2007年5月30日、日本女子プロ将棋協会(LPSA)が発足し、その4日後に、東京・新宿で記念イベントが開かれた。
私はこうした将棋のイベントにはまったく興味がなく、強いてあげれば、1990年12月にわざわざ新潟まで行って、JT杯日本シリーズ決勝戦・谷川浩司竜王対中原誠名人戦を観戦したぐらいであった。
だから通常なら無視を決めこむところだが、今回に限っては、17人の女流棋士が明確な意思をもって独立した直後の、新団体の発表を兼ねた、晴れのイベントである。
場所も自宅からは遠くない。半ば野次馬的感覚で、私は新宿へ向かったのだった。
当日の司会は中倉彰子女流初段、宏美女流初段(当時)の姉妹コンビだったが、考えてみれば、女流棋士を拝見したのは今回が初めてだった。
あっ、違った! むかし自宅近くの将棋道場で、矢内理絵子女流を見たのが最初だった。これはスゴイことだ。
それはともかく、新宿ではLPSA所属17名のうち12名が参加し、たいへん豪華なイベントとなった。
あれは石橋幸緒女流四段(当時)と竹俣紅アマ三段の目隠し対局のときだったか。私はステージの最後方でその戦いを観ていたのだが、3メートルくらい前にいた男性が、何気なくこちらを振り向いた。
「…!!」
お互いビックリマークだったと思う。
その男性は将棋ペンクラブ幹事のW氏だった。もっともW氏とはその2年前のペンクラブ交流会で1度お会いしたきり。湯川博士先生の例を引き合いに出すまでもなく、お互いの顔を忘れていても不思議ではなかった。
だがW氏はお笑いタレントの原口あきまさソックリだから忘れようがないし、私もアキバ系の怪しい風体だから、一度見たら記憶に残りそうだ。
と、原口…いやW氏がトコトコやってきて、私に話しかけてきた。
「お久しぶりです」
「あ、こちらこそお久しぶりです。いつも原稿のほう、すみません」
ペンクラブの原稿は、手書き原稿は湯川統括幹事へ直接郵送するが、メールでの投稿は、まずW氏のアドレスへ送る。私はワープロで書きメールで送信するので、W氏にはいつもお世話になっていたのだ。
するとW氏は、意外な言葉を口にした。
「このイベント、書きますか?」
突然の執筆依頼だった。
「え!? いいんですか? でも次号の締め切りはとっくに過ぎちゃってるでしょ」
「大丈夫です、空けときますから」
「でも締め切りまで時間がないでしょ?」
「明日の夜までにお願いします」
「何行ですか?」
「100行程度で」
「そうですか…。じゃあ書かせてください」
予想もしない事態となった。
ペンクラブ通信(会報も同じ)の頁構成は1行17文字で23行、これが1段。それが3段組になっている。つまり1頁17文字×69行になる。100行だと1頁半というところか。
それまではのんびり見ていたが、書くと決まったからには「取材」をしなければならない。この大義名分を自らに言い聞かせ、私はまず、近くを通った島井咲緒里女流初段に話しかけた。取材だからいいのだ。
「し、島井先生、はじめまして。たしか先生、クイズミリオネアに2回出場されましたよね」
「あ、よくご存じですね。ヘヘ」
写真で見るより数倍美しい、とボーッとしつつ、次は藤森奈津子女流三段にも声を掛けてみる。
「藤森先生、はじめまして。私むかし、藤森先生のお父様に一度だけ将棋を教わったことがあります」
しかし藤森三段は、「はあ…」と言ったまま怪訝な顔をしている。それもそのはずで、私が教わったのは、神田真由美女流初段(当時)のご尊父だった。
うしろを振り返ると、植山悦行七段と中井広恵女流六段ご夫妻がニコニコ佇んでいる。
「う、植山先生、こんにちは。私、高校生のとき、T女子高の文化祭で、う、植山先生に将棋を教えていただいたことがあります」
しかし当たり前だが、植山七段は当時のことを憶えていなかった。まあそれはそうだろう。いままで何百人もの人に指導対局をしてきたのだ。いちいち顔や場所を憶えているわけがない。ましてや25年も前の話である。
けっきょく、取材と言い聞かせて女流棋士や男性棋士に話しかけたものの、あまり親しくもなれず、妙な脂汗をかいただけに終わった。
ただ、イベント自体は大盛況だった。私は帰宅すると、この興奮を忘れないうちにワープロに向かい、一気に書き上げた。その分量、100行を大きく超える、2頁半。
私は推敲を済ませて翌日W氏に送信したが、布団にもぐると修正したい箇所がボロボロ見えてくる。私は布団から這い出すとW氏に再びメールをし、締め切りを延ばしてもらうよう請うた。と、2日延ばす旨の返信がきた。そこで私は再びワープロに向かったのだが、修正するたびに文章が長くなり、その結果、掟破りの3頁半となってしまった。
予定分量の倍である。構うもんかとそのままW氏に原稿を送信したが、これにはさすがにW氏も困ったようだった。しかしW氏も私に無理な原稿を依頼した負い目があるし、私だって今回のイベントを過不足なく伝えるには、この文章は削れない。
結果、W氏が台割とレイアウトを大幅に変更してくれ、LPSA発足イベントレポート「『LPSA』の未来はバラ色」は無事、ペンクラブ通信2007年夏号に掲載されたのだった。
それから私のLPSAとの関わりがスタートしたわけだが、私が2005年のペンクラブ交流会に参加していなかったら、W氏と接することはなかった。そしてこの新宿で、W氏が何気なくこちらを振り返らなかったら、私がレポートを書くこともなかった。あのレポート執筆がなかったら、私はここまでLPSAに注目したかどうか。
「縁」とか「運命」とかいってしまえばそれまでだが、とにかくW氏には、いまでも感謝の気持ちでいっぱいなのである。
私はこうした将棋のイベントにはまったく興味がなく、強いてあげれば、1990年12月にわざわざ新潟まで行って、JT杯日本シリーズ決勝戦・谷川浩司竜王対中原誠名人戦を観戦したぐらいであった。
だから通常なら無視を決めこむところだが、今回に限っては、17人の女流棋士が明確な意思をもって独立した直後の、新団体の発表を兼ねた、晴れのイベントである。
場所も自宅からは遠くない。半ば野次馬的感覚で、私は新宿へ向かったのだった。
当日の司会は中倉彰子女流初段、宏美女流初段(当時)の姉妹コンビだったが、考えてみれば、女流棋士を拝見したのは今回が初めてだった。
あっ、違った! むかし自宅近くの将棋道場で、矢内理絵子女流を見たのが最初だった。これはスゴイことだ。
それはともかく、新宿ではLPSA所属17名のうち12名が参加し、たいへん豪華なイベントとなった。
あれは石橋幸緒女流四段(当時)と竹俣紅アマ三段の目隠し対局のときだったか。私はステージの最後方でその戦いを観ていたのだが、3メートルくらい前にいた男性が、何気なくこちらを振り向いた。
「…!!」
お互いビックリマークだったと思う。
その男性は将棋ペンクラブ幹事のW氏だった。もっともW氏とはその2年前のペンクラブ交流会で1度お会いしたきり。湯川博士先生の例を引き合いに出すまでもなく、お互いの顔を忘れていても不思議ではなかった。
だがW氏はお笑いタレントの原口あきまさソックリだから忘れようがないし、私もアキバ系の怪しい風体だから、一度見たら記憶に残りそうだ。
と、原口…いやW氏がトコトコやってきて、私に話しかけてきた。
「お久しぶりです」
「あ、こちらこそお久しぶりです。いつも原稿のほう、すみません」
ペンクラブの原稿は、手書き原稿は湯川統括幹事へ直接郵送するが、メールでの投稿は、まずW氏のアドレスへ送る。私はワープロで書きメールで送信するので、W氏にはいつもお世話になっていたのだ。
するとW氏は、意外な言葉を口にした。
「このイベント、書きますか?」
突然の執筆依頼だった。
「え!? いいんですか? でも次号の締め切りはとっくに過ぎちゃってるでしょ」
「大丈夫です、空けときますから」
「でも締め切りまで時間がないでしょ?」
「明日の夜までにお願いします」
「何行ですか?」
「100行程度で」
「そうですか…。じゃあ書かせてください」
予想もしない事態となった。
ペンクラブ通信(会報も同じ)の頁構成は1行17文字で23行、これが1段。それが3段組になっている。つまり1頁17文字×69行になる。100行だと1頁半というところか。
それまではのんびり見ていたが、書くと決まったからには「取材」をしなければならない。この大義名分を自らに言い聞かせ、私はまず、近くを通った島井咲緒里女流初段に話しかけた。取材だからいいのだ。
「し、島井先生、はじめまして。たしか先生、クイズミリオネアに2回出場されましたよね」
「あ、よくご存じですね。ヘヘ」
写真で見るより数倍美しい、とボーッとしつつ、次は藤森奈津子女流三段にも声を掛けてみる。
「藤森先生、はじめまして。私むかし、藤森先生のお父様に一度だけ将棋を教わったことがあります」
しかし藤森三段は、「はあ…」と言ったまま怪訝な顔をしている。それもそのはずで、私が教わったのは、神田真由美女流初段(当時)のご尊父だった。
うしろを振り返ると、植山悦行七段と中井広恵女流六段ご夫妻がニコニコ佇んでいる。
「う、植山先生、こんにちは。私、高校生のとき、T女子高の文化祭で、う、植山先生に将棋を教えていただいたことがあります」
しかし当たり前だが、植山七段は当時のことを憶えていなかった。まあそれはそうだろう。いままで何百人もの人に指導対局をしてきたのだ。いちいち顔や場所を憶えているわけがない。ましてや25年も前の話である。
けっきょく、取材と言い聞かせて女流棋士や男性棋士に話しかけたものの、あまり親しくもなれず、妙な脂汗をかいただけに終わった。
ただ、イベント自体は大盛況だった。私は帰宅すると、この興奮を忘れないうちにワープロに向かい、一気に書き上げた。その分量、100行を大きく超える、2頁半。
私は推敲を済ませて翌日W氏に送信したが、布団にもぐると修正したい箇所がボロボロ見えてくる。私は布団から這い出すとW氏に再びメールをし、締め切りを延ばしてもらうよう請うた。と、2日延ばす旨の返信がきた。そこで私は再びワープロに向かったのだが、修正するたびに文章が長くなり、その結果、掟破りの3頁半となってしまった。
予定分量の倍である。構うもんかとそのままW氏に原稿を送信したが、これにはさすがにW氏も困ったようだった。しかしW氏も私に無理な原稿を依頼した負い目があるし、私だって今回のイベントを過不足なく伝えるには、この文章は削れない。
結果、W氏が台割とレイアウトを大幅に変更してくれ、LPSA発足イベントレポート「『LPSA』の未来はバラ色」は無事、ペンクラブ通信2007年夏号に掲載されたのだった。
それから私のLPSAとの関わりがスタートしたわけだが、私が2005年のペンクラブ交流会に参加していなかったら、W氏と接することはなかった。そしてこの新宿で、W氏が何気なくこちらを振り返らなかったら、私がレポートを書くこともなかった。あのレポート執筆がなかったら、私はここまでLPSAに注目したかどうか。
「縁」とか「運命」とかいってしまえばそれまでだが、とにかくW氏には、いまでも感謝の気持ちでいっぱいなのである。