前回、前々回と戦争の悲劇が戦後も続いていたことをかすかな記憶を基に書いて見た。あまり知られていないようだが、戦中・戦後の生活がわかりやすく展示されている展示館が東京に2つある。
東京の九段下駅すぐ傍の 「昭和館」
「館長のごあいさつ」によれば、「昭和館は戦没者遺族をはじめとする国民が経験した戦中・戦後の国民生活上の労苦を後世代の人々に伝えていこうとする国立の施設・・・館内には、当時の国民生活にかかわる実物資料を多く取り入れ、その背景もわかりやすく説明した常設展示室、・・・戦中・戦後の映像・写真資料・・・」とある。
6月も20校以上の小中学校が訪れている。
ぜひ時間を作って一度訪れて見てはいかがでしょうか。時間のない人はホームページ上で展示品の一部だけでもご覧ください。
「平和祈念展示資料館」
新宿住友ビルの33階。
「平和祈念展示資料館(戦争体験の労苦を語り継ぐ広場)は、恩給欠格者(軍人在職期間が短い等の理由で恩給や年金を受けられない人)、シベリアでの強制抑留者、引揚者などの方々の労苦についての理解を深めていただくことを目的として、平和祈念事業特別基金が開設した施設です」
実物にははるかに及びませんが、ホームページ上で館内の一部が見られます。
太平洋戦争(第二次世界大戦)が終わった時点で、海外に残された日本人の数は、軍人が約320万人、一般人が約300万人以上という。この600万人以上の人が一日でも早く日本へ帰国できるよう民族の大移動とも言うべき大事業が敗戦の混乱の中で行われ、まず昭和20年9月28日、舞鶴をはじめ9港が引揚湾に指定された。
マッカーサーは人道的立場から協力的で、東南アジア、台湾、中国、韓国などからの引き揚げは1946年には9割以上達成された。しかし、ソ連占領下の北朝鮮や満州などでは、引き揚げは遅れた。実際、関東軍70万人のうち、66万人はシベリアに抑留され、強制労働に従事させられることになる。
なお、引揚船は在日中国人・朝鮮人の帰国船ともなり、中国へ3,936人、朝鮮へ29,061人を送還した。
満州から帰国しようとした開拓者らは食糧事情などで途中力尽きた者も少なくない。また子供を中国人に預けざるを得ないこともあり、いまだに残る中国残留日本人孤児の問題となっている。
藤原てい(夫は作家の新田次郎、息子は数学者というより「国家の品格」の著者の藤原正彦)が、子供を連れ満州より引揚げてきた体験をもとに、小説として記した『流れる星は生きている』は戦後空前のベストセラーとなった。
舞鶴港はこの間、66万人を越える引揚者を受け入れ、昭和25年からは国内唯一の引揚湾として最後まで重要な役割を果 たした。1958年9月の最終船入港で13年間の海外引き揚げ業務は終了した。
日本各地から夫や親族の帰還を待ち望む多くの人々が、舞鶴港へと出迎えに訪れた。
私が覚えているのは興安丸という引揚船の名前で、「今日も来ました・・・」で始まる「岸壁の母」という歌も覚えている。この歌は、引揚船で帰ってくる息子の帰りを待つ母親を歌ったもので、二葉百合子(300万枚)が歌ったと思っていたが、その前に菊池章子という人が歌ってヒット(100万枚)していたようだ。
舞鶴港の国別引揚者
ソ連 455,952(68%)、中国 191,704(29%)、韓国 14,225(2.1%)、北朝鮮 2,375(0.4%)、他 275(0.1%) 計 664,532人
舞鶴引揚記念館のホームページ
(http://www.maizuru-bunkajigyoudan.or.jp/hikiage_homepage/next.html)を参考にさせていただきました。
戦争は悲惨なもので、太平洋戦争が終わったあと、国の内外で生き残った人も家族や親戚などをばらばらにされた人が多かった。戦争が終わっても、戦災で家を焼かれ、家族がばらばらになった人、外地から帰還し、焼け野原で家族を探す人などが多くいたのだ。
子供の頃、昼間の決まった時間だったと思うが、ラジオで尋ね人情報を放送していた。「昭和○年ごろ、○○町にいた○○さん」とか、「○○中学○年卒業の○○さん」などと、次々延々と単なる尋ね人情報が読み上げられていく。安否を気遣い、再開を願う一人ひとりの切実な気持ちがあのNHKのアナウンサーの冷静な読み上げで淡々と語られていく。
子供の頃は尋ね人の放送があるのが普通の状態だと思っていた。
戦後の一時期だけではない。昭和21年(1946年)から10年間続いたのだ。
親を失った子供(戦災孤児)も多く、浮浪児(子供のホームレス、ストリート・チルドレン)と呼ばれた。上野の駅の近くの地下道で浮浪児がたくさんいるのを見た記憶がある。
あまり変わらない年頃の子が、じっと私の目を見た。あのギラギラとした目が忘れられない。あの子は?
戦争中、といってもイラク戦争でも、朝鮮戦争でもなく、アメリカと戦った太平洋戦争中のことだが、主食であるお米が不足して1941、42年からお米は配給制になった。このとき各世帯に配られたのが米穀通帳(べいこくつうちょう)で、正式には米穀配給通帳と言った。
戦後も米穀通帳は続いた。通帳には、氏名、住所、家族構成などが書かれていて、これがないと米屋に行っても米が買えない。食堂で米が入っているカレーライスのような料理を注文するには、米を持参するか米穀通帳を提出しなければならない時期もあった。
米穀通帳は、今の健康保険証や自動車免許証のように身分証明書かわりの、まさに命の綱の大切なものだったのだ。
食糧管理法という法律があって、個人が直接農家の方からお米を買うことは犯罪だった。しかし、配給だけでは誰もお米が足りないのでやみ米が出回っていた。たしか、裁判官だと思ったが、家族の中で一人、頑固に配給米だけしか食べずに栄養失調で死亡した人が居て、問題になったという記憶がある。
農家から米を買って都会へ持込むかつぎ屋がいた。かなり年とった小柄なおばさんが百キロはあろうかという山になった荷物を背中にベンチに座っている。電車が入ってくると、少し前かがみになり、スーと立ち上がり、何事もない様に電車に乗る。まさに手練の技だと思った。
ときどき警察の手入れがあり、ずらりと並ばされたおばさんたちと、唐草模様のふろしきに包まれた米の山。しかし、没収されても、もくもくと、翌日の農家へ買出しに出かけるのだ。たくましい時代でもあった。
配給米もやみ米も、質が悪く、新聞紙の上に広げて、混じっている石を拾った。これをやらないと、おいしい白米を食べている途中で、ジャリッと噛んでしまう。父親が、米を入れた一升瓶を両足で抑えて、棒でつついて、ぬかを落としていた光景を思い出す。
しかし、そもそも、米を食べられる日は少なく、スイトンやグリーンピース、サツマイモが主食だった。たまに食べる米もあの細長く、ポソポソした外米が多かった。
やがて正規ルートを通さないやみ米や、自主流通米が増え、1970年代になると米余りの状況に陥ったため、米穀通帳なしでどこでも米が買えるようになり、1981年に廃止された。
こんな時代を経て、今でも私はお茶碗の中の米粒ひとつも残すことはできない。たとえ、ウエストに問題があり、またその時、おなかが悪くとも。
先日、北朝鮮の食料事情のニュースを見た。そこに子供の時の自分が居た。
上野千鶴子「老人介護学を上野千鶴子が社会学する」の中に「人間は自分の意思でうまれてきたわけではないのだから、自分の意思で死にたいというのは傲慢だ」と言う主旨の文章がある。
上野さんは生まれたときはともかく、生きているうちはほとんど自分の意思を貫いて、私などから見ると貫き通して、生きてきているのだろうから、「自分の意思で死にたいというのは傲慢だ」と言っても良いのだろう。
一方、私を含め、多くの人は自分の意思を殺しつづけてきて、死に至る。だから、もう、後のことを気遣い、心配しなくても良い死ぬときぐらい自分の意思を貫きたいと思うのである。