かねやんの亜細亜探訪

さすらうサラリーマンが、亜細亜のこと、ロックのこと、その他いろいろ書いてみたいと思ってますが、どうなることやら。

松平春嶽と橘曙覧(たちばなのあけみ)

2007年05月24日 | Topics
相変わらず、高い水を飲み続けている大臣は、何も答えない。法律に違反しているのかいないのかは知らないが、税金がちゃんと使われているのかいないのか、公権は、きちんと納税者の知る権利に応えられるよう捜査して欲しい。法律に違反していなくても、税金を使っている以上、政治家たるもの、説明できる使い方はしていなくてはならない。
一方、一般納税者は、よくわからない追徴課税を迫られるケースが多々あるようだ。小泉さんだったら、このまま放置しなかったと思う。
母子殺害事件で、21人の弁護団が組まれたという。冤罪かもしれない事件ならまだしも、事実関係ははっきりしている。被害者家族の気持ちを、どう考えているのだろう。言葉もない。
検察側も弁護側もどうなってしまっているのだろう。

福井藩の松平春嶽公と橘曙覧(たちばなのあけみ)さんについての話を聴く機会があった。講師は、福井市郷土歴史博物館の角鹿(つのが)尚計(なおかず)氏。経歴から言っても、話の中身から行っても、現代の国学者といってもいい方。おまけに、春嶽公の子孫と、橘さんの子孫もいっしょという150年前に時代スリップしたような一時だった。

正直、このお二人のことは私もあまり知らなかったので、ちょっとご照会すると、松平春嶽公は、越前福井藩の14代藩主(越前福井藩の初代藩主は、徳川秀忠の兄という由緒正しい藩であったが、不幸な事件も重なり、幕末が近い当時、藩の財政は、破綻状態だった)。江戸城内の田安(たやす)徳川家に生まれ、中根雪江(なかねせっこう)に教育を受け、福井藩主となり、当時、破産状態であった藩の財政を、橋本左内、由利公正らの補佐もあり、立て直した。江戸末期には、当初攘夷派で、安政の大獄で、若くして隠遁したが、その後開国派に転じ、明治維新後も、政治家として活躍した。

一方、橘曙覧さんは、福井の同時代の歌人、国学者であったが、身分も低く、高い才能を持ちながら清貧な一生を貫き、江戸から明治に変わる寸前に亡くなった。「貧しくも、心豊かに生きる」を、地でいった人だ。万葉集の時代の橘諸兄の末裔といわれ、後に正岡子規が、源実朝以来の歌人と称えたり、クリントンさんが、米国を訪れた天皇陛下に対する挨拶で、その歌を引用したことでも、知られる。

この話で面白いのは、徳川家の血筋を引く松平のお殿様が、まったく身分も立場も違う橘さんの才能にほれ込み、弟子にしてくれと懇願したが、橘さんは命がけで(お手打ち覚悟)それを拒み、一歌人として、一生を終えていることだ。
その断った時の歌を書いた、短冊が残っている。

花めきて/しばし見ゆるも/すずな園/たぶせの庵(いお)に/さけばなりけり

古文には疎いので、よくはわからないが、要するに、私は田舎でひっそりといるから光っているのだよ、ということかなと思う。
この短冊を送られた春嶽公は怒りもせず、返歌を送り、この短冊も大切に保存したという(今は、福井市郷土歴史博物館に保存されている)。
春嶽公は、橘さんの家(藁屋(わらのや))に、中根雪江の案内で訪れたとも伝えられ、そのあまりの粗末さに驚いたという。
春嶽公は、橘さんが亡くなった後も、慕い続けたという美談である。

橘さんは、独楽吟(どくらくぎん)という歌集で、人気を博する。52首からなる歌集だが、たのしみは~時というパターンの句のみでなっている。

たのしみは/朝起き出でて/昨日まで/無かりし花の/咲ける見る時

たのしみは/機織りたてて/新しき/衣を縫いて/妻が着する時

たのしみは/まれに魚にて/児等皆が/うましうましと/いひて食う時


最初の歌がクリントンさんが天皇皇后両陛下が訪米された時の、スピーチで引用したもので、英語では、

It is a pleasure when rising in the morning I go outside and find a flower that has bloomed that was not there yesterday.

となる。英語だと何やら味気ないが、クリントンさんは、その情景と心情を理解されたのだと思う。その心情、光景は、現代にも通ずるものだ。

春嶽公は、江戸末期に、その穏やかかつ先駆的な発想を(尊王敬慕愛国論)もって、平和な革命を成功に貢献し、明治維新とその後の近代化に大きな力を発揮した。

いい話を聞いた。
コメント (2)
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