神様がくれた休日 (ホッとしたい時間)


神様がくれた素晴らしい人生(yottin blog)

大相撲も12日目終了、優勝争いが面白くなった

2024年09月20日 08時00分23秒 | 大相撲
 一昨日の夜半から朝までの大雨は1時間当たり50ミリを越えたそうだ
それまでの2か月合計で50ミリは降っていないから、久しぶりの大雨に危機感よりも安堵した。

この頃は夕食当番の頻度があがったような気がする
週に二回は作っているような・・・だけど料理を作るのは好きだから、むしろ出番があって喜んでいる
三人分だが、だいたい16時から17時の1時間以内に作り上げる、なぜなら夕食を作る時間帯は大相撲の後半戦の時間とダブるからだ

今夜も当番、しばらく刺身類を食べていなかったので、久しぶりに「海鮮丼」
スーパーで魚を買い集めて、ふくらぎ、まぐろ、サーモン、タイ、甘えびの5点盛り、一人前の材料費は米別で750円(税込み)で上がった
みそ汁はメギスのつみれ汁に、甘えびの頭と卵を入れた


大葉と穂紫蘇は今年から我が家で栽培したもの
因みに昼は明太チャーハンを作った(自分の分だけ)

さて大相撲、何と大の里が負けてしまった、11連勝でストップ
まずいことに大関経験者の曲者の霧島と高安が1差で追っている
残る三日間は豊昇龍、琴櫻、高安とあたる可能性が大きい
一方で、霧島と高安がつぶし合う一番もありそうな気配、こうなると大の里が有利になる、ただ豊昇龍には三戦全敗という過去の成績がある、今日のように足が伸び切れば、毎回と同じく跳ね上げられて投げ飛ばされてしまう
腰を落した、そんきょ姿勢で土俵際を詰めるから万全なのであって、捉まってしまえば、それが出来なくなる
昨日、今日と二日間の立ち合いと詰めが甘くなっているし、バタバタと相手のペースに振り回される悪い姿が出て来た、それは琴櫻にも言えることだ
大の里の脳裏にはやはり大関がちらついているのだろうか
今日は攻め足が遅く、的も大きい琴櫻だから押し込めば勝てる可能性は80%くらいありそうだ、今日で決めてもらいたい、だが脇が甘くなって万歳になれば万事休すだ。
豊昇龍戦は低い姿勢からまわしをとらせず、一気に押し出してもらいたい
スピードが勝負だ、まわしを取らせたら逆転の投げが来る、体を正面に置かなければならない、いずれにしても早い出足、低い姿勢、腰が伸び切らないうちに一気に持って行くしかない、それは10日目までの相撲と言うことだ。
高安は正面から激しく突いてくるから、体力で一気に押し出すのが良いだろう
今の状態を見ると残り三日は2勝1敗だろう
但し、10日目までの一気の速攻で腰を落していけば、3連勝も可能だ、それなら14勝1敗の優勝決定だ
2勝なら高安か霧島のいずれかと優勝決定戦になる可能性が大きいが、14日目か15日目に高安、霧島戦が組まれる可能性もあるから、高安が勝てば、大の里は優勝できるだろう
霧島の3日間は豊昇龍、大栄翔、高安の三人ではないだろうか、高安は大栄翔、大の里、霧島ではないだろうか
大栄翔が優勝の行方を握るカギになりそうだ、大栄翔に敗れた力士が脱落する可能性が高い、今日は高安戦、大の里とは終わっているが霧島とはまだ当たっていない、大の里が3連敗する可能性は極めて低いから、最低ラインは12勝
優勝予想は13勝2敗か、できれば大の里には3連勝で文句なしの14勝1敗で優勝してもらいたいが
以上が優勝予想だ、大の里の優勝確率75%、霧島は50%、高安は25%と見たがどうだろう?
精神力の強い力士が有利になるだろう、それと大の里のハンディ1は大きい。

史上最大の作戦マーチThe Longest Day March/ミッチ・ミラー合唱団Mitch Miller(1962年)

「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた(204) 甲越 川中島血戦 31

2024年09月19日 18時43分02秒 | 甲越軍記
 さて己の領地である上野国で武田勢に打ち負かされて、安中、和田、松井田ら諸将は穏やかではなかった
そこで軍議を開き、今宵武田の陣に夜討ちをかけることとした
安中、師岡、上田は間道から武田の陣に焼き討ちをかける、松枝、白倉、長野は逃げる敵を切所(せっしょ=難所の道)に追い詰めて討ち取る和田、松井田、倉ヶ野は正面から攻めかける、とした。

おのおの兵糧を準備して、焼き草を集めて準備をしているところに、、安中、倉ヶ野の方に向けて火の光が見えたので、これを怪ぶんだ
肥前守は気を集中して、これをじっと見つめた、火の光は次第に数を増して数万の軍勢が押しかかるかのように見えて、あわやと思うところに鉄砲の音、鬨の声が聞こえた
安中、倉ヶ野は大いに驚き、「さては晴信め、我らの出陣を知り、手薄になった本城に間道より攻め寄せたのではあるまいか」と夜討ちどころでは無くなり、急ぎ安中、倉ヶ野の本城に向かった

時は九月三日の亥の刻、折節雨が激しく、たいまつの火も消えて、暗闇の中を手探りで進むところに、かねてより待ち伏せしていた小笠原新蔵、小宮山丹後、三科肥前、安間三郎右衛門尉の軍勢が突然押し込んで攻めかかれば、上杉勢は慌てふためいて散々に討たれ、死傷者は山のように多く、右往左往して敗走する
武田勢は敵の地であれば、あえて深追いをせず、兵をまとめて引き上げた

安中、倉ヶ野は城に戻ると、火の光も、人馬の姿も無く、狐につままれた心持となった
「さては晴信の奇計であったか、欺かれた」と言えども、今更どうにもならず各々、持ち城に引き上げて「武田勢は勢いにのって攻め寄せるであろう」と備えを厳重にして待ち受けた

晴信は、倉ヶ野、和田の城はほおっておき、安中、松井田の両城を取り囲むとして軍議を開いているところに、諏訪の板垣弥次郎より注進が来て曰く
「小笠原長時が下諏訪に足軽を出して、当陣を伺っております、これは長尾と内通しているからであります」
他には、諸角豊後守、市川梅印、原与左衛門からは注進は来ていないが、小笠原勢と長尾勢が通じ合えば捨てて置けることではないと、安中を陣払いして、同月七日、諏訪に発向した

小笠原長時は、これを知ると早々に陣払いして松本に引き返した
晴信もこれを知ると、甲州に兵を返した。


気分快適

2024年09月19日 06時28分14秒 | yottin日記
 今朝、ついに天が裂けた
とても爽やかで、ストレスがない朝が訪れた
久しぶりに体も頭も軽い、室温はかわらず28度、湿度も70%あったが涼しさを感じている
こんなノーストレスの状態は、何日ぶりだろうか

夕べは少し遅い23時に寝た、それから一度も目を覚まさず6時に起きた
7時間連続で寝たのは夏以降何度も無い、やはり6時間、しかも夜中に目が覚めるのは健康ではないようだ
今日のような状態が最高だと自覚した。

徐々に秋の気配を感じてきた、それと同時に動きたい衝動に駆られる
この頃は病気を意識しすぎて消極的になっている自分を感じていた
本当は健康なのかもしれない、心だけが気後れして臆病になったのかもしれない

都会の空気を吸うのも良いかもしれない、コロナ以後、地方都市の繁華街に行ったのは富山市と金沢市だけで大都会には一度も足を踏み入れていない
都会で暮らす人たちから見れば滑稽だろう
未だに人もまばらな田舎のスーパーや病院に行くにはマスクをしていく
私だけではない、多くの住民もそうしている
田舎の人間が臆病で、保守的なのがコロナ騒動で明らかになった
あるいは集団的で、お上に従順で、批判的ではない
だからこそ自民党の温床でもあるのだが、失われた30年では地方の都市部ではすでに野党と拮抗しているから、田舎であっても都市部は大都会とあまり変わらない住民意識になっている

今、脱線して体の状態から、田舎事情、それが政治に変わって来た
今日のテーマはもう少し気分の良いものだったはずだ

そうそう、それで秋には気分転換したいと思った
今、二つの構想を考えている
一つは紅葉の田舎の中を行く事、もう一つは太平洋岸の地方都市部を味わうこと、それを実現したい

田舎の方は少し形が出来て来た、上越線の小出から只見線を会津若松まで行って、何らかの方法で裏磐梯から国道459号を阿賀野川に沿って新潟へ走る
というものだ
これは少しファンタジーかもしれない、あるいは回顧的な一泊二日になるかもしれない
気分任せの短い一人旅、元気なうちにやるべきだ、ああだこうだと自分を縛らずに開放してもいいんじゃないか。


第三の男  アントン・カラス The Third Man  

「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた(203) 甲越 川中島血戦 30

2024年09月18日 19時29分16秒 | 甲越軍記
 同年八月、武田晴信は、長尾景虎が引き上げて越中国に攻め入った間に、上杉民部少輔憲政の領地を掠め取ろうとして、上野国(群馬県)に攻め入り、相模国境の神奈川まで押し寄せて、近郷を放火して引き上げた
それに激怒した上野国安中の城主、安中越前守、同左京進、和田の城主、和田左衛門尉、同兵部丞、箕輪の城主、長野信濃守、倉賀野の城主、倉ヶ野六郎、同淡路守、師岡城主、師岡山城守、松井田城主、松井田越前守、松江、白倉、上田の九将は直ちに兵を興して三千余人、武田勢を引き留めて、是を討たんと蕪川(*鏑川)和田城の外れ三尾寺(*高崎市)まで追いかけた。

武田晴信は、これを知って「我らを食い止めて戦おうとは、なんとも優しき者の振る舞いである、ただ一息に蹴散らしてやろうぞ
だが、碓氷峠の切所を越えて敵領内深くまで入っているからには敵を侮るなかれ」と諸将に申し伝えた
そして諸々の備えは動かさず、内藤修理正、馬場民部少輔、原加賀守、嫡子隼人佐昌勝、浅利式部、小宮山丹後守らを敵に向けた

中にも、内藤修理正は一の殿であれば、備えを二つに分けて矢を射ること雨よりなお激しく、鉄砲を撃ってひしひしと追い來る敵の先手と槍を合わせて突きかかる

武田方には、曲淵庄左衛門、磯矢興三郎、上杉方には梁田肥前守、草臥三郎が一番、二番の槍を争い入れ、馬武者二、三騎を突き落とす
武田方には朝比奈監物、三原右近、孕石主水、河野但馬守、志村又右衛門、平村、大津などの一騎当千の勇士あり、それぞれに武器をもって攻め入れば
上杉方も安中左近進、板倉郷右衛門、志渡丹波守、塚田八左衛門、遠藤五郎左衛門、倉ヶ野民部、佐投藤兵衛など名を得たる勇士死を決して武田勢を切所に追い込めて討ち取らんと勇を振るって攻め寄せる

安中越前守は、卯の花縅の鎧に、三ツ山の冑、ぶちの馬にまたがり敵内藤勢の意気込む中に突き入り、内藤の先士、倉橋四郎兵衛、多木隼人を切り倒し、当たるを幸いに薙ぎ倒す
内藤勢は、これに恐れて道を開ければ、安中はますます勢いついて、内藤修理正と槍を合わせる
互いに受つ、開きつ槍先を合わせて、激しく打ちあうが、いずれも剛なれば互いに二、三か所の傷を負いながら雌雄を決さんとますます激しく打ちあった
ついには両者の郎党が中に入って二人を分けて引き離れる

馬場民部少輔、原、浅利、小宮山勢は松枝、長野、師岡、松井田、白倉、上田、わだ、倉ヶ野と挑み合う
互いの赤、白の旗入り乱れて戦場を南北に埋め尽くし、叫び声、馬蹄の音、天地に響き渡る
こうした戦いが続いたが、上杉方はついに切り崩されて散々になって敗走した
武田勢も地理に疎いために深追いせず三尾寺の彼方に陣を敷いて、その日の疲れを休めた

山本勘助が本陣を訪れて申し上げるには「敵は今日の敗戦を憤って、今夜のうちに夜討ちをかけてくるのは必定であります
これらの敵は恐れるに足らずですが、ここは敵地であれば夜中の決戦はおぼつかず、まずは術をもって敵を退け、それから敵が引いた後、城を押し詰めて攻め落とすが上策であります」と言って、小宮山丹後守、安間、三科肥前、小笠原新弥、原与左衛門に謀略を授けて、それぞれに準備をさせた。





小さな出来事が の一日

2024年09月18日 12時18分50秒 | yottin日記
 3日前に、実に久しく一日中の雨が降った、その後3日ほどは急激に秋めいて涼しくなった
フーテンの寅ネコが4か月ぶりにやって来たのが、暑さ真っ盛りの8月末だったが、それ以来、毎日早朝からやってくるようになり、ちょうど二週間居たが、15日には再び旅に出て帰ってこなくなった、それが雨の日からであった
涼しくなったのを待って、旅に出たのだ、今度来るのは何か月後になるのか
まったく不思議な猫なのだ。

一昨日は久しぶりに日中30分ほど散歩をして4000歩ほど歩いた
北風が涼しく吹いて、汗をあまりかくことも無かった、これで錆びていた体が少しほぐれた。

昨日も用事があって、昼過ぎに役所まで歩いて行ったが、昨日は蒸し暑くてすぐに汗ばんだ
役所へ行ったのは、理解できない手紙が届いたからで説明を伺いに行った
障碍者に対する受給証の話だから、ありがたいことなのだが、それをどうするのかの説明がよくわからない
手紙には、「受給証を市に提出してください」とだけ書いてある
市から送られてきたのに、市に提出しろとはどういうことなのかわからなかったので、さっそく福祉事務所を訪ねたと言うわけだ

役所も、たびたび書くけれど、昭和の職員と令和の職員ではまったく態度が違う
昭和は、まさにお上(御神)で政治的な伝手をもたない庶民は「へへ~」と言われるままだったが、今の職員は本当に爽やかで親切で丁寧で気持ちが良い
さっそく「市から送って来たのに、市に提出するように書いてあるが、どういうことなんだろうか?」と聞いたら、30代くらいの女子職員も「そうですね、この書き方だと意味がよくわかりませんね、ちょっとお待ちください」と言って、上司にお伺いに行った、そして
「これは、こちらには提出は必要ありませんので、関係施設か、ご自身で保管ください」と言うことになった
「それで、なにか申請とか、提出書類とかはあるんですか」と聞いたが、「いえ、そういうのは一切必要ありません」と言うことだった
これで、一件落着した。

汗ばんだついでに、家に帰って畑仕事をした、大根の間引きと土寄せをした
私は一切無農薬なので、虫から守るために不職布をマルチがけしている
だから作業はひと手間よけいにかかる、未だに蚊が徘徊しているのでうるさくてたまらないから蚊取り線香は必須だ、それが煩わしいが仕方ない
そうだ! 二年くらい前に、この庭でヒガシニホントカゲを見たが、今日は市役所の草むらで小さなヒガシニホントカゲを見た
アスファルト歩道を歩いて草むらに入って行ったが、トカゲ独特のがに股歩きで、結構足が遅かった「カラスに見つかる前に草むらに入れ」と心で叫んだら、のんびりと入っていった。

これで、完全に汗をかいたので、そのままシャワーを浴びて、体を洗い部屋に入って涼んだ
それから、ブログを書いていたら、女房殿がやって来て「冷蔵庫がおかしいから見て」と言った
台所へ行ったら、「ぴーぴー」と警告音がやかましい、これまでも時々、鳴ることがあったが時期に止まった、今日は、それが止まらない
エラーコードも出ているので、スマホで品番を入力してエラーの意味を調べたら、扉が開いているとのこと
扉は締まっているが、鳴り続けている、それで冷蔵庫を真ん中まで持ってきて、壁際と、その床のほこりをついでに掃除した
それから、冷蔵庫の中を隅々までチェックしたら、どうやら扉の接触部分がすり減って、棒状のセンサー棒が引っ込まないで、扉が開いているような誤作動を起こしているのがわかった
それで、3cmほど出ているセンサー棒を押し込んで、ガムテープで四重くらい締め付けたら、音も止み、エラーコードも消えた
この冷蔵庫は父母がかなり前に買ったもので、そうとう古いはず、ネットで発売年を調べたら1999年だった、もう25年過ぎているから、いつ買ったか知らないが20年くらいは過ぎているようだ
今は、応急処置したが、いずれダメになるだろう、そろそろ年貢の納め時か
電気製品は新しい程、省エネで電気料が安くなるそうだから、買い替え時期かな。

我が家は、家電量販店より、町の電気屋さんで電化製品は購入する
量販店はいくらか安く思えるが、それはそれなりの仕組みがあるのだろう
町の電気屋さんは、先代から50年の付き合いがある、我が家の電化製品の購入歴はすべて取ってあるから、相談もしやすい
いろいろ便宜も図ってくれるし、時間も問わずにやってくれるから、かかりつけの医者みたいなものだ
多少、高めでもそういったサービスや融通は量販店にはできない
今日届けてくれた店員さんが、次回には辞めていたなんてこともしばしばある
田舎は、やはり人同士のつながりが、価格よりも優先する
とはいえ、それも昭和人までか・・・




Sweet Lorraine



「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた(202) 甲越 川中島血戦 29

2024年09月17日 21時04分43秒 | 甲越軍記
 かくして、長尾平三景虎は信州より軍を返して、同年六月越中を討つべしと館四郎兵衛、斉藤下野、北条安芸、杉原常陸介、長尾遠江、甘粕備後、山吉孫治郎、鮎川摂津、元井日向、石川備後、鬼小島弥太郎など諸大将を率いて越中国に打ち入った。

遊佐備中守が籠る城に攻め寄せて、無二無三に打ち立てれば、城中から矢を射ること雨の如く、鉄砲はつるべに打ち放ち、必死の防戦をすれども越後の勇兵は少しも怖れず、我先に逆茂木を引き破り、塀下に取りついてエイエイとよじ登る

鬼小島弥太郎は一番乗りを心掛けて、塀をよじ登ったところを鉄砲玉が股に当たったけれども、少しも騒がず、槍の柄を四、五か所縄で結び、足掛かりとして塀に立てかけて馳せ上り、先に取りついた足軽の肩に手をかけて「よく立ち応えよ」と言うと、槍を脇に抱えて片手を塀にかけて「エイ」と叫んで一飛びに駆け上る
塀脇に居た武者をたちまちのうちに二人突き殺し、城中に入ると鉄砲武者を三人突き殺した

これを見て、甘粕、鮎川、元井、石川、山吉の勢もあとに続いて飛び込み、当たりの敵を突き崩して城中に駆け込んだ
城兵は、たまりかねて二の丸に逃げ込んで固く門を閉じて、国中の諸将の助けを待った。

これを聞いた越中の諸将、土肥、唐人、魚津、浦山、滑川らは遊佐を救わんと斥候を出したが、越後勢の備えは固く、遠くから見守るしかなかった
遊佐は、打ち寄せる越後勢に攻め討たれて、気力も失せ、ついに遊佐備中守は降参して二の丸から投降した

景虎は、戦の初戦なれば人質を取り、遊佐の本領をそのまま与えれば、これを聞いて土肥下野守、土屋右衛門大夫、かねてより景虎の武勇に帰伏していたので人質を出して降伏した
景虎は、それらの領主にも元の如く城を守らせ、人馬を休めているところに、神保安芸守、椎名、江波、松岡、望月、長澤らの兵が三方より寄せて来た

景虎は斥候を出して、これらの備えを見れば、戦いを慎み、備えを堅くしているので、一挙にこれを破るは難しと、今一度弱気を見せて、後程に奢った敵を討つと、越後に引き上げた。

75歳まじかの現実

2024年09月17日 06時06分11秒 | 病気と健康
 夕べ22時半に寝て、今朝も体内時計で4時半ピッタリに目が開いた、夜中も一度も起きることがなく、グッスリだった
ベッドの中で、あれこれ思いを巡らせて5時に起きあがる。

最近では、暦も日付以外は気にすることが少なくなった、特に国民の休日はほとんど何の日かわからないし、知る気も無い
だが昨日は、新聞で「敬老の日」だと知った、来週も月曜日が赤い日だが何だかわからない。

高齢者の定義を65歳から75歳に引き上げようと言う動きがあると書いてあった
こうなったからと言って、高齢者が若返るわけでもないが、今の時代たしかに65歳が高齢者は現実的ではない
自分の65歳を思い返しても現役バリバリだった、何の制限もなく自由に関東甲信越を飛び回っていたし、いろいろなことを楽しんでいた
その65歳以上の比率が世界一で、3600万人日本人の3割を越えているとか書いてあった、これは確かに高齢化時代だ、75歳以上に定義を変えないと老人大国から脱却できない
その75歳以上だって、1900万人を軽く超えていて、20歳未満よりも多いと言うことだから日本の人口が修復不可能なほど尻すぼみなのがわかる。

さて本題だが、65歳と75歳ではこれほど生活に差が出るとは考えもしなかった
体力が衰えるのは当然だが、まず病気が身近になった
昨日は同年代の、自営業の職人の父君が一か月前に亡くなられたと聞いて、自宅に香典を届けて来た
そして立ち話をしてきたが、彼もどれくらい前だかに大腸がんの手術をしたと聞いた、今は尿道結石で病院通いだと言っていた、最悪手術になるとか
同世代以上のガン患者の多いことは何度も書いたが、本当に多い、犬も歩けば棒に当たる以上の確率だ
大腸がんを患ってから、食べる楽しみが制限されてきた、食欲はあいかわらずあるが、気持ち的に無理できないと思うし、好物の数々がほとんど控えた方が良い食品なのでがっかりである
それに腸自体が満腹を拒否して、食べすぎるとストライキを起こすようになった
これでは心行くまで食べられない
とろろ飯、ラーメン、納豆ご飯、お茶漬けなどを、胃の中に注ぎ込むからうまいので、少しずつ30回噛めと言われてもがっかりだ
また、餃子や枝豆などは食べたいだけ食べるし、ステーキや肉厚のトンカツはがっつり食べたいし、いかの天ぷら、キノコの天ぷら、かき揚げなども心行くまで食べたい
蕎麦もだめ、キムチもだめ、腹にたまるものは全てダメでは楽しみも半減だ
だけど、体か気持ちかと言われればどうにもならない

それと気づいたことは、生命保険に新たに入ることができない
テレビで80歳を越えても入れますとか言っているが、掛け金が多くて受取額が少ないのは明白だろう
信じられないほどの安い掛け金と、多額の受け取りをうたっているが、世の中そんな投資みたいなうまい保険があるわけがない
あとでいろいろな条件、制限を言ってくるのだろう。

それから自動車免許の書き換えも、だんだん厳しくなっていく、認知症試験と言うのもあるし(割と緩いみたいだが)、実際に反射神経や、集中力が衰えていくことは実感としてある
80歳になった頃はどうなっているかわからない、レンタカーを借りるには年齢制限があるのだろうか。

旅行や映画鑑賞、舞台やコンサートもそうだ、日によってトイレが近いことがある、果たして2時間半座ったままでいられる自信が無い
ドライブなら都度、トイレに立ち寄れるが、鈍行列車や静まりかえったコンサート会場では思い通りにできない
こんなわけで趣味の範囲も大幅に減少せざるを得ないことになった
もしかしたら本当は大丈夫なのに、気持ちが落ち込んでいるのかもしれない。

75歳って老人なのだろうか、まだまだやれることがいっぱいあるのではないだろうか?
やはり手術したことが知らず知らずに尾を引いているのか、少し気弱になった気もする
早く抗がん剤治療が終われば、気持ちも改善するかもしれない、80代、90代でも旅行にスポーツに畑仕事にボランティアに励んでいる人は多い
引き籠るには、まだまだ早いかもしれない、気を取り直して病気前の自分に戻ろう。






「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた(201) 甲越 川中島血戦 28

2024年09月16日 20時09分58秒 | 甲越軍記
 両軍は互いに斥候を出して敵陣の様子を伺ったが、いずれも智勇絶倫の名将であれば少しの隙も無く、軽々しく動くことならず、五月朔日より五日間、矢の一筋も打ちあうことなく備えを固めて睨み合うばかりであった。

六日の朝、景虎は鬼小島弥太郎を使者として武田晴信の陣中に遣わした
弥太郎が景虎の言を申すには「某は当国に兵を出すのは、信濃国を従えんとする欲心からではなく、村上義清に頼まれ武の一道を守る義戦の為である
願わくば、村上に彼の地を返して本領に還して和親あるならば、某の喜びである
もし、この義に同心しないのであれば、景虎はやむを得ず、貴殿の堅陣に馳せ入り。有無の勝敗を一挙にするほかなし
我、この頃、信州に出張し、度々貴殿と対陣するが、未だ一戦に及んだことがない、願わくば他国の諸将に向かって武威を振るうように、某に対しても是非の一戦を願いたい
我を武勇と言えども、少しも他の諸将と異なることは無い
もしご同心あるならば、速やかに和議を結び、帰国いたす所存、ご同心無きに於いては、明日は快く是非一戦の勝負をつけられるべし」と

晴信は、これに答えて
「その方が、村上に頼まれて出張ること、義の心あることは心優しく神妙に思えて、晴信は深く感じ入り候
我も人も敵味方となり、勝負終わりて浪々致すことは、昔も今も同じである
景虎の志はもっともであるが、村上に領地を返すことは晴信の一命あるうちは思いもよらぬことである
そのつもりであるから、合戦を望むならば、其の方から仕掛けるが良い、某から仕掛けるつもりはさらさらない
そなたが甲州に攻め入ったならば、その時は晴信よりかかって無二の一戦を行うであろう」と言って、使者を返した。

景虎は、甲州勢から戦を出さぬと聞き、いかにしてもおびき出さねばならぬと、各陣所に油断の隙を見せて一戦を待った
晴信は一雑兵の姿になってまぎれ、斥候の一団として越後陣を探ってみると、所々に守りのゆるみを見た
そして申すには「景虎、備えを緩めて虚を示し、我らがここに付け込んで攻め込めば、たちまちこれに乗じて一飲みにせんという臥龍の計である
さりとては油断ならぬ景虎の謀、我らはけっしてこれに乗ってはならぬ」と諸兵に伝えて、守りを今以上に固めさせて、一歩も動こうとしなかった。

景虎も同じく、雑兵に紛れて甲州陣を探ると、ますます備えが固められて、蟻の一匹も付け入る隙が無い様である
その日もむなしく過ぎて、十日の朝に景虎は、再び鬼小島を甲州陣に送って、
「去る朔日より今日に至り十日が過ぎ去った、我は決戦を望んだが、それもままならぬようである、こうなれば、この地でいたずらに日々を過すのは互いの為にならず、それよりも某は能登越中に出張することとする」
と言い送り、陣払いをして、徐々に引き上げた
陣勢、堂々として甚だ見事なリ。


会津と阿賀野川と阿賀町

2024年09月16日 06時17分46秒 | 知人・友人
 阿賀野川(あがのがわ)は福島・栃木県境の南会津から発して阿賀川となり、福島県を南北に縦断して新潟県に入る
新潟県境からは南東から北西へと流れを変えて阿賀野川となり、広い新潟平野を通って新潟市の東端から日本海に流れ込む。

新潟県には日本一の長さを誇る信濃川も流れている
信濃川は長野県の北アルプスのあちらこちらの谷間から発して、犀川でそれらは集まり、長野市の川中島で千曲川に合流する
千曲川は長野県の最南部、埼玉県の秩父との県境から流れ出す
千曲川は飯山を通り新潟県津南町に入り、そこで信濃川となる
深い渓谷を悠々と流れてやがて小千谷(おじや)市あたりで越後平野に出て、長岡市を通り、新潟市の中心部から日本海にそそぐ。

信濃川は269km、阿賀野川は210kmの長さがあり、いずれも日本を代表する大河だ
阿賀野川の河口は松浜橋あたりから見ると、まことに雄大で広い川幅いっぱいに水をたたえて流れている、その迫力は決して信濃川に劣らない。

阿賀野川は、上流に向かってもその川幅を変えることなく流れている
阿賀野市までが平野部で、そこから南は左右に山が迫り渓谷の景色に変わる
国道49号と磐越道が谷間や、山の上、トンネルで通っている
阿賀野川は、そんな中でも有り余る水量を切り立った大渓谷に送り込んでいる
三川村から津川町までの阿賀野川の風景は圧巻だ、途中国道と川の水面が平行に見えるような景色にも出会う
阿賀野川は深く大きいから阿賀の辺りではめったに氾濫しない、そのかわりじわりじわりと水位が上がって来て国道を覆いつくすことがある

阿賀野市から数キロ、新潟市から約50km南に下ると、阿賀町に到達する
平成の合併で、福島県境の三川村、津川町、鹿瀬町、上川村が合併してできた町で、福島県西会津町と接している、人口は8000人ほどの小さな町だが面積は広い
阿賀野町にしたかったらしいが、先に下流の水原町、安田町などが合併した平野部の町に、阿賀野(市)を先んじられて、阿賀町になったらしい。

阿賀町は明治以降に福島県から新潟県に編入となった
普通、この狭い谷間には国道49号線しかないと思われがちで、みなそれを利用するが、それは津川を経由するメインで、実は鹿瀬を経由する459号が阿賀野川沿いの道路である
多分、江戸時代はこちらがメインだったのではないだろうか?
そのまま西会津の北に入って喜多方、裏磐梯、米沢に抜けていく重要な道路だ。

阿賀町の中心の町は津川町で、江戸時代には新潟津と会津を結ぶ中間点として活気があった、津川の津から新潟までは水運で、会津には陸運で物を輸送する拠点だった。

今の我々には想像もつかぬが、江戸時代前後には川を使った水運が日本のいたるところで活躍していた
海から50km、100kmも内陸に向かい、途切れれば運河を作り、あるいは陸路でつないで物資の輸送に役立てた
馬の背に荷物を積んで行くのとは問題にならない輸送量を誇った
利根川水系、那珂川水系などと同様に信濃川、阿賀野川でも水運は利用されていたのだ。

さて、阿賀町を越後と見るか、会津と見るか
そんなことを考えるのは今どき私くらいのものだろう
何故考えるか、私には切っても切れない阿賀町出身の友人がいた、惜しいことに数年前に71歳で故人となったが、彼の姿はどう見ても越後人ではなく、会津人だった。

新潟県西端と、富山県東端が僅かな距離であっても関東系、関西系に極端な言葉の違いがあるように、ここでも越後系と会津系の違いは明らかだ
今の時代は、もうそんな違いを若い世代に見ることはできないだろう
老人と住む孫世代が核家族化で極端に減ったからだ、そしてテレビなどで東京や大阪の都会言葉が全国の田舎まで流れているから、もはや狭い日本は全て共通語となった。

だが、当時の友人は初めて会ったのが18歳だったが、言葉が聞き取れなくて困った
アクセントはさほどではないが、方言が聞き取れない、無理もない彼と私が育た町とでは300kmも離れているのだから
これが東海道圏に照らし合わせれば、どのくらいかわかるであろう
だから一緒に暮らした数年間(住み込みで板前修業)、深い会話をした記憶がない、彼といる時はほとんど酒を飲んでいる時だったからだ
酒を飲むと、ますます彼のわかりずらい、口にこもったような言葉は度を増してくる、ズーズー弁と言うのではないが、独特の訛りか?

言葉は個人差があるから参考にはならない、そもそも会津の人と話したことが無いから彼の言葉が会津弁かどうかもわからない
ただ、幕末の会津のドラマでは、会津人の愚直、実直な生きざま、主の為に死すという武士道精神が描かれている
あれを参考にしたなら彼が会津人であると思える
常に正義が前に在って、男らしく、そして誇らず、奢らず、目立たず、そして大酒飲みだった(飲みすぎが原因で脳梗塞が命取りだった)
俗物で欲深い私は、何度も彼と比べられて料理長に怒られたものだった
彼は純粋で、若山富三郎みたいな風貌で飲んだくれの料理長のお気に入りだった。

今でも、二十代の彼と風吹きすさぶ日本海で撮った写真が置かれてある
眉毛が太い男らしい風貌で、爽やかに、にこやかに笑っている。











「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた(200) 甲越 川中島血戦 27

2024年09月15日 20時28分57秒 | 甲越軍記
 飫富兵部少輔が申すには「敵は数を頼んで強勢に攻め寄せるが、それゆえただただ前に攻めるばかりの様子である
それゆえに、備えは油断が見える、このときを逃さず切り崩すか、首を敵に授けるか死生いずれかの合戦をすべし」
飫冨は配下の将士十数将に八百余人の兵を預けて、三段に構え、小姓に命じて焼き飯を用意させて、自らそれを食し「汝らも食せよ」と勧めたが、誰一人取って食う者はいなかった
そんな中から、森住勝左衛門、川尻但馬、波多野求馬のみ「ご相伴仕る」と、それを食してから「しからば快く戦わん」と門を八文字に開かせて、龍の波が起こるように真一文字に、黒備えの越後勢の中にまっしぐらに攻め込んだ
森住等は四角八面に戦えば越後勢は、この猛勢に打ち崩されて、さっと引いた
代わって、安田上総介、柴田入道、萬願寺源蔵らが入れ替わって飫冨勢を打ち崩す
兵部少輔はこれを見て眼を怒らし、「後ろを顧みる心あれば、一人も生きることはならず、太刀は目釘の続かんほどに戦って討ち死にせよ」
そう言って、槍をしごき、真っ先に馬を出して突き進めば、遠藤、森住、川尻、波多野は飫冨に引き続いて勇を振るって戦う
これによって飫冨勢は劣勢を挽回して戦う、遠藤五郎八、波多野求馬、大布施、戸石ら二十八人討死する
越後勢も、規矩(きく)六郎兵衛、高宮重左衛門、牟礼隼人、中原宗左衛門らが討死となる
そのほかにも、両軍の死傷多く、飫冨の働きは鬼神の如く、四方八方を斬りまくり、僅か八百余騎で八千の越後勢を、六度までも追い散らす。

越後の大将、景虎は飫冨の働きを見て「兵部少輔とか申すは、さすが晴信の武備に似て、勇気なる振る舞いかな、引き包んで討つは安けれど、かかる勇士を殺すのは忍びない」と揚貝を吹かせて軍を引き上げた
飫冨はなおも執拗に追いかけてきて「景虎と決戦せん」と挑発するが、景虎は相手にせず粛々と去って行く
飫冨もついにあきらめて、兵をまとめて内山の城へ引き上げた
引くも良将、追うも勇士と人は皆、両者を褒めたたえた。

越後勢が信州に発向の報を聞いた小県近辺の武田方に組する領主たちは驚き
晴信の本陣、諏訪に遣いを飛ばして、援兵を乞う
晴信は、これを聞き「景虎は容易の敵にあらず、出陣が遅れれば内山の城が危うい」と松本筋の発向をやめて、先に松本筋へ遣わした、板垣弥冶郎、日向大和守、原加賀守に軍を返して、小県へ向かうべしと一万余騎を揉みに揉んで小県に着いた
小県の武田勢は是を見て、ようやく生き返った心地となり、大いに喜んだ。

長尾景虎は武田の出陣を聞いて、大熊備前守、吉江織部に五百で内山城に備えさせて、矢沢の奥より打ち出でて海野平に出て、武田勢と対陣した。