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好きな本とかについて、ちょこちょこっと書く場所です。蔵書整理の見通しないまま、特にきっかけもなく08年12月ブログ開始。

草競馬流浪記

2010-11-14 21:27:30 | 読んだ本
山口瞳 昭和59年 新潮社
さきおとといのこと、仕事のついでに、以前いた職場に寄ったんだけど、ふと気づいて、この本を取り返してきた。
この本は、当時後輩たちに「必読書」と言って、ご自由にお読みくださいとばかりに、古本屋で買ったのを置いてきたもの。
「ちょっと、また読みたくなったんで、貸して」って言って今回持ってきちゃったんだけど、たぶん返さないな、これで

言わずと知れた、全国の地方競馬場を行脚した、著名な書です。
当時は、二十七カ所だっていうんだけど、いまはそんなに数ないし。
古いよぉ、これ。刊行は昭和59年だけど、雑誌発表されたのは、昭和56年から昭和58年だから。
(連載は『旅』と『小説新潮』にまたがってるらしい。)
笠松のところに、>鞍上は、笠松の福永洋一と称される二十一歳の安藤勝己ってあるくらいだし。
当時のアンカツさんは、地元の関係者によれば、>「だけど、中央へ行ったら、凄い人気になるでしょうね。なにしろ、おぼこいで」だそうで。(おぼこいは、可愛い顔をしているの意。)

どうして山口瞳の綴る競馬の話がおもしろいかっていうと、その座談会のあとに、結論として「競馬必勝十カ条」というのがあるんだが。
これが、(1)馬券を買わない (2)思いきって買う (3)強い馬が勝つ (4)儲けるならば本命党 (5)逃げ馬買うべし (6)競馬は単勝式 (7)競馬に定跡なし (8)他人の意見を聞かない (9)競馬新聞は一紙だけ (10)朝食をシッカリ食べる というものである。
“馬券を買わない”って ここまで悟ってるひとの書くものだから、押しつけがましいところがなくて、いい。
(ことあるごとに「俺はすごい」とか言いたがる人が多いしね。余談だけど、ブログに手を染めるようになって、私が最初に驚いたのは、何故にインターネット上でひとはこれほどまでに自分の競馬予想を披露したがるのか?ってことだった。)

コンテンツは以下のとおり。
1 笠松のおぼこい乗り役たち
2 水沢競馬、北国の春はまだ
3 姫路、紀三井寺は玄い客ばかり
4 道営横断三百哩 (←北見、旭川)
5 東京ギャンブル大環状線 (←川崎、船橋、大井、浦和)
6 園田競馬場に秋風が吹く
7 萩すすき、上山子守歌(ララバイ)
8 福山皐月賞、都鳥君奮戦記
9 佐賀競馬場のゲッテンツウたち
10 盛岡競馬、東北新幹線試乗記
11 益田競馬場、夏時雨
12 名古屋土古の砂嵐
13 大歩危小歩危、満月旅行(フルムーン) (←高知)
14 冬木立、宇都宮競馬場
15 近くて遠きは足利競馬
16 寒風有明海、御見舞旅行 (←荒尾)
17 高崎競馬、サクラチル
18 金沢競馬、アカシヤの雨
19 中津競馬、恩讐の彼方
20 燕三条見徳談義
21 旅の終りの帯広、岩見沢

ちなみに、あとがき代わりに巻末座談会があるんだけど、そこで挙げられている、山口瞳のベスト3は旭川、金沢、川崎、ワースト3は三条、中津、高知。
私が行ったことないのは、北見(2006年まで、ばんえいのみ)、帯広、岩見沢(平地は1997年まで、ばんえいは2006年まで)、三条(2001年まで)、足利(2003年まで)、紀三井寺(1988年まで)、益田(2002年まで)、中津(2001年まで)。

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狼が来るぞ!

2010-11-13 20:37:34 | 四方田犬彦
四方田犬彦 1999年 平凡社
最近、なんという理由があるわけでもないが、読み返している四方田犬彦から。
エッセイ集っていうか、「SPA!」に連載していたコラムからの“精選107篇”。(←帯の表現)
あとがきによると、“連載したコラムから、アクチュアリティに関わるものだけを取り出して構成されている”とのこと。

で、どーにも情けないことに、このあたりの本って、読んだはずなのに、中身のことを全く忘れてんだよね、私。
でも、ひさしぶりに読んでみたら、予想以上に面白い。
1995年から98年にかけての連載ってことらしいんだけど、いま読むと、いろいろ歴史上の出来事(大げさ?)が思い出されるし。
香港返還とか、管直人厚相時代のHIV訴訟とか、神戸のサカキバラとか、広末涼子の早稲田入学とか、ペルー日本大使館占拠とか、オウムとか、いろいろ。

もちろん、いつものように、世界のいろんなとこを旅したときの話も面白い。
インド、インドネシア(ジャカルタ)、イラン(テヘラン)、フランス、イタリア、ポルトガル、モロッコ、キューバ。

で、全般にわたって、ときどき飛び出す、著者のグサッと刺すような意見の表明が魅力的である。
たとえば、
そのことで思い出したが、日本人はもっと積極的に自分の意見を国外で発表するべきではないだろうか。従軍慰安婦は存在しなかったとか、アウシュヴィッツは捏造されたとか、国内でいくら勇ましい口調で叫んでみても、結局のところ、安全地帯で内弁慶な負け犬が吠えているという印象しかない。
ぼくは性急な独立は沖縄を経済的に混乱に追いこむだけだと、考えている。もっとも妥当に思えるのは、はっきりと「一国二政府」という政治形態を採用することだろう。
現実の社会に出てみると、頭がいい・悪いとはまったく無関係にものごとが進行していると、ただちにわかる。実際に問題になってくるのは、むしろ頭が堅いか、柔らかいかの、二通りしかないと判明するからだ。(略)頭が堅いとは、どういうことか。何ごとに対しても自分では決定せず、というより決定して責任をとることを無意識的におびえるあまりに、ロボットのように「規則ですから」という言葉だけで事態を打ち切ってしまうことだ。
どんなに世のなかが乱れようとも、日本語から敬語が消滅することはないだろう。少なくとも日本にマゾヒストがいて、SMクラブが存在し続けるかぎりは。(略)本当の個室プレイというものは、きわめて知的な言語ゲームなのである。(略)肝心なのはこのゲームのなかでもっとも重要な位置を占めているのが言葉遣いだということである。
ぼくが本当に考えているのは、いっそのこと戸籍制度というものを廃止してほしいということである。(略)もしどうしても国家が国民を管理しておきたいというのなら、納税証明書だけで充分ではないだろうかというのが、ぼくの意見である。
いくら警察が摘発しても、大麻に手を出す人間は次から次へと登場している。(略)なぜマスコミはこれほどまでに大騒ぎをして事件を仕立てあげ、その主人公たちを糾弾してはばからないのだろうか。理由は簡単であって、大麻が(実際にはかけ離れているにせよ)禁じられた快楽と自由の記号とされているからである。
とかって具合に、枚挙にいとまがない。

タイトルを目次から挙げとく。
○悲惨を観光する
 牛を食うインド人/イギリス人の動物愛護/ボロブドゥール観光/インドネシアの憂鬱/ジャカルタの中国人/大統領退陣/観光と旅行/南太平洋観光案内/世界のすべての悲惨/ポル・ポトの優しさ/犬と猿
○イランの純情
 少年兵の記憶/東京からの帰還/金曜日の礼拝/イラン映画の新星/男だけの世界/顔を隠す女たち
○もっと遠出をした
 ユダヤ教の新年/いささかボリス・ヴィアン風に/魅惑のパリ/メディアのなかのイタリア/出羽の守/ポルトガルの枯れ方/モロッコの音楽/モロッコの買い物の仕方/みんなアメリカ人になあれ/三日に一度はサルサ/「君のように生きよう」
○東アジアに生まれて
 玄界灘を渡る/誰が韓国を怖がるか/ユートピアからの亡命/本当は日本人/奈良/出雲/幸福な名前
○領土とは何か
 発展する大東亜共栄圏/ジェルソミーナの歩いた道/香港映画のなかのゲイ/香港返還直前/ミッキー・マオ/毛沢東グッズ/チャンプラリズム/一国二政府/沖縄とシチリア/コザの夜
○戦後というものはない
 生き延びた人々/戦後などない/アウシュヴィッツの天使/ふたたびアウシュヴィッツ/満州の埋み火/『南京大』/性奴隷/草むしり
○子供は大人の父親である
 HIV訴訟/授業ボイコット/頭が悪い/敬語は不滅/「ぼくがぼくであるために」/飛び級/バタフライナイフ/広末涼子
○家族を開放せよ
 隠す女、隠さない女/女の本当の名字/国際結婚の今昔/見捨てられた子供/結婚の生態/ハンコと戸籍/こんな私に誰がした
○怨恨の傷跡
 麻原のカリスマ/オウム裁判/AはオウムのA/われらの狂気/誰だって人質になれる/トゥパク・アマル/皆殺しの天使/グリコの余韻/冤罪
○日本人の貧しい暮らし
 素晴らしい日本旅館/遷都/世間様には麻薬/笑顔の民主主義/躍進する東大生/警察はサービス業/お世話になっております/新聞の宅配/愛犬日本/背広の肩落とし/しゃがむと座る
○学者と知識人は違う
 キューピー/知識人とは何か/鶴見俊輔/島田裕巳/小泉文夫/波瀾万丈の日本学者/喧嘩の仕方/編集者はどこへ消える?/ヤフー万歳
○人すべて死す
 パゾリーニ/ドゥルーズ/三島由紀夫の弟/ヴァン・デル・ポスト/勝新太郎/伊丹十三/新井将敬/死者のノオト/脳死/翼の役目

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冷たい密室と博士たち

2010-11-12 21:09:43 | 読んだ本
森博嗣 1999年 講談社文庫版
英題はDOCTORS IN ISOLATED ROOM。
ずいぶん前の本だけど、つい最近っていうか、昨日読みました。
ちょっと前に買っといたんだけど、読む機会なくて、きのう東京方面へ出ていく用事があったので、行き帰りの電車・地下鉄のなかで大半と、帰って来てからラストの数章をって感じで、一気に読みました。
ときどき短いセンテンスで1段落で改行しまくりなんで、スピードとしてはそのくらいで読めるものです。
ちょっと前に『すべてがFになる』を読んで、ちょっと面白いかもと思ったんで、そのシリーズ第二作っていう本作に手を伸ばしてみました。
が、今回は、そーんなに面白いとは思いませんでした。ちょっと急いで読み過ぎたからかな
タイトルのとおり、密室で、研究のため零下20度まで下げられる実験室で、起こった殺人事件の物語です。
謎解きというよりも、どうしてそういう結論に至るかという思考の筋道をスルスルと読んでくのが面白いなってのが、私の今回とった読み方ですが、たぶんそういう小説だということでいいと思うんですが、どうでしょう。
どうでもいいけど、途中で、トリックも動機も何も抜きで、カンだけで、犯人はこれだなって思ったら、当たってました。説明しようがないけど、これだろって感じが浮かんだんで。
ヘタにそうやって当たっちゃったから、サプライズがなくて、あまり感動しなかったのかも
コメント (2)
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涼しい脳味噌

2010-11-11 21:50:53 | 読んだ本
養老孟司 1995年 文春文庫
きのうのホリイ氏の江戸の話で思い出したように探したんだけど。
『落語の国からのぞいてみれば』のなかで、ホリイ氏は東海道を東京から京都まで歩いた経験について語ってた。
まあ歩くしかないから歩いたってのが、江戸の気分をリアルに想像する原点らしいんだけど。
ちなみに、一時間休憩なしですっと歩ける距離が「一里」だから、慣れてくると、次の目的地まで何キロと言わず何里と言っていたとか。
で、ある程度のペースで、長い距離を歩こうとすると、手は振らないというところにいきつくと。
現代人の歩き方は、手を振って歩くんだけど、右足と左手を同時に出すというのは、ねじってその反動で進むから、実は無理な歩き方だと、経験から喝破する。
んで、>人はカラダの延長線上で生きていた。移動もカラダを使っていた。どうすれば異常な距離を一気に移動できるか、さぐっていたわけだ。とか、>攻める歩きを昔の人がしていたのは確かで、それはカラダを使ってない現代人からは想像しにくくなってます。とか語ってます。
こういうフレーズが、どこか引っ掛かっていて、こないだ何気に本棚から見っけ出したのが養老孟司のエッセイ集。
『バカの壁』で一挙に有名になった著者だけど、私が最初に読んだのはこのあたりだと思う。
もとは解剖学者なので、カラダについてくわしいし、人間そういうのをリアルに感じなきゃダメだって主義。
生身の人体を陳列した「人体博物館」をつくって、誰でもじかに人体に触れて、人体に関する真の知識を得る必要があるといろんなとこで唱えてる。
現代の多くの問題、末期医療、臓器移植、脳死、これは身体が消えたために生じた。そう私は思う。とかね。アタマだけで考え過ぎ、っていうか考えたってわかんないでしょってことか。
ただ、あらためて読みなおしてみて、気づいたんだけど、そうやって身体というものがまじめに考えられなくなったのは、現代になってからぢゃなくて、江戸期からだっていう。
私がいまより身体を使ってそうだと思ってた、江戸時代でも既に身体の存在が失われてるって論である。
それ以前(戦国時代?)は「腹が減っては戦ができない」って身体にこだわってたけど、江戸に入ると「武士は食わねど高楊枝」とか精神第一主義に走ってるってのが、その証拠だそうで。
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江戸の気分

2010-11-10 21:39:51 | 好きな本
堀井憲一郎 2010年8月 講談社現代新書
私の好きなライター・ホリイ氏の新しい新書が出たんで、もちろん読んでみた。
まえがきに「落語を通して、江戸の気分をリアルに想像してみよう、という新書である。」とある。
すると、かの名著(と勝手に思ってるんだが)『落語の国からのぞいてみれば』の続編かと思うんだけど。
あとがきに、同じ雑誌連載の前半が『落語の国から~』だけど、「これは続編というわけでもない。もちろんとても近くのことを書いたものだけど、それぞれ別の新書です。」としてある。
ま、いいです、おもしろければ何でも。
江戸の暮らしを想像してみれば、現在を相対化することができて、いまの生活のヘンなとこあるのがわかるんぢゃない?ってことで。そういうこと学ぶのは当たり前で、だから歴史の教科書読め、っていうよりは、落語が題材のほうが、そりゃ楽しいでしょ。
たとえば、江戸時代に「薬食い」といえば、日頃手に入らない食材を食べること。タマゴとかイノシシとかウナギとか、栄養価が高くて、当時は高価なもの。
それは、病気を治すっていっても、なにか即効の治療をするってんぢゃなく、病に負けない体力をつけるほうが大事って感じだからで。病にかかるかどうかも治るかどうかも運次第、それが証拠に落語には、医者が患者を治したって噺はそんなになくて、医者ってのは診立てはするけど、治すことはしない存在、具合が悪くなった原因を指摘できれば名医ってことになる。
で、落語的劇中表現では、「病を引き受ける」って、よく言うもんだと。病は自分の内にあるもので、どうにもならないと悟ってる。
それに対して、近代人は病をすべて外部だと思ってると。>外のものがやってきて、自分のからだを侵食していくから、これをまた外に排除してくれ、医者だったら排除できるだろう、と考えているのは、近代人の異常性だとおもう。という結論になる。
それぞれそんな感じ、コンテンツを眺めただけで、すぐ読みたくなったし、すぐ読んぢゃった。
花見ってのは、冬が終わったこと確認、イコール飲んで眠っても凍死しない季節のゴーサインとか。江戸の商売は掛け売りが成り立っていて、それは顔の信用つまり人が動かないことと、年に二回か四回しか決済しないから世の中で金を回したりしてないってことを示してんだけど、それと今の躍起になってカネやモノを動かそうとする経済とどっちが幸せだろうかとか。
落語のなかにかくされてる、いろんな人とか世の中の仕組みを、見てくと気づかされること多くて、いいねぇ。
第一章 病いと戦う馬鹿はいない
第二章 神様はすぐそこにいる
第三章 キツネタヌキにだまされる
第四章 武士は戒厳令下の軍人だ
第五章 火事も娯楽の江戸の街
第六章 火消しは破壊する
第七章 江戸の花見は馬鹿の祭典だ
第八章 蚊帳に守られる夏
第九章 棺桶は急ぎ家へ運び込まれる
第十章 死と隣り合わせの貧乏
第十一章 無尽というお楽しみ会
第十二章 金がなくても生きていける
第十三章 米だけ食べて生きる
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