今日は地元の琴似神社の例大祭。
露店もたくさん出るので、お参りがてら一緒に見て回ろうと妻と待ち合わせて出かけてきました。
本州で祭りが盛んな土地柄では、ネリを引いたり神輿を担ぐことに情熱を燃やして、「盆暮れには帰らなくても祭りには故郷に帰る」というくらいのところがありますが、うちの地域ではそこまではいきません。
せいぜいお参りをして露店を見て回るのが楽しみというところです。
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参拝の前に水で清める手水では、若い女の子たちが、「まず左手の掌に水をかけて、次に持ち替えて右手にかける…」と手水の取り方を教え合っていました。
最後にひしゃくを持ち上げて、手で持ったところに水がこぼれ落ちるようにすると、「やった~、できた!これで女子力アップ!」と嬉しそうにしています。
「若い女の子たちで、参拝の作法を学ぶのが流行っているのかね?」
「え~、そうかなあ」
とても微笑ましい光景でした。
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お参りには長蛇の列ができていましたが、こんな光景は初めて見ました。
参拝の列の私たちの前には、ちょっとだらしない風体のカップルが二組いて、缶ビールを飲みながらぺちゃくちゃとおしゃべりをしていました。
女の子の方も屈託なく大きな声で笑って、周りの顰蹙をかっていたのですが、列のさらに前にいて、それを見かねた年配の女性がとうとう、「あなたたち、ここは参拝をするところよ!ちょっと慎みなさい!」と叱り飛ばしました。
すると当のカップルたちは、ちょっと驚いた様子でしたが、「あ~、怒られた~。こんなところで怒られるとは思わなかったな~」と謝りもせずぼやきつつ、それでも列を離れようとはしません。
結局順番が来るのを待って、お賽銭を入れて作法も何もあったものではありませんが、一応お参りをして帰りました。
だらしなくても怒られても、それでもなおお参りだけはしようという彼らの心の中にどのような気持ちがあったのかはわかりません。
それでも、誰も布教もせず、誰も「お参りに行きなさい」などとは言わない神道という信仰の形は、日本人の心の中に不思議なほどしっかりと入っているようです。
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以前、静岡の小国神社を訪ねた時に、宮司さんに「神道はこの先大丈夫でしょうか?」と訊ねた時のことを思い出しました。
宮司さんは、「そうですねえ、まあ大丈夫じゃないかと思いますよ」と答えてくれましたが、「なぜですか?」というさらなる質問にはこう答えてくれました。
「お勤めをしていたら、ハンドルをものすごく高くした改造バイクに乗っている青年たちがやってきて、新車のお祓いをしてくれ、と言うんです。私はこの姿がある限り、日本の神道は大丈夫だと思いました」
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宗教法人法が規定する宗教法人とは、①教義があること、②それを布教していること、の二つが満たされるものだと言います。
日本の神道は、これらの定義とはちょっと異質な存在のように思えます。
私たち日本人は、宗教を尋ねられた時に「無宗教です」と答えるほどに、我々にとっての神道は意識のさらにずっと奥に埋め込まれているものになっているようです。神様はすぐそこにいるのです。
帰りがけに買った広島のお好み焼きとたこ焼きを美味しくいただきました。