昭和30年代生まれの人は、TVの成長と共に育ってきたという感覚が強いと思う。その申し子的な存在が大橋巨泉さんだ。その巨泉さんが、放送の未来について語る会に参加する機会があった。何気なく申し込んだのだが、15倍の抽選に当たったということらしい。巨泉さんの番組は、随分見たし、本も随分読んだが、生の声を聴くのは、初めて。まじめな集まりだったので、巨泉さんも、まじめに、笑いをとりながら、一生懸命話してくれた。
まず、この会で紹介された(ビデオ録画のさわりを使用)巨泉さんのかかわった番組を挙げると、11pm、ゲバゲバ90分、クイズダービー、世界まるごとHow Much、こんなものいらないの5番組。それぞれが、巨泉さんの思い入れの番組だ。最後の一つ(シカゴ駐在時代で見れなかった)を除いて、私も随分熱心に見させていだたいた。
巨泉さんによると、当時に比べ、今はTV番組の商業化が進み、作り手の意見が取り入れられることが少なくなったことが、番組の質の低下につながっているという。下請け任せ、タレントありき、中身は二の次の番組作りが横行している。ドラマ作りでさえ、同じ状況になりつつある。最近のNHK大河ドラマを学芸会と称されていた。
TV局内で、編成、営業部門の力が増し、製作部門の力が弱すぎるという。あるあるの捏造問題も、そんな中起こった。昔は、誇張はあったが、捏造はなかった。視聴率を重視するあまり、視聴質が低下した。悪貨が良貨を駆逐するという例えが、ぴったり当てはまるケースだ。
私も同感で、今のバラエティ番組など見る気がしない。見るのは、NHKの3チャンや、ドキュメンタリー物がほとんどだ。タレントも消耗品化が進み、使う方も、使われる方も、それが分かっている。
バラエティ番組について言えば、1970年代までは、編集がほとんどなかったため、作る側も、タレントも、緊張感あふれる中で、生放送感覚で番組作りをしていたが、今は、編集前提の製作で(VTR編集技術の進歩)、それも、質の低下につながっているという。
ということで、巨泉さんは、放送の未来には、かなりネガティブで、インターネット、CATVで放送されている専門チャンネル(ニュース、天気、スポーツ、ゴルフ等)に、主役の座を奪われていくだろうというお考え。海外では、既にそういう世界になっているが、日本の視聴者はおとなしくて、番組の質の低下が続いても、まだ反乱を起こさず、TV局が生きながらえることができている。海外では、バラエティ番組や、録画のスポーツ中継、途中で、終わる野球中継、占いの番組などありえないが、今の日本のシステムでは、それでもまだOKだ。このシステムも、編成、営業中心の、TV局の体制によるところが大きい。
巨泉さんは、政治に足を突っ込んだ経験もあり、その話も出たが、外国に比べ、日本の庶民の従順さは、驚くべきものがあるという。それは、和を重んじる文化によるものかもしれないが、WWⅡに突入した原因にもなっており、現在の風潮も、その流れの中にあると感じられている。
反小泉のためと思って、民主党で当選してみたら、民主党内の考え方の不統一は、予想以上だったらしい。
11pmでは、慰安婦問題にも、正面から取り組み、まだ、50歳代だった元慰安婦に対するインタビューの記憶が鮮明に残っているという。残念ながら、そのテープは、残っていない。そのインタビューを見れば、狭義の慰安婦はいなかったという発言は、絶対できないのではないかとのご意見だった。
TVの歴史を担ってきた巨人の生の話が聞けて、有意義だった。我々大衆ではなく、政治家や、放送局の経営陣にこの話を聞いてもらいたかった。
リタイヤした人のたわごとではなく、見て見ぬ振りをしている方々への、貴重なメッセージだ。
巨泉さんの生き様の大きなポイントに、セミリタイアメントがある。50歳でやめるつもりが、まるごとHow Much が面白くてやめられなくなり、セミリタイアメントが遅れてしまったそうだ。これも、自分の思ったとおり、率直に生きる巨泉さんらしい。勿論この生き方が、誤解、反感を招いている面もあるのだが。
インターネットについては、世界各国のニュースがいつでもどこでも入手でき、メールで、時差を気にせずコミュニケーションがとれるツールになっているという点で、欠かせないくなっているが、現在新聞とのバッティングがちょっと深刻になりつつある段階で、TVとの融合については、まだ先というお考え(日本では、まだ、インターネットよりTVを見ている時間の方が圧倒的に長く、広告収入も、TVの方が圧倒的)。TV番組の質の低下が続くと、この世界の変化も速まるかもしれない。
それにしても、巨泉さんが製作にかかわった番組の記録(特に初期のもの)が、ほとんど残っていないのは残念だ(ゲバゲバも、巨泉さんの出る司会部分は、生放送だったとのこと)。硬派、軟派の題材を、同じ番組内で、あれだけ見事に両立させたことは、後にも先にもないのではないか。