舅に遅れること2日、石原慎太郎さん(89)が亡くなった
舅は99歳、村の男では最高齢だった
義兄の謝辞によると、農家で生まれた舅は長男で、男4人女4人の8人兄弟で一番下の弟とは22歳離れているので、舅の長男(義兄)と1歳違い
同じ家で舅の母と舅の嫁が一年違いで子を産んだと言うことになる、大家族制の昔では珍しくもないことだった
戦争が始まると舅は殺すも殺されるも嫌だと言って、志願して台湾航路の輸送船の調理人となった
鉄砲や大砲で目の前の敵と殺し合うことはなかったが、安全地帯ではない
無防備で船足が遅い貨物船は敵潜水艦の格好の獲物だった
二度、魚雷が命中したがその貨物船は生き延びて終戦をむかえた
最後の航海では僚船5隻で台湾から引き揚げの人々を乗せて日本に向かったが途中で魚雷攻撃に遭い、貨物船三隻は無事だったが、旅客船2隻は乗員もろとも海底深く沈没した
父の同世代の魚屋さんも戦争中は台湾航路の貨物船でソナー係をしていたという、向かってくる魚雷音を聞いたときに死を覚悟したという
しかし魚雷の深度が合わなかったおかげで船の下を通り過ぎて九死に一生得たそうだ、やはり僚船の撃沈には何度も出会ったそうだ
そういう危険はあったけど、船には常に食料があり、炊事係なのでひもじい思いはしたことが無かったそうだ。
帰ってきてからは結婚して1男2女をもうけた、2女の妹がわが女房殿である
農業をしながら工場勤めをした、退職後は庭師となって庭木の管理などをしていた
自然の中で動くことが大好きで、地元の1000~3000mの山々は全て登った
最高峰の山には20数回登った、またスキーも得意で70過ぎまで滑っていた
登山から帰ってきて夕食を食べようとしていたら近所の人が山へ行って帰らないので捜索に言って欲しいと頼まれて休む間もなくまた山へ向かったという
幸い無事に救助されたそうだ
植物については学者並みでほとんどの名前を知っていた、そういった自然の植物の講師になって地元の人たちに教えていたそうだ
質素で贅沢をせず、昔ながらの先祖代々の家に住み続けて新築などしなかった
宮沢賢治の「アメニモマケズ」のような人生だったと義兄は語った
民生委員に推薦されるなど人柄は信頼されていた、美術や写真や読書が好きでそんな催し物を見に出かけるのが楽しみだった
自動車免許は無かったが90歳までバイクで村や町を走っていた
ヘビースモーカーだったが、病むことも無く99歳で大往生した
棺桶に好きなタバコを入れてやるかと誰か冗談で言ったが、「火葬場は禁煙だからダメだろう」と誰かが真顔で言った
代わりにバナナを入れた、焼きバナナになるかななんて戯言をいうほど99歳の葬儀は明るかった、結局バナナは跡形も無かった
昨日、今日と天気予報は曇りのち雪が続いたのに、二日とも晴れ渡った
「爺ちゃは晴れ男だ」と皆が言った、葬儀が終わると夕方から大粒のみぞれになった
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます