五月になって、森の中では鳥たちの子育てから雛の誕生する季節になりました。
禅に「啐啄同時(そったくどうじ)」という言葉があり、これは「啐(そつ)」と「啄(たく)」は同時でなくてはならない、という意味です。
ここでの「啐」とは、鳥の雛が卵の中で成長して、今まさに殻を破って外に出ようとするために卵の殻を内側からコツコツとつつくことを言います。
そして「啄」とは、親鳥が外側から卵の殻をコツコツとつついて雛鳥が殻を破ることを助ける動作のことを言います。
「啐啄同時」とは、まさにこの雛が外に出ようとする瞬間と、親がそれを助ける瞬間が絶妙に同時でなくてはならないという意味で、転じて、師匠と弟子の間での修行の場において、弟子の内面が充実して弾けんとする当にその時に、師匠は弟子が悟りを開けるような教えを与える、という意味に使われます。
つまり、弟子を育てるということは、ただ漫然と教え続けるのではなく、その適切な時期に適切な助言を与えることが必要である、という教えなのです。
師匠としてはそれだけしっかりと弟子の様子を見極めていなければならず、それがまた単に教えを与える以上に、師匠としての役割でもあるのです。
まだ成熟してもいないのにより高度な教えを与えてもそれは身にはつかないということ。
なかなか深い言葉であります。
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そして成長しようと思えば、師匠だけではなく弟子の側としても十分に心を尽くさなくてはなりません。
司馬温公の「勧学の歌」には、「子を養うて教えざるは父の罪(とが)なり。師道にして厳ならざるは師の怠りなり。父教え師厳にして学問ならざるは子の罪(つみ)なり」とあります。
原文の読み下しでは、「とが」と「つみ」を分けて読んでいますが、「とが」は道義的に避難されるべきことで、「つみ」はそれよりももう少し強い意味を持たせている印象です。
育てようする側と育てられる側との絶妙なタイミングというものも、なかなか奥が深いものですね。