲むように構成されています。



まず最初に目を引くのは「双龍閣(そうりゅうかく)」と呼ばれる中国風の窟門(竜宮門)で、何となく竜宮城の入り口のような趣がありますね。
左右の屋根が低いこのような門を牌楼(ぱいろう)式と言うようですが、この双龍門は住職の発案で建築業者を入れず、約5年の歳月をかけて西園寺の護持会と檀信徒によって建立されたようです。



西園寺は“観音様と龍の寺”と呼ばれ、額には八部衆の「天徳大龍王」の文字。
左右には、その龍王のしもべ八大龍王の、難陀龍王(なんだりゅうおう)と跋難陀龍王(ばつなんだりゅうおう)の彫刻が阿吽の仁王像のように本尊の観音様を守護しています。





龍目井(りゅうもくせい)と呼ばれる井戸の水で手を清めて、本堂へ参拝します。
本堂の外から参拝して終わりだなと思って行ったのが、ここで住職の奥さんに声を掛けてもらい本堂の中へ入れていただくことが出来たのです。



本堂の中には須弥壇に祀られた秘仏の「聖観音菩薩立像」と「脇侍2躰」、別室には「釈迦坐像」と「不動明王像」、復興開山の「桂崖禅師の坐像」が祀られ、奥の部屋からは玉泉庭という枯山水の庭が望めます。
本尊である「聖観音菩薩像」は33年に一度の御開帳される秘仏で、来年の秋頃に御開帳されるとありました。



「聖観音菩薩像」はリーフレットに載っていた写真では、かなり特徴的なお姿でずんぐりとした体型をした仏像です。
この仏像は、鎌倉後期に造像されたとされており、米原市の重要文化財に指定されているようです。


リーフレットより

本堂の中の部屋の各所には色彩鮮やかでファンタジックな仏画が展示されているのですが、展示されている絵は全てご住職が描かれたそうで、堂内が寺院ギャラリーとなっています。
天井画の極彩色の「大龍の図」もご住職が描かれた絵で、他の寺院の天井絵とは全く違った感覚の絵になっていました。

うまい具合にご住職が来られたのでいろいろお話を聞くことが出来たのですが、“最近まで台湾で絵の個展を開いていて寺の手入れが出来てなかったので、今日は寺の修理の職人ですよ。”と笑っておっしゃってます。
実はこのご住職は経歴を見ると、北京での日本人初の個展・ミュンヘンでの個展・高島屋や大丸での個展を開かれている画家であり、今は“中国の四川省成都の空林堂から頼まれた絵を書いているところです。”とのことでしたから世界で活躍されている画家さんのようです。
「びわ湖108霊場」の参拝者に配布するシールのデザインも作成中であり、本山である京都宇治の黄檗山万福寺では月に一回「檗画院」という画塾を開催して指導されているという超多忙な画家さんのようです。



また、ご住職は西陣織の着物に水墨画を描いたり、仏師として仏像の制作、焼き物での仏像制作、彫刻家としても活躍されています。
製作された聖観音菩薩の木彫りの像を見せていただきましたが、須弥壇に並んでいてもけっして見劣りしない出来栄えの仏像でした。

“美術は、元々は西洋のキリスト画から入ったんだけど、観音に魅せられて仏画を描くようになりました。”とおっしゃってましたが、驚くのは絵や造形だけでなく小説まで出版されていること。
“多才な方ですね。”と聞いてみたら“多才というより器用貧乏やな。”と笑っておられましたが、これだけいろいろな才能に恵まれている人を見ているとホント羨ましくなってしまいますね。



上の仏画は、境内にある近江稲荷堂の御本尊である「茶枳尼天(だきにてん)」を描いた仏画で、九尾の白狐の上に乗る天女の頭の上には宇賀神が祀られています。
この仏は空海の密教にいわれが残り、平安時代の神仏習合のおりに稲荷信仰の対象になったとされていますが、宇賀神がのっているのは地方独特の信仰によるものでしょうか。


看板より


「近江稲荷堂」は、山の傾斜を利用した斜面に祀られていて、茶枳尼天は閉じられた厨子の中に祀られています。
御神体の茶枳尼天には強力な神通力があるとされ、“人の死期を察知して、その人の心臓を食らって石の心臓と入れ替えて成仏させる。”
“信仰するものには大変慈悲深いが、刃向かうものには取り憑いたり、罰(たたり)を与えたりする”とされ、当地には狐付民話や口伝が多く残っているようです。



ご住職の書かれた小説は、「観音伝説」というチベット興林国の第三王女・妙善姫の話で、妙善姫と従者の永蓮・保赤が氷雪堂に咲く白蓮を目指して苦行の旅をする「西遊記の玄奘三蔵の旅」を連想させる物語です。
妙善姫は観自在菩薩の化身とされていますが、抹香臭い話ではなく、むしろ偉人伝のような仕上がりと思います。
また話の途中には考証や補足が追記されているので、物語がより分かりやすくなっているので読みやすい。



さて、このご住職の造形作品には寺院にまで行かなくても見ることの出来る彫刻があります。
それはJR坂田駅の駅前にある「山内一豊・千代の像」という平成17年に建立されたご住職の作品です。(裏側に作者名が掘られています。)
NHKの大河ドラマ「功名が辻」に合わせての建立だったのかと思いますが、当方も「功名が辻」が放送されていた時に見に行った記憶があります。



多忙で不在の時が多いご住職に出会えて話が聞けたのは、まさしく一期一会。
お寺へ行って絵画や彫刻・小説の話になるとは想像もしていませんでしたけど、いろいろと興味深い話が聞けたのは良かった。
多才な才能に恵まれたご住職が“作品には嘘がつけない。そのため勉強していかざるを得ないんです。”とおしゃっていたのは非常に印象的な言葉です。


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御朱印蒐集~敦賀市 誓法山 金前寺~

2017-04-04 18:50:50 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 金前寺は、敦賀市金ケ崎にある高野山真言宗の寺院で、織田信長と朝倉義景が戦った金ケ崎の戦いの舞台となった金ケ崎城址や現在は金ケ崎宮が社を構えているる金ケ崎山の麓にありました。
寺院の歴史は古く、736年に聖武天皇の勅願により“泰澄”が開山したとされています。その泰澄は奈良時代の修験道の僧で白山修験場を開山したと伝わり、白山信仰の基を作った僧といわれます。

泰澄は金前寺に本尊として十一面観音を祀り、現在の金ケ崎宮の位置に建立したとされています。
平安時代の811年には弘法大師 空海のご留錫(行脚中の滞在)があったとされ、往時には敦賀気比神社の奥之院として扱われていたこともあって、一帯に伽藍十二坊を有する大寺院だったと伝わります。



しかし、残念なことに織田信長の越前攻めにより、朝倉氏の金ケ崎城落城と共に兵火によって堂宇は焼失したとされます。
御本尊の十一面観音だけは焼失をまぬがれて、1662年に現在地に観音堂を再建して祀られたそうです。



戦火には再び襲われることになるのですが、太平洋戦争末期の1945年の敦賀空襲では堂宇・寺宝の一切を焼失・灰塵と化してしまいます。
その後、平成元年の1989年に金前寺を再々建、鐘楼堂建立(1999年)、五重塔建立(2005年)、本尊復元(2015年)と近年になって着々と復興してきています。



金前寺は「北陸三十三ヶ所観音霊場巡り」の特番札所として、「若狭観音霊場」の第二番札所・「北陸白寿観音霊場」の第三番札所とされています。
御朱印は2種ありましたが、「北陸三十三ヶ所の特番札所」の方を書いていただきました。

鐘楼には「南無大師遍照金剛」と「生かせいのち」の銘が寄進者の名と共に刻まれています。
「南無大師遍照金剛」には空海に帰依するという意味があるとされ、巡礼遍路の「同行二人」にもつながる名号といえると思います。



本堂は「誓法山」と書かれた扁額があり、中の土間のような拝所からお参り出来るようになっています。
そこでお参りしてから、堂内へ声をかけてみるとお寺の方が来て下さり、中でお参りしたい旨をお伝えしてみました。





応対していただいた方はゆうに90歳を超えている老僧の方で、ご住職ですか?と聞いてみると“私は先々代の住職です”とおしゃっておられました。
かなりのご高齢ではありますが、非常に明晰な話をされる方です。

内陣に入れていただき、須弥壇に並ぶ仏像にまずは線香をあげてお参りします。
仏像は本尊の「十一面観音坐像」を中心として左に「毘沙門天」、右に「不動明王」。
毘沙門天の左には2童子を従えたもう1躰の「不動明王」が並びます。

壁には空海と空海の師であり中国唐代の密教僧である恵果の絵が掛けられていました。
遣唐使で唐へ旅した空海が恵果阿闍梨によって真言密教を伝授された場面を描いているのでしょうか。



ご本尊の十一面観音坐像は2015年に復元されたもので真新しい感はありますが、太平洋戦争で焼失する前の姿を忠実に復元したとのことです。
焼失してしまったご本尊を撮した小さな写真が見つかったため、それを引き伸ばして京都の仏師に復元を依頼したそうです。
最初にまず模型を作ってもらいお姿を確認をしてから、あらためて仏像にしてもらったとおっしゃられていました。

写真が残っていたのは幸いでしたが、元々は秘仏として厨子に収められていたため、先々代のご住職は徴兵されて戦地へ行くまでに“本尊は一度しか見たことはない”と言われます。
太平洋戦争に徴兵されて、終戦後に戻ってきた時には寺院も仏像も自宅も全て焼けてしまっていたというのは悲しくも寂しい話です。



金前寺の境内には松尾芭蕉が「奥の細道」の旅で訪れた時に残した句が句碑として残されていました。
1761年に建立された「鐘塚」がありますが、風化が激しいのは“太平洋戦争での敦賀空襲で焼けて縮み、割れたため”ということです。



刻まれた句は、南北朝時代の金ヶ崎の戦いの故事(足利尊氏率いる北朝方に敗れた南朝方の新田義顕の無念の陣鐘)を聞いて、芭蕉が詠んだ「月いづこ 鐘は沈るうみのそこ」という句です。
碑に刻まれた字に墨を入れるのを「墨直し」と呼ぶのですが、敦賀俳句作家協会によって1983年から毎年、勤労感謝の日に墨直しを挙行されていますので、句碑にはくっきりとした黒い文字が見えます。



戦後70年、戦時を知る人は高齢化してしまい、当方も含めて“戦後生まれの人間”(この表現すら死語ですが...)にとっては戦争は歴史上の出来事になりつつあります。
金前寺は、戦後40数年を経てから復興が始まった寺院(本尊は戦後70年後に復元)。言い換えると戦災で焼かれてしまった寺院を復興するにはそれだけの時間が必要だったということになります。
先々代ご住職には、いろいろな話を聞かせて頂き、日常なら感じることのないような感謝の気持ちが湧いてくる思いがします。


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御朱印蒐集~彦根市 普渡山 済福寺

2017-04-01 18:25:25 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 黄檗宗(おうばくしゅう)は日本禅宗三派の一つですが、臨済宗(栄西)・曹洞宗(道元)などの鎌倉時代に始まった禅宗とは違って、日本では江戸時代に伝わり・始まった禅宗の宗派とされています。
1654年に中国臨済宗の僧(隠元禅師)によってもたらされ、隠元師が臨済宗の正式な法系の僧であったことから「臨済正宗」と呼ばれ、黄檗宗の本山である萬福寺(京都府宇治市)は15あるとされる臨済宗の各派の本山の一つとなっています。

彦根市にある黄檗宗の済福寺は400年前の大阪城落城の際の戦没者供養のため、彦根藩四代目藩主 直興の寄進により建立されたと伝わることから菩提を弔うための寺院という印象を受けますが、外観は一般的な禅宗の寺院というよりも中国明朝の影響を感じさせ、他の寺院ではあまり見慣れない雰囲気があります。



三門は中国風の雰囲気が漂う造りになっており、手前の石碑には「不許葷酒入山門」(不浄なものや心をみだすものは寺門内に入ることを許さない)と書かれてありました。
京都の萬福寺(黄檗宗の大本山)へは行ったことはありませんが、写真等で見ると、萬福寺の総門とここ済福寺の三門は外観が非常によく似た門になっていますね。



境内には正面に本堂、右側に観音堂が建てられており、本堂はやはり中国風の雰囲気のある建物です。
本堂の2階部分は改修時に幅を狭めたらしいのですが、そのためより中国風の建物に見えるのでしょう。



本堂の拝所には魚板(かいぱん)が吊るされており、魚板は時刻を知らせるという役割もありますが、“昼も夜も目を閉じない魚のように修行にはげめということ”という意味もあるようです。
本堂の障子に大仏様が見えていましたが鍵がかかっていましたので、隣接する住職さんの自宅のチャイムを鳴らしてお呼びしてしまいました。
なんでそんな大それたことをしてしまったかというのは、中にある彦根大仏をどうしても間近で見てみたい一念からでしたのでお許し下さい。



突然の訪問にも関わらず、ご住職夫妻には非常に丁寧な説明をしていただき感謝している次第です。
この大仏は高さ5.5㍍の「延命地蔵菩薩」で、1807年に彦根藩11代目藩主・井伊直中建立されたものとされています。



11代目藩主・直中と月舟如棹和尚(五代目住持)が同時に“京都寺町の誓願寺の柳の根元に、地蔵菩薩の御頭が埋もれているから、これを礼拝せよ”との霊夢のお告げを授かり、「安産地蔵尊」として大仏の胎内仏として祀ったとされています。
誓願寺は京都市中京区の新京極通りにある浄土宗の寺院で、丈六の阿弥陀如来像を本尊として祀る寺院です。
誓願寺に参拝した時に繁華街にありながらも、静かで落ち着いた本堂の中に安置されていた阿弥陀如来像に圧倒された記憶が残っています。


「安産地蔵尊」

胎内仏の「安産地蔵尊」は、「延命地蔵菩薩」の胸の丸い蓋を外すと、ちょうどお顔が拝めるようになっていて、開帳時の写真を見せての説明をしていただきました。
座して拝んだ視線の先に「安産地蔵尊」のお顔がきますからうまく造られているものです。



また大仏様の膝の上には厨子に納められた「子宝地蔵菩薩」が祀られており、本来お地蔵さんが左手に持っている玉の代わりに赤ん坊を抱いておられます。
この三躰の地蔵菩薩によって「安産・子安・延命」が叶い、お地蔵さまの「抜苦与楽」のご利益を与えて下さるとされます。



大仏様の裏側へ廻ってみると、大仏様の背後の地下部分に納骨堂があり、ここにも地蔵菩薩が祀られています。
ここで地元で墓参りや供養が出来ない状況になっている方の永代供養をされているそうです。
文字が刻まれていましたが内容は不明。この右下に納骨堂があります。

“ここは地下なので夏でも涼しいんですよ”と取りようによってはちょっと背筋がヒンヤリする話も少々...。
位牌や骨壷が並べられている場所ですから早く立ち去りたくなりましたけどね。



延命地蔵菩薩の上部左右には地蔵菩薩の脇侍である掌善・掌悪の像が安置されています。
時代は大仏様より新しいようですが、『延命地蔵菩薩経』に書かれた経を見せてもらいながら説明していただくことが出来ました。


掌善

 
掌悪

本堂の左右の壁には18羅漢像が祀られていますが、一般的には16羅漢というお釈迦様の弟子で優れた16人の弟子の像を祀ることが多いかと思います。
済福寺の本山である萬福寺の18羅漢には「慶友尊者(けいゆうそんじゃ)」「賓頭廬尊者(びんずるそんじゃ)」が加わっているとされますのでその影響からということなのでしょう。





堂内には他にも仏像が安置されていて、開山者である「大虚道清和尚坐像」がありました。
また「虚空蔵菩薩」と「「釈迦牟尼仏」が祀られており、大仏様以外にも仏像の多い寺院です。

写真左の虚空蔵菩薩は、講で廻っていた仏像か?どこかの寺院の仏像を預かったままその寺が無住になってしまったのか?今ではよく分らないとのことでした。
しかし厨子の中の虚空蔵菩薩の足元には“岩窟のような造作に苔の花のようなもの”が見られますので、それなりの由緒はあるものではないでしょうか。



写真の左に祀られていいるのは「釈迦牟尼仏」ですが、この仏像は開山時には御本尊として祀られていたものが、大仏建立にあたって後方に下げられたということだそうです。
仏像の光背や台座はキンキラして新しそうですが、仏像は開山時の本尊ですから江戸時代初期の作と考えられます。

境内には観音堂があり、中には千手観音が祀られているとのことでしたが、ガラス越しでよく見えなかったため、こちらは参拝のみ。
西国三十三ヶ所の観音さんと一緒に祀られているようですから、真言宗との関係もありそうです。



黄檗宗の寺院は中国・明の影響があってお経を唱える時に中国語読みで唱えることがあるそうです。
経典を見せてもらいながら「般若心経」の中国語読みを聞かせてもらったのですが、随分発音が違うように聞こえます。
日本では南無阿弥陀仏を“ナムアミダブツ”と読みますが、中国語では“ナムオミトフ”と読むそうです。寺院巡礼のたびに新しい発見がありますね。


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