(つづく)と書いたら、最低1週間以内に続きを書くべきであろう。
では前日の続きを書く。
・通信29号夏号(2007年6月23日発行)「『LPSA』の未来はバラ色」
・会報48号秋号(2007年9月8日発行)「文化祭1982」
・会報49号春号(2008年3月15日発行)「真部一男九段との思い出」
・通信31号夏号(2008年6月21日発行)「勇者の涙と己の恥」
・会報50号秋号(2008年9月6日発行)「船戸陽子女流二段の決心」
・会報51号春号(2009年3月21日発行)「金曜日の楽しみ」
「『LPSA』の未来はバラ色」
この内容は先日書いたので省略。このイベントの約1ヶ月後に開かれた将棋ペンクラブ関東交流会で将棋を指していると、石橋幸緒女流四段(当時)と御母堂がお越しになり、丁重な御礼の言葉をいただいたので、恐縮した。
私は別に誰のために書いたわけでもないが、石橋母娘から見れば、無名のペンクラブ会員が、今回のイベントを妙に詳しく書いているので、ビックリするやら有難いやらで、一言言わずにおれなかったのだろう。もっともさすがの石橋ママも、金曜サロンの会員とこのときの作者が同一人物だとは夢にも思わず、その事実を知ったのは最近のことであったらしい。
「文化祭1982」
私の通った高校は男子生徒4に対し女子生徒1という奇妙な比率で、ほとんど男子校のようなものだった。
毎年文化祭のときは真部一男七段(当時)をお招きし、指導対局をお願いしていた。その真部七段が、私が2年生のとき、ある女子高校将棋部との交流を企画してくれた。女子生徒に免疫のない、私の行動はいかに…。
この話の中には、真部七段を含め、3人のプロ棋士が登場している。いずれも名前は明かしていないが、文章を丹念に読めば、その棋士が分かるようになっている。植山悦行四段(当時)初登場の回でもある。
また最後の1行にあっと驚く記述があり、熱心な読者は最終的に、LPSAの所在地を確認する仕掛けになっている。
なお私のつけるタイトルには、アニメ界の巨匠・宮崎駿監督にあやかり、すべて「の」が入っている。今回もそのつもりだったが、上記のタイトルがピッタリで、どうしても「の」を入れることができなかった。
「文化祭1982」の算用数字のところは、「いちきゅうはちに」と読んでほしい。12作中、3番目に好きな作品。
「真部一男九段との思い出」
前年の11月24日に真部一男九段が急逝された。これはその追悼文。タイトルは「真部一男先生との思い出」にすべきだとは思ったが、肩書きの「九段」をどうしてもタイトルに入れたかった。
掲載された会報では、1月下旬、「真部一男九段 お別れの会」に参列した私が、花を手向けて合掌し、「涙があふれてきて、とまらなかった」と結んで終わっている。
ここだけ読めば、高校生のときに指導対局に来てくださった真部九段を、心から悼んで涙を流したようにとれる。
しかし実際はかなり違う。私は高校生当時、自分が不遇な毎日を送っていると決めつけ、真部七段の強さ、華やかさを妬ましく思っていた。だから離婚の話を風の噂で聞いたときも、奇病に罹っていると聞いたときも、とくに気の毒だとは思わなかった。
それは私が成長してからも持続し、真部七段がA級八段に昇級昇段したときも、ちっとも嬉しくなかった。
しかし真部九段が亡くなり、その人となりを知るにつれ、自分がいかに狭量な男だったかを思い知らされた。卑屈だった自分が恥ずかしく、情けなく、私はお別れの会で、いままでの非礼を初めてお詫びしたのだった。
私が流した涙の真相―。ペンクラブ会報には書かなかった、これが偽らざる事実である。
(つづく)
では前日の続きを書く。
・通信29号夏号(2007年6月23日発行)「『LPSA』の未来はバラ色」
・会報48号秋号(2007年9月8日発行)「文化祭1982」
・会報49号春号(2008年3月15日発行)「真部一男九段との思い出」
・通信31号夏号(2008年6月21日発行)「勇者の涙と己の恥」
・会報50号秋号(2008年9月6日発行)「船戸陽子女流二段の決心」
・会報51号春号(2009年3月21日発行)「金曜日の楽しみ」
「『LPSA』の未来はバラ色」
この内容は先日書いたので省略。このイベントの約1ヶ月後に開かれた将棋ペンクラブ関東交流会で将棋を指していると、石橋幸緒女流四段(当時)と御母堂がお越しになり、丁重な御礼の言葉をいただいたので、恐縮した。
私は別に誰のために書いたわけでもないが、石橋母娘から見れば、無名のペンクラブ会員が、今回のイベントを妙に詳しく書いているので、ビックリするやら有難いやらで、一言言わずにおれなかったのだろう。もっともさすがの石橋ママも、金曜サロンの会員とこのときの作者が同一人物だとは夢にも思わず、その事実を知ったのは最近のことであったらしい。
「文化祭1982」
私の通った高校は男子生徒4に対し女子生徒1という奇妙な比率で、ほとんど男子校のようなものだった。
毎年文化祭のときは真部一男七段(当時)をお招きし、指導対局をお願いしていた。その真部七段が、私が2年生のとき、ある女子高校将棋部との交流を企画してくれた。女子生徒に免疫のない、私の行動はいかに…。
この話の中には、真部七段を含め、3人のプロ棋士が登場している。いずれも名前は明かしていないが、文章を丹念に読めば、その棋士が分かるようになっている。植山悦行四段(当時)初登場の回でもある。
また最後の1行にあっと驚く記述があり、熱心な読者は最終的に、LPSAの所在地を確認する仕掛けになっている。
なお私のつけるタイトルには、アニメ界の巨匠・宮崎駿監督にあやかり、すべて「の」が入っている。今回もそのつもりだったが、上記のタイトルがピッタリで、どうしても「の」を入れることができなかった。
「文化祭1982」の算用数字のところは、「いちきゅうはちに」と読んでほしい。12作中、3番目に好きな作品。
「真部一男九段との思い出」
前年の11月24日に真部一男九段が急逝された。これはその追悼文。タイトルは「真部一男先生との思い出」にすべきだとは思ったが、肩書きの「九段」をどうしてもタイトルに入れたかった。
掲載された会報では、1月下旬、「真部一男九段 お別れの会」に参列した私が、花を手向けて合掌し、「涙があふれてきて、とまらなかった」と結んで終わっている。
ここだけ読めば、高校生のときに指導対局に来てくださった真部九段を、心から悼んで涙を流したようにとれる。
しかし実際はかなり違う。私は高校生当時、自分が不遇な毎日を送っていると決めつけ、真部七段の強さ、華やかさを妬ましく思っていた。だから離婚の話を風の噂で聞いたときも、奇病に罹っていると聞いたときも、とくに気の毒だとは思わなかった。
それは私が成長してからも持続し、真部七段がA級八段に昇級昇段したときも、ちっとも嬉しくなかった。
しかし真部九段が亡くなり、その人となりを知るにつれ、自分がいかに狭量な男だったかを思い知らされた。卑屈だった自分が恥ずかしく、情けなく、私はお別れの会で、いままでの非礼を初めてお詫びしたのだった。
私が流した涙の真相―。ペンクラブ会報には書かなかった、これが偽らざる事実である。
(つづく)