速谷神社本殿脇に祀られている境内社の稲荷神社であるが、天保13年(1842)に刊行された厳島図会の絵図速田社をみていると境内社が蛭子社となっていた。
元禄11・14年(1698・1701)の速田神社焼失再建の記述に蛭子宮とあり、安政6年(1859)の諸事書出帳など江戸期の史料には胡子社、恵比須社とみられる。昭和9年(1934)の速谷神社造営誌には境内神社として稲荷神社とされているがどのような経緯で改祀されたのであろうか。
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