最近あちらこちらで、人材育成の必要性について聞く機会が多くなりました。
しかしながら話を聞いていると、そこで求められている「人材」の質とは、資格取得だったり業務上の知識だったり、コミュニケーション能力と言ったような、まあなんとか目に見えるような即物的な力ばかりという印象。
「人材育成ってそういうことなんでしょうかね」と考えていたら、ある人が、「ある企業の幹部が『人材育成ばかり考えて、能力のある人を求め続けて失敗だったと気が付いた。求めるべきは、大局的な価値観や人間力のある【人物】であるべきだった』ということを言っていましたよ」と教えてくれました。
なるほど、人材ではなく人物ですか。
しかしそうなると、【人物】とはどういう人のことであるか、というイメージが頭の中になくてはなりません。
自分自身が【人物】ということに対するイメージがなければ、どうありたいか、どうなってほしいかという理想が示されないからです。
私なりには、そのためには、一に人に会うこと、二に書物を読むことしかないのだと思います。
実際に多くの人に会って、その中から市井に紛れていても立派な人物と、世間的には地位のある方であっても首をかしげるような方とを自分の目で見極める、すなわち人を見る眼力を養わなくてはならないのです。
ところがただ人を見ると言っても、壁の隙間から覗くような見方ではいけません。その方と話をして互いの胆力の切っ先を触れ合わせるような真剣さが必要です。
当然自分に確たる何かがなければ、相手の力量を判断することなどおぼつかない訳で、そのためにもまずは自らも日常の中で自分自身を鍛えるという心構えでありたいものです。
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そしてそれほど多くの人に会えないというのであれば、古今の英雄や立派な人たちについて書かれた書物を読むべきで、これこそ、時代を超えて会えない人に会うための努力と言えるでしょう。
素晴らしい人の生きざまに触れた時に人には「尊敬」の念が沸き起こります。
私にも人生を変えた師と呼べる人の出会いがあって、先方は決して私のことを弟子だとは思っていないでしょうけれど、自分で勝手に師匠と決めているのですが、このことを「私淑する」と言います。
私淑する、尊敬すべき対象となる人物がいることは幸せな人生と言えますし、「かくありたい、少しでもあの人に近づきたい」という思いは自分自身を育てるのに大いに役立つことでしょう。
人を育てる、育成するなどというのはおこがましいのですが、いつかそういう立場に立った時のために、まずは自分自身を律していたいものです。
上杉鷹山公は、こう詠みました。
人多き 人の中にも 人はなし
人になれ人 人になせ人
さて、自分は「人」になれるでしょうか。