こんにちは。19期佐々木辰也です。夏本番を迎えて厳しい暑さが続きますね。熱中症予防に十分ご留意ください。
今回は、歴史のお話です。
みなさん、北条早雲という人はご存知でしょうか? 歴史の教科書などで聞いたことがある方もいらっしゃると思います。
彼は身分の低い人が高い人にとってかわる社会現象、いわゆる下剋上を始めたことで有名です。
意外なことにそのきっかけが実は経営改革だった、というお話をお伝えしようと思います。
彼は教養が高い名家にうまれた室町時代の人で、本名は伊勢宋瑞(いせそうずい)といいました。将軍の足利義政の弟に仕えるお役人をしていましたが、壮年期になって駿河の国主である今川家の相続問題を解決するために派遣されました(現代でいうと民間への出向ですね)。任務完遂後でも京都には戻らず駿河に留まり、興国寺領(沼津の近辺)の地頭職という今川家の関連会社の社長のような職務に就きました。
興国寺領で彼が目の当たりにした領民はとても貧しい暮らしをしていました。当時の税金は五公五民が基準で、土地所有の重なりのためそれ以上に重税のケースもあり、領民は餓死寸前のぎりぎりの生活を強いられていたのです。彼はこのことにショックを受けました。
領民思いの彼は四公六民という減税政策という善政を布きました。1年間分のうち6割もの作物が手元に残るので領民にはとても評判がよく、彼は皆から慕われるようになりました。このよい評判は隣国の伊豆や相模にも伝わり、流民になった農民が興国寺領に集まってくるほどでした。しかしその反面、彼の領土経営の財政はひっ迫してしまい、今川家への奉公や有事のリスクへの蓄えも借金で賄う始末で、ともすれば破綻しかねない自転車操業状態に陥ってしまいました。
この状態を改善したい彼は、規模を拡大すれば経営が安定するということに気づきはじめました。彼はきっと固定費や変動費といった概念をも知っていたのでしょう。貨幣経済がまだ定着していない時代に、こういった経営感覚があったということは驚きですね。
お隣の半島国の伊豆には堀越公方というとても偉い足利氏がいましたが、ちょうどその頃に相続問題のいざこざで当主が突然に殺されてしまうという事件が起きました。これを解決させるために、彼は家来や兵とともに興国寺領から伊豆に入り込みました。そして彼はきちんと室町政治のルールを守った上で、つまり本社である今川家と政府である将軍家の了解を事前に受けて、その代理という立場で経営にあたる役割を得ました。伊豆の領民は評判どおりの彼に反抗することはなく、むしろ協力的でした。
結果的に彼は興国寺領と伊豆国とを合算して早雲会社の規模拡大による経営の安定を実現しました。現代でいうM&Aといえるでしょうね。その後、彼は中間流通を省いたり、範囲の経済を活かしたりして業績を向上させていきました。
しかし、彼は伊豆国を所有しようとはしませんでした。あくまでもルールどおり所有は国主のままにしたのです。現代でいう経営と所有の分離にあたるともいえそうです。
いつしか領民は、300年前に北条という名家が住んでいた丘に建つ早雲庵に住むリーダーということで、彼を北条早雲と呼ぶようになりました。この名前は領民が尊敬の想いでつけたもので、彼自身がこう名乗ったことは生涯にわたりなかったそうです。
彼はそれ以前の時代の人たちには考えもつかなかったリーダーだったのです。血統や官職といった権威のある人しかリーダーになれない中世という時代に、彼は、「領民から認められる」という要素を取り入れた新しいリーダー像を作り上げました。まるで現代の経営学を学んでいたかのようですね。これが彼以後の時代に登場してくる戦国大名が持つべき資質の一つとして社会に定着していきました。
いつの時代でも社会や経済の変化によって、新しいスタイルの経営者や経営方法が生み出されてきました。彼のような歴史的改革者の行動は、経営を研究する人々にいつまでも参考になりつづけるのかもしれませんね。