神様がくれた休日 (ホッとしたい時間)


神様がくれた素晴らしい人生(yottin blog)

味気なかったドジャースの今日の試合

2024年09月25日 19時01分54秒 | 野球
 正念場のドジャース、パドレス戦、他の地区では次々と地区優勝が決まっているが、ナ・リーグ東地区は1位大谷、山本のドジャース、2位ダルビッシュ、松井のパドレスが残り6試合で3ゲーム差の接戦
それが今日から直接対決の3連戦となった、白熱のゲームが予想されたが、あまりにも味気ない試合となった

大谷もいきなりの二塁打を打って、今日も複数安打&ホームランを期待したが、そこまでだった
大谷は打たない日があると「不調」「どうした」となるが、そうそう毎日ホームランや複数安打を打てるわけではない
それよりも、またしても先発投手が打ち込まれる展開、前回は期待の山本も早い回から打ち込まれKO!、今日もナックが4回4失点で4対1でドジャースは初戦を負けて2ゲーム差となった
打線も気が無いのかと言うほど打てなくて、たまのチャンスにも打てないし、それは9回無死1.2塁のチャンスででトリプルプレイで試合終了になったことからも、チャンスをとらえきれないドジャースの弱みが見えた
弱いチーム相手に大量得点を奪ってきたが、地区優勝を狙う強豪相手に、このような試合では、優勝も危うく見える
あと2試合負ければ追いつかれてしまう、最後の組み合わせはドジャースが有利に見えるが、どうなるかはわからない
プレーオフでも今の先発陣ではこころもとない、打撃陣がガンガン打って、毎試合二桁得点をあげなければ負けるかもしれない
せっかく大谷が入ってワールドシリーズ制覇を狙えると思ったのに、ちょっと終盤に負けが多くなっているドジャースだ
だがちゃんと帳尻を合わせるのもドジャース、今日の一試合でガックリすることは無い、「アッと驚くためご~ろ~」がドジャースの持ち味
きっと2勝1敗で勝ち越すでしょう・・・と予想します。




「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた(209) 甲越 川中島血戦 36

2024年09月24日 20時32分44秒 | 甲越軍記
 ここに相州小田原の城主、北條左京大夫平氏康という大将有り
その先祖を尋ねれば桓武天皇より七代の後胤、肥前守平惟将五代の孫、北條四郎時政の末流、相模次郎時行という者、暦応元年の春、後醍醐帝の七の宮を供奉し奉り、結城入道道忠と奥州下向の時、伊勢国安濃津の浦にて難風に遭い、ついに伊勢国に蟄居する
その妾が男子を産み、伊勢で出生の男子なれば伊勢小次郎時長と名乗らせ、その五代の孫に、伊勢新九郎長氏という豪傑あり。

その時、駿州の今川修理大夫氏親の遊客となり手柄を立てて、伊豆国韮山の城を守る
これより先、寛正二年、足利将軍義政公の令弟政知、伊豆国に下向して堀越殿と申す、在国三十三年、明応二年政知公卒去する
伊勢新九郎、襲い討って豆州を押領して北條に住み、後に剃髪して北條早雲入道と号した
同九年には相州を討って、小田原の城に住す、後柏原院永正十三年、その子左京大夫氏綱と共に、三浦入道道寸、同じく荒冶郎義意を殺して、新井の城を抜き、同十六年八十八歳にて卒す。

その子、氏綱、威勢盛んで父早雲を継ぎ武名は隣国に鳴り響く
氏綱の子、左京大夫氏康もまた父に劣らぬ勇将で武威ますます盛んになれば、軍を隣国に出して争う
中でも、管領職上野国平井の城に在る、上杉民部大夫憲政とは代々干戈を交えて争い、上州を併呑せんと望むところに、甲州から武田晴信が軍馬を上州に進めて、上杉旗下の安中、和田、倉ヶ野、松井田等の九将と戦うことが聞こえて来た
氏康は、それを聞いて大いに苛立ち、「北條と上杉が争うこと三代なり、そこに突然武田晴信が上州に攻め込み、旗下の城を攻め落とし、やがては上野を攻め取れば我が数年の骨折りは水泡に帰す」と諸大将と評議する
幸い、駿州の太守、今川義元は北條と同盟を結び、しかも武田と親戚であれば、今川に頼んで武田晴信の上州攻めを止めさせてもらいたいと、駿河に使者を送った。

温泉覚書

2024年09月24日 08時21分33秒 | 雑記
10代から温泉を覚えて温泉好きになった
とはいえ湯もいいが、昭和の時は温泉で泊まっての夜の宴会が楽しみだったと言う方が正しい、90%は魚屋組合とか、旅館組合などの親睦団体旅行だった
私は組合では10年以上旅行部長を担当して旅行者の人たちとも顔見知りになって、個人旅行でも便宜を図ってもらったりと役得もあった(バブル時代のいやらしい奴だったのです)
仕事でも、関東甲信越の旅行業者の会の担当を任されて営業をしたこともある
フィリピンへ行ったのも、この会の親睦旅行だった
当時は、今は廃業された山代温泉百万石の社長さんが会長をされていた。

群馬県や長野県の海なし県に、市の観光協会、市観光課、商工会議所のPRキャラバンで何度も出向いた
板前稼業のほかにも、こんなこともしていたのでしたっけっ。

湯治だとか、秘境の温泉でのんびりと言うのは当時は興味なかった
だいたいは有名温泉郷の300~600人くらい収容の大きなアミューズ的温泉旅館がほとんどだ
加賀屋、百万石、ゆのくに天翔、瑠璃光、高州園、藤井荘、法師、銀水荘、ニュー銀水、八幡屋、泉慶、萬國屋、ゆめつづり
ホテル浦島などなど
思わず出てくるフレーズ「あの頃は良かった」時代は高度成長からバブル期、日本中浮かれていた時だった、少しランクを上げれば一泊3万円が普通だった時代
年間400万人観光客を誇った加賀温泉郷もバブル崩壊で、今はあの賑わいは落ち着いたし、所によっては寂れてしまったし、閉館した宿も多い
特にバブル期には平均180万人だった片山津温泉は平成20年前後には3、40万人にまで落ち込み仕事にあぶれた仲居さんたちは山代温泉などに移っていったと言う話を聞いたものだ。

平成に入ってからは2~10人くらいの気が合った友達との旅行が増えた、家族、夫婦の旅行もあった
近年は格差社会が温泉旅館にも顕著で、一泊5万円、10万円の高級温泉旅館も珍しくなくなったし、手軽な1万円そこそこの宿までと幅広い。
バブル期は一部の高級旅館は別として、13000円クラスか、3万円クラスかの二択が多かったと思う。



どこへ行ったのか? どうでもいいことだが記憶をたどって思い出してみた
自分の備忘録として
◎=5回以上行っている温泉 〇回数は行った回数 太字はお気に入り

北海道、青森、秋田はゼロ
岩手県、花巻温泉
山形県、湯の浜温泉、蔵王温泉、上山温泉、天童温泉、温海温泉②、銀山温泉
福島県、岳温泉②、常磐ハワイアンセンター③、母畑温泉②、東山温泉②、
飯坂温泉②
宮城県、鳴子温泉、作並温泉
茨城県、北茨城大津港
栃木県、日光東照宮門前、那須湯本温泉、鬼怒川温泉③、湯西川温泉
群馬県、◎伊香保温泉草津温泉③、四万温泉水上温泉③、磯部温泉

新潟県、弥彦温泉、◎月岡温泉、蓬平温泉、湯田上温泉②、◎湯沢温泉
岩室温泉②、鵜の浜温泉③、赤倉温泉、桑どりゆったり村、
高柳じょんのび温泉、笹倉温泉、焼山温泉、◎姫川温泉、島道鉱泉、
梶山新湯蓮華温泉、佐渡

長野県、◎白馬温泉(平岩)、◎小谷温泉、大町温泉、上山田温泉②、
湯田中温泉、上諏訪温泉、下諏訪温泉、◎蒲原温泉、馬曲温泉、
南木曽温泉③、別所温泉、蓼科温泉②、奥蓼科温泉②、白骨温泉、栂池高原、木崎湖温泉、葛温泉、七福の湯(上田)、志賀山田温泉

富山県、宮崎鉱泉、◎小川温泉、◎小川温泉元湯、◎宇奈月温泉、
庄川温泉②、金太郎温泉

岐阜県、長良川温泉③、平湯温泉
千葉県、木更津温泉、鴨川温泉
東京都、台場大江戸温泉物語
埼玉県なし

山梨県、石和温泉②、河口湖温泉
神奈川県、箱根湯本温泉②

石川県、◎片山津温泉、◎山代温泉輪島温泉③、◎和倉温泉粟津温泉
福井県、芦原温泉③、小浜の温泉、敦賀の温泉民宿

静岡県、熱海温泉、稲取温泉②、舘山寺温泉、堂ヶ島温泉
愛知県、三谷温泉
滋賀県、雄琴温泉
京都、大阪、なし
奈良、市内の温泉ホテル
三重県、湯の山温泉、長島温泉
和歌山、白浜温泉②、勝浦温泉
兵庫県、宝塚温泉②、有馬温泉、淡路島の温泉
四国、中国はゼロ
大分県、別府温泉
その他の九州と沖縄はゼロ。 思い出したのは以上だが、漏れているのは当然あるでしょう、個人記録なのでスルーしてください。

宿泊ゼロの道県は、北海道、青森、滋賀、愛媛、徳島、高知、岡山、広島、山口、鳥取、島根、鹿児島
観光もしたことが無いのは北海道、愛媛、徳島、広島、山口、鳥取、島根、鹿児島の8道県。



「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた(208) 甲越 川中島血戦 35

2024年09月23日 20時23分22秒 | 甲越軍記
 去る四月十一日、川中島での戦いの最中に怪異な現象が起きて、両軍共に引き上げたことについて、山本勘助晴幸は晴信に「景虎、心憎く思えども、彼の軍備えは聞きしに違わず、なかなか容易な敵ではありませぬ
この度、幸いなことに景虎は越中に出陣とのこと、景虎の戦の様をぜひとも間者を放って逐一知りたいと思います」と言えば、馬場民部少輔、内藤修理正、前に進み出て「当世の諸大将、智愚剛臆の評を聞くに、抜群の秀でるあり、聞きしより劣るあり
景虎の軍略が名高いとはいえ、当家との対陣の様子を見れば、若大将であるからか、それともわが軍を恐れているからなのか、軍立て危うく見えるのは軍慮が足りないのか、深き謀があるからなのか、某らの量り知るところにあらず
大敵も怖れぬ、山本氏がかくまで申されるのなら、定めて深き思慮があるのでしょう
されども、この間者は大切であります、一つは越中の地理に人情に詳しい者であること、その二は、景虎に見破られて虜になったとしても、その場を切り抜ける弁舌巧みな利口者でなければ、当家の威信は地に落ちて笑いものになるでありましょう」と申せば、晴信も「もっともなことである」と同意する
そして晴信が選んだ患者は、故小幡入道日浄の六男、小幡弥三左エ門尉
勇猛にして弁才にて軍学に秀でる者、それに曹洞宗の会下大益という隠れ無き知識にて戦場さえも怖れぬ悟道徹底の僧を添えて、越中に忍ばせて遣わす。

そもそも全国の諸大将らは、それぞれに他国へ間者を三人、五人と忍び込ませてるのは常であり、それらを忍術者と申す
忍術者は敵国の風俗から地理、大将や兵の強弱、諸将の不和を伺い、神主、行者、百姓、などに身をやつして、あるいは隠形の術をもって敵の城中に出入りすることも可能とする

越後の国には、すでに武田の忍術者が入っている、その者は盲目の琵琶法師で、石坂検校と言う
平家物語を得意の名手で、聞く人に感を催させると名高く、戦の合間に石坂を屋敷に招いて平家物語を語らせる諸将も多く、盲目であることで安心して、ついつい軍の秘密まで漏らす諸士多く、それを石坂は一部始終つなぎを通じて晴信の耳に入れるのであった。

ある時、景虎は石坂検校の噂を聞き、「是非、平家物語を聞きたいものよ」と招き入れた
石坂は、この時来たりと喜び、精神を徹していと面白く語れば、座の一同は皆、心身を入れて聞きほれていたが、なぜか景虎一人が落涙して見えた
大将も石坂の語りに感激して涙を流したのだと、皆思い、石坂検校も座すところで景虎に問えば、景虎は「今、石坂が語った物語を聞いていて、わが朝(天皇が治める国=日本のこと)の武勇の盛んなりし時代を考えれば、鳥羽院の時代には内裏に妖怪現れて、帝を御悩ましけるを、八幡太郎義家が殿上の下の口に侯して鳴弦して(弓の弦を強くはじきながら鳴らして魔を払うまじない)、「我は鎮守府将軍八幡太郎義家なり」と名乗れば、たちまち妖怪は姿を消してしまった、帝もその後は平癒なされたのである
、その後は頼政が兵破りの矢をもって妖怪を射落とすと言えども化鳥なおも動き回って暴れるのを、猪の早太が九度も刀で貫き、ようやく退治したのであった
義家が鳴弦して妖怪を追い払った時から四十六年後のことであったが、武徳がはるかに劣ることは明白である
ましてや我らは頼政よりも四百五十年遅れて来た、我もまた頼政よりもなお劣ることを覚えずにはいられない、それを思うと悔しさでついつい涙が出てきたのである」との仰せを聞いて居並ぶ将士はみな「名将の武の志厚き事須臾(しゅゆ=すこしの間)も忘れることは無いのだ」と感じ入った。

景虎は、石坂に過分なる引き出物を与えて、思う仔細あって「当国に足をとどめるべからず」と国境から追放した
皆は、これをいぶかしがったが、後に武田の間者が捕らえられてはじめて、石坂が武田の間者であったことを知った
そして、あの時、景虎が平家物語の鵺(ぬえ)の一段の間に、石坂が間者であることを見抜いていたのだと、今更ながらに知り景虎の叡智を恐れた。








大相撲新時代 大の里大関になり、名大関貴景勝が引退 炎鵬再始動

2024年09月23日 06時31分33秒 | 大相撲
 この度の大雨災害で甚大な被害に遭われた能登地方、新潟・山形県境の皆様にお見舞い申し上げます。
一刻も早い日常生活への復帰をお祈りいたします。
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 入門当時から大器と注目していた大の里が、予想にたがわず入門9場所(1年半)という新記録で大関を射止めた(のは間違いない)。
この3場所で2度の優勝、優勝した場所の横綱照ノ富士にも勝っているし、通算でも照ノ富士に勝ち越している(霧島、豊昇龍が一度も勝てない照ノ富士に)
もう大関で留まる力士ではない、ケガさえしなければ横綱も来年には射止めるだろう
幕下10枚目付け出しは、数々のアマチュアタイトルを取った証
幕下は15枚目付け出しの伯桜鵬の一場所通過には負けたが、二場所で通過
十両通過も二場所の伯桜鵬にまたも遅れて三場所だった
しかし入幕のあとは11勝、11勝で二場所で三役小結にスピード出世
小結ではいきなり12勝で初優勝、関脇昇進、先場所は彼なりの不調だったが9勝、そして今場所は二度目の優勝で関脇二場所で大関昇進となった。

この間の成績は、幕下10勝4敗 十両で24勝6敗 幕内5場所で57勝18敗という凄さ、ライバル大関琴櫻でさえ6場所で63勝27敗、大の里は5場所で57勝だから、勝率は.760で.700の琴櫻を上回っている
幕内最高優勝2回、敢闘賞3回、殊勲賞2回、技能賞3回
まさに記録ずくめで相撲界の大谷になろうとしているかのようだ
次は最短横綱を狙う
横綱になったら、大鵬、北の湖、白鵬並みの最上級横綱になってもらいたい
因みに入門以来最短での横綱昇進は、同じ石川県出身の輪島で15場所という記録、大の里が5場所以内に横綱を射止めれば、これも新記録となる。
石川県勢が1.2となれば石川県は近年の相撲大国と言えるだろう
余談だが、貴景勝と同じく、椎間板ヘルニアで序の口まで転落した石川県出身の炎鵬は先場所から再出場となり、二場所連続6勝1敗で、来場所は三段目に上がりそうだ。

十両はケガから回復した尊富士が順当に優勝をして、来場所は幕内復帰が期待される、今の相撲界では大の里に続く大型力士期待の星だ
尊富士を破った嘉陽もこれから面白い存在になるかもしれない
大の里、白熊と同じ新潟能生の海洋高校相撲部出身、三人目の入幕が期待される。

貴景勝は残念ながら今場所をもって引退となったが、大の里の台頭を見て責任を果たせたと思う、椎間板ヘルニアで痛みをこらえての出場を続けた

序の口から始まった苦労人の貴景勝は幕内昇進15場所で大関に昇進した
小結、関脇ともに2場所で通過したが、大関昇進2場所で関脇に陥落、しかし関脇で12勝を挙げて特例で大関復帰、4回の幕内最高優勝をして、横綱昇進のチャンスも2回あったが、当時最強のモンゴル勢に阻まれて横綱にはなれなかった。
まだ28歳と言う若さで、霧島、翠富士と同年、若隆景、若元春兄弟よりも若い一番脂がのった年代だが(病気というか怪我と言うか)には勝てなかった
28歳の大関引退は史上2番目に若い大関の引退だそうだ。

以下はちょうど一年前の9月18日の記事です、初めて大の里の名前を出した
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前文略

去年の今頃は大関さえ何年もなり手が無いのではないかと思うほど上位陣は体たらくだった。
だが霧馬山、大栄翔、若元春、豊昇龍がライバル心を燃やして競うようになっていきなり相撲界は動いた。
そして霧馬山、豊昇龍のモンゴル勢二人が相次いで大関昇進、またしても日本人力士は置いて行かれた。
だが今場所は若手の琴ノ若が関脇に昇進してきて、新・関脇トリオが誕生した

ここから新大関が誕生かという期待は?である
それよりも、ここで足踏みしているうちに下から活きの良い日本人力士が次々と追い上げて来た。

私が先々場所から名付けた若手三羽ガラス、湘南乃海、豪ノ山、伯桜鵬は十両から入幕2場所で三役を狙える地位まで上がって来た。
残念ながら一番手と見られていた19歳の伯桜鵬は肩の故障で手術を受けるので、早くても来年の初場所までは休場だ。
おそらく幕下からの再出発となるが、まだ入門して4場所目、しかも若くて強い
20歳のうちに幕内上位まで上がってくるだろう。
お互い東西の5枚目、豪ノ山6勝2敗、湘南乃海5勝3敗と良い前半戦だった。
この3人にとどまらない再入幕21歳なりたての熱海富士も7勝1敗、15枚目だから二桁は間違いない。
「優勝できない男」元大関33歳の高安も7勝1敗この二人が先頭を走っている。

幕内だけ見ていてもだめだ、私は毎日幕下上位から見ているが、十両の下位が面白い。
ここにも新・入幕三羽ガラス同様の新十両クァルテットの強者が入幕を狙っている。
一番が幕下10枚目付け出しでデビューした大の里、入門3場所目で十両昇進でこの活躍、今日まで8戦全勝だ
新十両8連勝は佐藤(大関貴景勝)以来だと言うことだ。
あとの3人も天照鵬(向中野)21歳6勝2敗、朝紅龍(石崎)24歳5勝3敗、高橋24歳4勝4敗、楽しみだ。(*高橋は白熊)

さらにさらに幕下6枚目にも大物がいる、尊富士(たけるふじ)24歳
これは序の口から始まった生粋の相撲取りだ序の口から6場所で幕下6枚目
4戦全勝ですでに勝ち越しを決めた、通算成績も幕下以下と言えど36勝3敗と圧倒的だ
ちょっと輪島を思い出すような筋骨隆々、しかも勝負師の顔だ、来場所新十両は、ほぼ確定だろう。

先場所は思いがけず錦木33歳、北勝富士31歳が優勝まであと一歩という活躍をした。
今場所は、もう引退待ちかと思った元大関の高安33歳が7勝1敗、御嶽海30歳も5勝3敗と最近では健闘している。 遠藤32歳も5勝3敗 正代は良くないが時々優勝争いの力士を食うから目が離せない。

若手にも大型力士が控えている、まだ粗削りなので稽古をたっぷりして、相撲を覚えれば活躍できる惜しい力士たち
北青鵬21歳204cm、関脇琴ノ若25歳、金峰山26歳、琴勝峰24歳あたりだ

大相撲の戦国時代はまだまだ続きそうだ、豊昇龍も大関二場所目がカド番になりそうなピンチだ、3勝5敗 大関霧島、貴景勝は共にカド番で、5勝3敗
9日目から大関、関脇、小結同士の上位のつぶし合いが始まる。

今後1年6場所、大関を狙える期待の星は目白押し
その中で横綱になれるのは今後3年以内で1~2人だろう
現在の大関は下からの追い上げで3人とも横綱にはなれないだろう
上記にあげた若手で横綱まで手に入れられそうな力士は現在の番付では、湘南乃海、琴ノ若、大の里、伯桜鵬、尊富士、豪ノ山、熱海富士の中からではないだろうか。 天照鵬も化ける可能性はある
特に期待するのは湘南乃海、琴ノ若、大の里、伯桜鵬、尊富士
最初に幕内優勝そして大関になるのは誰だろうか。

北青鵬も相撲の基本を宮城野親方(白鵬)から学び獲れれば横綱の目はある。
当然、ここに名が無くてもモンゴル力士の強烈なのが出てくる可能性は高い

部屋別で見れば元稀勢の里の二所ノ関部屋、ここには大ノ里が所属
元白鵬の宮城野部屋は伯桜鵬、北青鵬、輝鵬、天照鵬が所属
この理論派の二人の元横綱が新横綱を育てることができるか、楽しみだ。

「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた(207) 甲越 川中島血戦 34

2024年09月22日 18時40分57秒 | 甲越軍記
 甲越の将兵は鬼となって戦場を切って回り、討つ者、討たれる者みな血しぶきをあげて我劣らじと戦えば、馬のいななき、兵の叫ぶ声天にまで届けば、突然、不思議の変起こる。

その始まりは、景虎が前日、善光寺山に本陣を構えた時、旗本大熊備前朝秀は本陣より六町ほど離れて陣を構えたが、士卒は今夜の薪を取るために、近辺を走り回り、竹木を伐り、民家を壊し、神領を侵した
神官らは驚き、大熊の陣屋に来て「当社明神と申すは、祀る神猿田彦大神にて渡らせ賜い霊験あらたなる御社なり、この神は瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)天上より降臨したまう時、先駆けまします御神にて、山王にては早尾神と申し、熱田にては源大夫と言い、また道祖神とも申し奉わる
船にては船魂、海辺には塩土翁と号し奉わり、軍神を守って幸いを得さし給う
冥助も神罰も著しく渡らせたまう霊神の神地を侵し給わんこと、御罰の程も恐ろしくそうらえば、速やかに軍勢らの乱暴を止め給うべし」と嘆いて言えば、備前守はうち笑い
「霊神であろうと霊仏であろうと、軍陣の要に用いることに何の恐れがあろうや、我を脅す汝らが申すことこそ憎い也」と言って、拝殿までも打ちこわし、その夜の薪として焼き捨てた

神は、その無礼を咎めて、その夜、大熊の陣所が鳴動することおびただしく、翌日、武田、長尾戦うところ、一転にわかにかき曇り、白日影を消し、一団の黒雲空中を二回り、三回りして、武田の陣の上に舞い下がり、また山嵐となって長尾の陣を指してたなびき覆う
あわやと見るうちに、長尾の旗指物は風に翻り、パタパタと鳴りはためき、しばらくして黒雲は四方へパッと散り失せた。

大将景虎は、これを見て「これただ事に非ず」と宇佐見駿河守と共に、先勢に馳出て軍配を取って軍勢を後方に引き下がらせた。
晴信もこの怪異に驚いて、山本勘助を引き連れて先陣に出でて、同じように引き下がらせた
両将の指揮の迅速なること、大波が一時に引くがごとく、まことに目を驚かせた。

その夜は互いに大篝を焚いて一夜を明かし、翌日に至り、越後陣より「毘」の指物の武者一騎、立文を竹に挟んで、うち掲げ、片手綱にて馬を乗りだし、武田の陣の近くの小山に降り立ち、立文を挟んだ竹をしかと突き立てる
これを見て、武田陣より鉄砲を雨あられと撃ちかけたが、少しも怖れず腰より扇を取り出して打ち開き、敵の方へ三度まで打ち招き、馬に乗りしずしずと立ち帰る

武田の陣からも黒の馬に赤母衣をかけた武者が一騎の乗り出て、この竹を持ち帰り晴信に奉ればその文に曰く
「今日、陣を払い、軍を能登越中の間に出し、征伐すべき間、貴殿もしばらく軍を休められるべし、勝敗は追って決すべし」と書き送られてあった
しばらくして武田陣より、むかでの指物の武者が一騎、竹に文を挟み、長尾の陣近くまで持ってきて立置いて帰陣する
長尾の陣より、初めの武者がこれを取って陣に戻り、景虎に奉る
その文には、「当陣を払い、能登越中に軍を移すとのこと承った、当家も軍を帰すなり、両家が干戈を交えるのは、村上の信濃帰還の事によるのが原因である、この義を思いとどまるならば、我らは何の遺恨も無い」
この応答が終わると、長尾勢は本国に帰り、武田勢も海津まで退き、六月に甲州に戻った。

*
*編者曰く 越後軍記には五月十日に景虎は晴信に十一日に一戦に及ぶとの使者を送ったところ、晴信も承知して、武田勢は桑原より押し出し、景虎も犀川を渡って陣を敷いた

黒雲の事は天変と言うほどにあらず、たまたまの風が激しく吹いたにすぎない
景虎ほどの猛将が戦の最中に強風に驚いて兵を引くとはありえまい
前日、大熊に命じて神社を侵させて、この黒雲の作り話を考えたのである
それは武田の陣があまりにも強固なので破ることが出来ぬと思い、兵を引く口実としたのだ、もし武田を打ち破る自信があるなら天地が裂けても景虎は攻め寄せたであろう
景虎は引き上げながらも捨て奸計を謀り、武田勢が追ってくれば、取って返してこれを破る構えであった
晴信も、これを知っていて景虎の謀の恐ろしさを思って、あえて追うことをしなかったのである
両名大将の軍略は計り知れぬ。

親族と法要のこと

2024年09月22日 11時55分49秒 | 知人・友人
 昨夕は遠い親戚の通夜式に参列した
母の父親の、実家の兄の、次男坊Yさんの妻Hさんが亡くなったのだ、81歳だった。
この亡くなられたHさんの実家は魚屋さんで、Hさんは長女だった
Hさんの父親Kさんは魚市場の番頭だったが、父より6歳くらい年上だった、昭和23年に23歳の父が東京上野の車坂の下宿から、この町に流れ着いたときに初めて親しく声をかけてくれて、仕事が無くて途方に暮れていた父に魚の行商の仕事を斡旋してくれた恩人だった。
父の人生と私の人生はKさんによって、ほぼ決まったと言って良いだろう。

Yさんは私の母の従弟である、先日のブログに書いた病院で会った大腸がんの先輩がこの人である
父は、このYさんと恩人の娘であるHさんを引き合わせて仲人をした
だから、どちらも縁深いのだ。

私から見ると父方と違って、母方は母の兄(伯父さん)家しか付き合いがない
しいて言えば、このYさんと伯父さんの家の法事で会って話すくらいだ
ましてYさんの家族や兄弟の事は全く知らない、母の場合は伯父さん、伯母さんの家(孫家)だから親しくしていたが・・・

でも昨日、今日と葬儀に参列してみて、ほとんど知らない人だったが、あれこれ話しかけて聞いてみて、誰がどんなつながりなのか、ある程度分かった
Yさんは5人兄弟だった、Yさんは3番目で82歳、一番上は姉で92歳で健在だと言う、一番下は女で私と同年代だそうだ
そして長女の娘(64歳)とも初対面で話したし、Yさんの二人の娘とも話した
この人たちは私と又従兄弟(はとこ)になる

もう、この歳になって親戚を広げる必要もなくなったが、薄いけれども同じ血を引く人たちと会えるのは嬉しい。

人間には、こうした血縁とかに関心がない人と、私のようにこだわりがある人とが半々くらいでいるようだ
私のたった一人の従兄(母の実家の一人息子=同年齢)は関心がない方で、先般の母親の葬儀も、従兄弟である私と妹を呼んだだけで、それ以外の親戚には一切知らせず簡素に葬儀を終わらせた
今度のYさんの奥さんの葬儀に連絡をもらったにもかかわらず来なかったし
一周忌を始め、母親や父親の法要は今後全然やる気がないらしい
これだけさっぱりしていると感心する。

私の父方の方は本家を中心に「はとこ会」とも言うべき鉄壁のつながりがあって、葬式、法事には今でも「はとこ」が集まる、もう一段階上の「いとこ会」はほとんど居なくなった(但し一人だけ101歳で長生きしている=男)
はとこが、まとまって交流を続けているのも珍しいだろう、年齢は60代、70代である、
これが続くのも、それぞれの家が半径2km以内に集中しているからだ
他にも、はとこは居るが、千葉や大阪からもやってくるから、恐るべしである
さすがにこの後の代は交流がない。



この広い野原いっぱい - 森山良子






「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた(206) 甲越 川中島血戦 33

2024年09月21日 20時17分57秒 | 甲越軍記
 武田方は孔明の八陣の謀りを仕向けているので、死門を承った日向大和守の軍勢は、しばし長尾勢の先陣を引き受け戦っていたが、次第に切り崩されて敗走した。

即ち、敗走する日向勢を追って死門に突入する越後勢を取り込めて殲滅するのが八陣の法であるが、なんと死門に入った越後勢は日向勢を追うことをやめて、前後に勢を入れ替えながら向かったのは飫冨兵部少輔、真田弾正忠、穴山伊豆守の三頭の備えであった
これに越後勢は奇計をもって打ちかかれば、初手の狂いに武田勢は不意を突かれたが、さすがは強者揃う武田勢であれば、一歩たりとも引くことなく、目まぐるしく入れ替わって攻め寄せる越後勢に、必死の戦を挑む

武田勢は味方を励まし、両軍の諸士相まみえて猛虎の吠えるがごとく、血煙を空にたなびかせて我劣らじと挑み戦う

真田弾正忠は槍を絞って真っ先に突き進み、向かう敵を三騎つき伏せる
それは修羅王の如く、猛勢あたりがたく見えたが、須田相模守の組士、石田原左右左衛門と名乗り、弾正忠に槍を合わせる
一往一来、戦ううちに真田が猛って一声喚くと同時に石田原の胸板を一突きにして突き落とす
間瀬刑部が続いて真田に突きかかれば、これまた激しく突きあううちに、真田の槍は間瀬の胸板を貫く

長尾方の大将は、柿崎和泉守景家、鉄棒の如き大太刀を軽々と振り回し、当たるものを薙ぎ打って切って回る
この大太刀に触れた者は、いかなる堅い甲冑であっても草を薙ぐがごとく、やすやすと切り裂いてしまう
武田方の遠藤伊賀守、剛勇無双の勇士、長刀を風車のように振り回し、柿崎をひと刎ねにしてやらんと喚いてかかり、秘術を尽くして戦えば
これを見て、伊賀守の舎弟、遠藤軍太夫、兄に力を合わせて柿崎を討たんと大身の槍をしごいて左右から攻めかかる
和泉守、左右の難敵を火花を散らして戦うところに、柿崎の組大将、下平弥七郎見参と叫び、「某、いまだ良き敵を見つけえず、その敵を一人、某に与えたまえ」と伊賀守に突きかかった
遠藤は怒って身を返さんとするところに、弥七郎は素早く馬を寄せて、遠藤の馬の腹を二突きすれば、馬、人ともに崩れ落ちて倒れる
弥七郎、飛び降りて遠藤の首を取る
弟、軍太夫も柿崎と打ちあっていたが、槍の柄を柿崎に切り折られるところを、柿崎が飛び込んで軍太夫の冑を頭上から胸板まで、唐竹割りに切り割れば、あまりのすさまじさに見る者はみな怖気づいた。


天孫降臨 大谷51-51達成

2024年09月21日 07時49分36秒 | 野球
 大谷が球界の天孫なのか、それとも野球の神様が大谷に乗り移ったのか。

20日(日本)の試合は異常であった、最初から最後まで異常な雰囲気で、それはテレビを通じても感じた

今朝はちょうど5時に目が覚めて、快適な昨日の目覚めとは違い寝不足感が体をだるくしていた朝だった
「そうだ、今日はドジャース戦は5時から中継だった」
だが見る気力がない、それくらい不快な朝だった、そこで予約録画にして、またベッドに戻った
10時、もう野球は終わっただろう録画を見ようと思い、充電中が済んだスマホを手に階下へ、スマホ画面を見たらラインが入っていた
この時点では、大谷が今日49-49行けるかどうか程度の期待しかなかった

ラインは友だちからだった、何気に開けてびっくり、ガックリ、何たること
ニュースも野球に詳しいブログも無視していたのに!
「大谷50-50やりましたねぇ!」一気にテンションが下がってしまった
推理ドラマが始まる前のコマーシャルで、犯人を言われたような気分
しかし50-50とは大谷は1盗塁、2ホームランを記録したことになる、どんな風にやったのか、少し気を取り直して最初から見た
いきなりの二塁打、そして50盗塁目、第二打席、ここでホームランかと思ったら安打、しかしすかさず51盗塁達成、三打席目、今度は49号かと思ったらまたも二塁打
三塁で憤死したので、二塁で止まって三盗した方が良かったのに、と思ったが
考えてみれば、ここで三塁打ならホームランでサイクル安打だもんな
狙って当たり前だと納得した、しかも三塁打なら次の打席でホームランなら、サイクルヒットと49-49が同時完成となる
40-40の時同様、単なる記録以上のプレミアムメモリーになるのだ

さて第四打席で待望の49号で49-49を達成、第五打席はまたまたホームランで50-50メモリアルも達成、これでおしまいかと思ったら、第六打席が来て相手は緊急の野手が投手、この緩い球を51号でホームラン三打席連発、51-51も達成、しかもあと一人出れば、緊急の捕手投手と第7打席を迎えるばかりだった
もし打席があれば4連続ホームランの可能性は大きかった。
次の試合の第一打席でホームランを打てば4打席連続ホームランとなる

今日、大谷が達成した記録
一試合での打点10は大谷個人の新記録&ドジャース新記録
ホームラン51本も大谷の個人新記録&ドジャースの最多本塁打記録、盗塁51もドジャース新記録で日本人トップのイチローの記録まであと5盗塁 6打数6安打も大谷の個人新記録 3打席連続ホームランも個人新記録 
通算本塁打数も日本人メジャー選手新記録&アジア人メジャー選手新記録
51ホームラン&51盗塁はメジャー初 シーズン長打数もドジャース新記録
ホームラン51、打点120はナ・リーグトップ
20得点はドジャース今季最高 ドジャース、プレイオフ進出決定
あと9試合、最下位ロッキーズ戦が6試合あり、ホームランが出やすいロッキーズのホームで3試合あるから、55-55も実現の可能性が高まった、60盗塁もありそうな雰囲気になって来た。

ミスター・ベースマン ジョニー・シンバル 1957

「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた(205) 甲越 川中島血戦 32

2024年09月20日 22時07分11秒 | 甲越軍記
 天文十九年三月、武田晴信は再び上野国に出陣して松井田城に攻め寄せて松井田越前守と合戦になった
これを知って、信州の小笠原長時は武田晴信が上州にいる間に、かねて奪われた領土を取り返さんと思い、木曽義昌と謀って、小笠原は下諏訪に出張って放火、木曽は鳥居峠まで兵を進めた。

これを知った晴信は松井田の戦いをやめて陣払いして、「我らが上諏訪に向かい小笠原を追い崩せば木曽は戦わずして引くであろう」と秋山伯耆、横田十郎兵衛、安間三郎右衛門、市川梅印、同伝五郎に木曽を押さえさせ、小笠原を討たんと勢ぞろいしたところに、越後に潜入していた間者が馳せ帰って申すには
「長尾景虎、地蔵峠を越えて佐久郡まで侵入の由」とのこと
晴信は「景虎こそ大敵也」と言って、前にある信濃の敵を捨てて、越後勢に向かわんと内藤修理正、馬場民部少輔、日向大和、山本勘助と軍議に及ぶ

山本勘助が「越後勢、佐久郡に侵入となれば、味方は猿ケ馬場へ打ちあがり、深志(松本)の道を取り切って本陣を構えれば、敵は必ず犀川の彼方、善光寺山に押しあがって陣を取りましょう
地理に依りて、孔明の八陣の備えを敷き、敵を死門に引き入れて景虎勢を一挙に葬りましょう
あるいは景虎が死門に入らねば、変法によってこれを打ち破りましょう」
と進言した。

小笠原の備えには、長坂左衛門尉、相木市兵衛、芦田下野を諏訪に残し、四月十日、全軍を猿ケ馬場に上げた
すると越後勢は山本勘助が申した通り、善光寺山に上がり陣を敷いた
同十一日、武田勢は桑原より押し出して、飫冨、小山田、真田弾正忠、穴山、馬場、内藤、浅利、日向、諸角、甘利
そのほか、先手の大将には真田兵部、草間、保科、小笠原、戸田、鳶、小幡、早川、古畑、小林、青木、依田、安部、高木、小原、畠野、保坂、芦沢、三浦、横田、岡田、庵原、まだまだ多くの勇士がこれに従い
後陣には、栗原左衛門尉、小山田左兵衛尉、原加賀守は遥かに離れて後に下る
甲州勢は総軍一万三千余人、八陣を敷き連ね、敵これにかかれば、一揉みに粉砕せんと待ち構える。

越後方の宇佐美駿河守定行は敵の備え近くに斥候をだして、つぶさに調べ上げて景虎に申しけるには
「敵の総勢は一万二、三千と見えます、陣立てを八個に立て連ね、厳重に備えておりますが、中黒に巴の紋をつけた旗の一手のみは浮いて見え候」と言えば
景虎は「カッカ」と笑い、「それこそ必定、聞き及んだ、あの小賢しき山本勘助の謀りごとに相違あるまい、孔明の八陣を設けて死門を開き、我らを誘い込んで取り込めようとする謀計である
我はあえて、この死門より攻め入り、袋の鼠と見せかけて逆に奇変の術をもって八陣を粉々に粉砕して、晴信の本陣に切って入り、互の勝負にて一泡吹かせてやろう」

古志、宇佐美、柿崎、斉藤、館、高梨、竹俣、北条、須田、大崎、上田、山吉、吉江、鬼小島、萬願寺、長尾七郎、永井、田原、上野、他多くの将士、越後勢は一万余人、奇変の備えを敷いて、犀川を押し渡り、両陣あわや近づき、足軽を繰り出して数百の鉄砲を撃ちあい、黒煙の中より鬨を上げて槍衾一斉に叩き合いどっと喚いて突きかかる

武田、長尾、今まで数度の対陣あれども未だ十分の戦い無ければ、今日こそと壮士らは腕をさすり時を待っていたが、今がその時と思い、山をも裂く勢い、誰か一足も引くまじと喚き叫ぶ声は山谷にとどろき、打ちあう矛先は電光を走らせる。