前日の続き。
・通信31号夏号(2008年6月21日発行)「勇者の涙と己の恥」
・会報50号秋号(2008年9月6日発行)「船戸陽子女流二段の決心」
・会報51号春号(2009年3月21日発行)「金曜日の楽しみ」
「勇者の涙と己の恥」
1月に大阪で行われた1DAYトーナメントと、3月に府中で行われた1DAYトーナメントのレポート。
当初は大阪での1DAYのみを4頁程度で書く予定だったが、真部九段の追悼文を先に投稿したため、掲載が3ヶ月遅れた。これは当初、原題は「3つの『き』」だった。この「き」とは、観戦記、自戦記、旅行記の3つである。
東京-大阪間を結んでいる寝台急行「銀河」に乗るチャンスだったのだが、さすがに乗車賃が高いので、夜行バスで大阪まで行った。ところがこの年の3月に「銀河」が廃止になり、唯一の乗車の機会を逃してしまった。
文中ではカノタマこと鹿野圭生女流初段に会うのを目的としているが、当時LPSAで人気絶頂だった島井咲緒里女流初段の追っかけも兼ねていた。
また当日は大阪国際女子マラソンのほかに大阪府知事選挙も行われていた。立候補者掲示板に「橋下―」の文字を見つけ、橋の下と書いて「はしもと」と読ませるとは珍しい、あの弁護士と同じじゃないかと思ったら、当人だったのでビックリしたものだった。
1DAYの帰り道、新大阪へ向かう電車の中で、3割近くの乗客が「橋下氏当選」の号外を読んでいたのを思い出す。
掲載が3ヶ月遅れたので、府中での1DAYトーナメントの模様も書くことにした。このときは島井女流初段に、対局前だというのにくだらないクイズを出してしまい、後で事の重大さに気付いて青くなった。先月名人戦で、対局者の考慮中にサインを所望する観戦記者がいたが、私も非難できる立場ではなかった。
このときの1DAYでは、お膝元である中倉彰子女流初段、宏美女流初段(当時)の袴姿が艶やかで、閉会のコメントでの、おふたりの美しい涙が印象に残っている。
「船戸陽子女流二段の決心」
昨年5月31日の将棋ペンクラブ関東交流会に、船戸陽子女流二段が指導対局者としてお越しになり、私も角落ちで教えていただいた。これはその自戦記。
というのは表向きの説明。この前年、女流棋士会から17人が独立したが、船戸二段は残留した。しかしそのあとの船戸女流二段の言動が、他の棋士とは異質だったため、私は彼女に注目をしていた。
同時にこのころ、インターネット上で、船戸女流二段が日本女子プロ将棋協会(LPSA)に移籍か? という噂が立ち、私はこの交流会と同日に行われたLPSA1周年記念パーティーで、船戸女流二段がサプライズ移籍を発表すると読んだ。
ところが交流会に行くと、船戸女流二段が何か吹っ切れたような貌で、指導対局をこなしているではないか。途中で抜け出してパーティーに行ってほしいと願うが、船戸女流二段は動かない。けっきょく私は傷心しつつ、LPSAのパーティー会場に向かう、という話。
この掲載号はペンクラブ大賞発表号だったが、観戦記大賞や優秀賞がそれぞれ7頁の文章量だったのに対して、私のそれは8頁半の大作となり、私の投稿のほうが目立ってしまった(たぶん)。幹事の方々から、「今回の投稿は長すぎる!」と、非難轟々だった。ただ、第三者から見れば、この作品が私の代表作になるのだろう。
当然ながら船戸女流二段当人には掲載誌を贈呈するつもりだったが、会報発行後、金曜サロンでの担当日が合わず、そのままになっていた。
ところが、10月に行われたペンクラブ大賞贈呈式で船戸女流二段と松尾香織女流初段がお越しになり、式に初めて参加した私は脂汗をかいた。何しろ文中には、「船戸女流二段が美人で驚いた」とか、「素晴らしいプロポーションだ」とか、「香水のいい香りがする」とか、「指が白くて長くてキレイだ」とか、いかにもオッサンが書いたような、変態的とも思える表現の羅列があったからだ。
松尾女流初段は、「読みましたよ」とニヤニヤしながら言う。肝心の船戸女流二段はというと、私は極力目を合わさないようにしていたが、やがて船戸女流二段がこちらへ近づいてきて、このときは心臓が破裂するかと思った。しかし
「良く書いていただいて、ありがとうございます」
と大人の対応をされて、ホッとしたものだった。
一部の将棋ファンから、「一公は船戸女流二段のファンである」という言葉が聞かれるようになったのは、この投稿があったからである。
なおタイトルの「船戸陽子女流二段の決心」は、交流会で船戸女流二段の表情があまりにも晴れやかだったため、「女流棋士会に残る決心をしたのだろう」と私が推測したから。もちろん、タイトルに船戸女流二段の名前を入れたかった、という理由もある。しかし船戸女流二段の本心が当時どうだったかは、憶測の域を出ない。だからこのタイトルの本当の意味は、船戸女流二段しか知らないのである。
「金曜日の楽しみ」
私が金曜サロンに通うことになった経緯や、サロン内での指導対局システムを書いた。
昨年4月から金曜サロンの手合い係に着任した植山悦行七段のエピソードに、多くのスペースを割いている。いまや植山七段は、金曜サロンの要だからだ。
また昨年7月1日付でLPSAに移籍した船戸女流二段のことも、「船戸陽子女流二段の決心・完結編」というテーマで触れている。
さて本日23日は、いよいよ東京・将棋会館で年に1度の「将棋ペンクラブ関東交流会」が開かれる(参加は誰でもOK)。どうにか雨も降らないようだ。
今日は「将棋」にどっぷり浸かりたいと思う。
・通信31号夏号(2008年6月21日発行)「勇者の涙と己の恥」
・会報50号秋号(2008年9月6日発行)「船戸陽子女流二段の決心」
・会報51号春号(2009年3月21日発行)「金曜日の楽しみ」
「勇者の涙と己の恥」
1月に大阪で行われた1DAYトーナメントと、3月に府中で行われた1DAYトーナメントのレポート。
当初は大阪での1DAYのみを4頁程度で書く予定だったが、真部九段の追悼文を先に投稿したため、掲載が3ヶ月遅れた。これは当初、原題は「3つの『き』」だった。この「き」とは、観戦記、自戦記、旅行記の3つである。
東京-大阪間を結んでいる寝台急行「銀河」に乗るチャンスだったのだが、さすがに乗車賃が高いので、夜行バスで大阪まで行った。ところがこの年の3月に「銀河」が廃止になり、唯一の乗車の機会を逃してしまった。
文中ではカノタマこと鹿野圭生女流初段に会うのを目的としているが、当時LPSAで人気絶頂だった島井咲緒里女流初段の追っかけも兼ねていた。
また当日は大阪国際女子マラソンのほかに大阪府知事選挙も行われていた。立候補者掲示板に「橋下―」の文字を見つけ、橋の下と書いて「はしもと」と読ませるとは珍しい、あの弁護士と同じじゃないかと思ったら、当人だったのでビックリしたものだった。
1DAYの帰り道、新大阪へ向かう電車の中で、3割近くの乗客が「橋下氏当選」の号外を読んでいたのを思い出す。
掲載が3ヶ月遅れたので、府中での1DAYトーナメントの模様も書くことにした。このときは島井女流初段に、対局前だというのにくだらないクイズを出してしまい、後で事の重大さに気付いて青くなった。先月名人戦で、対局者の考慮中にサインを所望する観戦記者がいたが、私も非難できる立場ではなかった。
このときの1DAYでは、お膝元である中倉彰子女流初段、宏美女流初段(当時)の袴姿が艶やかで、閉会のコメントでの、おふたりの美しい涙が印象に残っている。
「船戸陽子女流二段の決心」
昨年5月31日の将棋ペンクラブ関東交流会に、船戸陽子女流二段が指導対局者としてお越しになり、私も角落ちで教えていただいた。これはその自戦記。
というのは表向きの説明。この前年、女流棋士会から17人が独立したが、船戸二段は残留した。しかしそのあとの船戸女流二段の言動が、他の棋士とは異質だったため、私は彼女に注目をしていた。
同時にこのころ、インターネット上で、船戸女流二段が日本女子プロ将棋協会(LPSA)に移籍か? という噂が立ち、私はこの交流会と同日に行われたLPSA1周年記念パーティーで、船戸女流二段がサプライズ移籍を発表すると読んだ。
ところが交流会に行くと、船戸女流二段が何か吹っ切れたような貌で、指導対局をこなしているではないか。途中で抜け出してパーティーに行ってほしいと願うが、船戸女流二段は動かない。けっきょく私は傷心しつつ、LPSAのパーティー会場に向かう、という話。
この掲載号はペンクラブ大賞発表号だったが、観戦記大賞や優秀賞がそれぞれ7頁の文章量だったのに対して、私のそれは8頁半の大作となり、私の投稿のほうが目立ってしまった(たぶん)。幹事の方々から、「今回の投稿は長すぎる!」と、非難轟々だった。ただ、第三者から見れば、この作品が私の代表作になるのだろう。
当然ながら船戸女流二段当人には掲載誌を贈呈するつもりだったが、会報発行後、金曜サロンでの担当日が合わず、そのままになっていた。
ところが、10月に行われたペンクラブ大賞贈呈式で船戸女流二段と松尾香織女流初段がお越しになり、式に初めて参加した私は脂汗をかいた。何しろ文中には、「船戸女流二段が美人で驚いた」とか、「素晴らしいプロポーションだ」とか、「香水のいい香りがする」とか、「指が白くて長くてキレイだ」とか、いかにもオッサンが書いたような、変態的とも思える表現の羅列があったからだ。
松尾女流初段は、「読みましたよ」とニヤニヤしながら言う。肝心の船戸女流二段はというと、私は極力目を合わさないようにしていたが、やがて船戸女流二段がこちらへ近づいてきて、このときは心臓が破裂するかと思った。しかし
「良く書いていただいて、ありがとうございます」
と大人の対応をされて、ホッとしたものだった。
一部の将棋ファンから、「一公は船戸女流二段のファンである」という言葉が聞かれるようになったのは、この投稿があったからである。
なおタイトルの「船戸陽子女流二段の決心」は、交流会で船戸女流二段の表情があまりにも晴れやかだったため、「女流棋士会に残る決心をしたのだろう」と私が推測したから。もちろん、タイトルに船戸女流二段の名前を入れたかった、という理由もある。しかし船戸女流二段の本心が当時どうだったかは、憶測の域を出ない。だからこのタイトルの本当の意味は、船戸女流二段しか知らないのである。
「金曜日の楽しみ」
私が金曜サロンに通うことになった経緯や、サロン内での指導対局システムを書いた。
昨年4月から金曜サロンの手合い係に着任した植山悦行七段のエピソードに、多くのスペースを割いている。いまや植山七段は、金曜サロンの要だからだ。
また昨年7月1日付でLPSAに移籍した船戸女流二段のことも、「船戸陽子女流二段の決心・完結編」というテーマで触れている。
さて本日23日は、いよいよ東京・将棋会館で年に1度の「将棋ペンクラブ関東交流会」が開かれる(参加は誰でもOK)。どうにか雨も降らないようだ。
今日は「将棋」にどっぷり浸かりたいと思う。