今週末は、伊豆に行っていた。台風と秋雨前線の合間を縫って、伊豆下田に行ってきた。
まず行ったのは、下田開国博物館。手作り感あふれる博物館だが、下田の祭りの話から始まって、ペリー、ハリス、唐人お吉(この辺までは説明不要)、吉田松陰(下田で、ペリーの船に乗り込もうとして失敗し、結局死罪になった)、下岡蓮杖(れんじょう)(日本の商業写真の開祖)、プチャーチン(ロシアのペリーに当たる人)など、わかりやすい展示が続く。下田が、横浜開港の前、欧米露に対する最前線であったことがわかる。
展示を見ると、ペリー前にも多くの欧米露の船が東伊豆に押し寄せていたが、門前払いで済ませていたので、ペリーのように、歴史に名を残さなかったということらしい。そのため、東伊豆には、6つのお台場があったという。北は富戸、南は、この下田近辺。ペリーの大艦隊が来て、問題先送りができなくなったということだろう。
吉田松陰は、この下田港に停泊するペリーの船に乗り込むべくいかだで乗り出したが、失敗し、結局死罪となった。博物館に近いここは、捕まって、まず連れてこられた場所だ。
宝福寺には、唐人お吉のお墓がある。評判の芸妓だったが、その美貌ゆえに、ハリスに奉公することとなり、恋人と引き裂かれ、日本人からも毛嫌いされ、ハリスの死後、小料理屋を開業したが、それも失敗。身を持ち崩し、結局、自ら命を絶った。弔うお寺が無く、この宝福寺のみが、受け入れたという。
昭和5年までのお墓は、このようなみすぼらしいものだったが、この開国前夜の悲劇は、多くの芝居に取り入れられ、杉村春子さんらにより、少し立派なお墓が建てられた。
宝福寺は、当時脱藩していた坂本龍馬を許すよう、勝海宗が、土佐藩主山内容堂に直談判した寺としても、有名だ。勝が、この盃で、飲めない酒を飲み干したことにより、山内は、坂本の脱藩を許し、それから、坂本龍馬の最後の活躍が始まる。談判した部屋も、その時の盃も、展示されている。
下田が有名なのは、何といっても、ぺリーが最初に上陸したことによる。ここが上陸地点。
下田は、今も当時の面影を残す、のどかな港だ。
ここが唐人お吉がやっていた小料理屋。ここも当時の面影を残す。
ここは、玉泉寺。アメリカ最初の領事館がここだ!ハリスがここで、アメリカ代表として駐在した。日本最初の牛の屠殺場なども残る。
ということで、下田は、横浜よりちょっと前に、西欧文明にちょっぴり触れた街だった。ふらり散歩するには、打ってつけの町である。