今日は、なぜか悲しいことがたくさんあった。目覚ましTVでの運勢はそう悪くなかったのに。その中で、最悪は、巨大金魚の残りの一匹が死んでしまったこと。享年3年弱。相棒が先に死んで寂しかったのか、元々寿命だったのか。合掌。
ぽっかりと空になった水槽が、家族の心を象徴しているようだ。
川渕三郎さんの講演を聴く機会があった。
前にも書いたと思うが、ドイツワールドカップのアジア予選の際、シンガポールで、一緒の部屋で、不愉快な試合を同じ部屋で見て以来(弱小シンガポールに対し2-1で辛勝。同じ部屋だったのは、シンガポールは暑いため、VIPルームが用意されていて同室だったため。)だったが、その時と全く変わらずエネルギッシュ。
私があまり知らなかった日本のワールドカップへの道を語っていただいた。
日本のサッカーは、1965年の日本リーグ立ち上げ後、1968年のメキシコで、メダル獲得後1996年のアトランタまで、全く国際試合に勝てなかったのだそうだ。今、ワールドカップに、出場できるようになった日本を当たり前と思っている人には、信じられない話。小学校時代、国立競技場に、日本サッカーリーグを見に行った記憶があるが、子供ながらに下手だった(背番号5番の選手だった)。
元々、1990年に、2002年のアジア初のワールドカップを日本に誘致しようということになり(ここから突飛なのだが)、Jリーグ構想が浮上。1990年には、15000人以上収容できるスタジアムがなく、4000人以上収容できるところでさえ、2つしかなかったという。いかに突飛なのかがわかる。
Jリーグのチーム設立には、①ナイターで、15000人の観客を収容できるサッカー場を持つ、②法人化する、③ホームタウンを持つ、④下部組織を持つという条件で、チームを募ったが、当初の20の申請が、14にはなったが、最後に絞る時、ひじょうにたいへんだったとのこと。
その時、何にもベースのなかった鹿島がねばり、無理難題をふっかけたがついてきて、結局Jリーグの一員となり、その後強豪チームになった。そのおかげで、鹿島の暴走族が応援団に変わるという副次的効果もあったらしい。
Jリーグの人気が定着してからの様子は、皆さんご存知のとおり。
ドイツで、決勝リーグに残れなかった時、予定より早く帰国し、お詫び会見を開いたところ、次期監督は、オシムと漏らしてしまったため、お詫び会見ではなくなったしまった(この場面のみが繰り返し放映された)。故意のリークではなかったと、心底おっしゃっていたので、これは嘘ではないのだろう。
この非連続な成長を遂げた日本のサッカーから学ぶことは多いように思った。