余合です。2回目のブログ投稿です。
台風10号のおかげで少し涼しい日もありましたが、また暑さが復活しています。
そこで、今回は私が経験した「怖い話」を書いて見たいと思います。私はこの話を思い出すたびに、今でも背筋が寒くなり、暑さを一瞬忘れます。
人間60年も生きてくると、戦争を知らない我々世代でも結構いろいろな目に会っております。
自然災害という意味では、生まれた直後に5000名が亡くなった伊勢湾台風に遭い、母の背中でしこたま泥水を飲んで死にかけたとか、それからちょうど3廻り目の36歳の時に、勤務先の兵庫県甲東園で阪神大震災により舎宅を潰され、3か月間生活用水を軽トラで汲みに行くハメになったとかその他諸々あります。
また事故では、春山で10m滑落し打撲で右半身真っ黒になったとか、酔っぱらって川に落ち、ふと見るとすぐ横に1mの杭がニョキッと立っていたとか。
そのなかでも一番怖かった経験といえば、業務出張で南米ベネズエラに行った時のカラカス空港での出来事です。
当時私は会社の従業員組合で書記長をやっており、毎年1回海外の駐在員のご家庭を訪問して、海外生活での苦労話や会社に対する処遇改善ニーズなどを特に駐在員の奥様から聞いて回ることに携わっておりました。
この時は中南米「ツアー」ということで、ニューヨーク経由ベネズエラ、パナマ、メキシコを回ることになっておりました。ところが最初の訪問地ベネズエラへのフライトはニューヨークの大雪の為遅れに遅れ、夕方6時に着くはずがカラカス空港に着いたのは翌12月24日の未明、午前1時過ぎになってしまいました。
クリスマスイブです、一緒に乗ってきた地元の乗客は出迎えの家族に会うと笑顔でどんどん帰宅の途についていきます。私はたった一人。出迎えに来ているはずの駐在員事務所長付の運転手が見つからない。ハッと周りを見ると他に誰もいなくなっております。
クリスマスイブです。7時間もフライトが遅れ、しかも夜中になってしまっては出迎えに来ないのか・・・・。ふとみると15mくらい離れたところにハイティーンのちょっとガラの悪そう(に見えた?)な連中が4,5人たむろして私を見て笑っています。
「どこかで見たシーンだな?」と思っていると、そうです、昔1980年代後半、まだ治安の悪かった頃のニューヨークに勤務していた際、残業で夜中にハーレムの下を通る地下鉄Aトレーンに乗った時と同じ光景です。「ヤバイ」と思い、タクシーでもいないかと空港の外を見ますが「真っ暗」。何も見えません。みるみる血の気が引く自分がわかりました。
とその時です、一人の30歳過ぎの男が私の会社名を書いたプラカードを掲げて走ってきます。
「ああ!待っててくれた!!」。恥ずかしながらその姿を見て目頭が熱くなりました。その男の名は「ホセ」。実はここからが本当の「恐怖」でした。
彼は、日本語は当然、英語も全く話せません。アジア系は私一人しかもう空港にはいませんので、彼が出迎えるべき人間が私だということは認識したようですが、せっかく出迎えてくれたにもかかわらず、車のところへ案内しようとしません。何故か一人ですたすた行ってしまいます。ついていくと「ここで待て」との手のサイン。
「えっ!?」と思って逡巡している隙にホセの姿が見えなくなりました。「車を回してくるのか」と思い待っていましたが、10分経ち15分待っても彼は戻ってきません。例のハイティーン5人組はまだ近くでこっちを見て笑っています。
「これで私も終わりかな…」と本当に思いました。
結局ホセが車に乗って戻ってきたのは30分近く経ってから。どうも早くから待っていたので車を立体駐車場のかなり深い場所に止めていたらしく、戻ってくるのに手間取ったらしい。今度は本当に半泣き状態で、戻ってきたホセの手を握り「ありがとう!」の連呼でした。
ホセの車に乗り、ようやく町中のホテル目指してハイウエーを走っていると、道の両脇の山らしき場所に沢山の明かりが点滅しています。ベネズエラは石油で儲かっている国。クリスマスの飾りつけも凄いな、と思いつつホテルにようやく着きました。
翌日、駐在員事務所長に「さすが、リッチなベネズエラ。空港からのハイウエー沿いのクリスマスデコレーションは見事ですね」と言うと、「えっ、あれは貧民窟の裸電球だよ」との答え。
ホセがいなかったら….
地球の裏側で、まったく縁もゆかりもない私をクリスマスイブの早朝に待ってくれていたベネズエラ人。昨今最も近い国といろいろあるようですが、ホセのことを思い出すにつけ、たまには喧嘩しつつも根っこでは信頼していきたいものと思います。
「ホセよ。君は今も待ってくれているか」