北の心の開拓記  [小松正明ブログ]

 日々の暮らしの中には、きらりと輝く希望の物語があるはず。生涯学習的生き方の実践のつもりです。

自由とまちづくりの相克

2013-05-30 22:06:32 | Weblog

 blogosという、ブログサイトがあって、様々な立場の人が日々自説を展開しているのですが、これがなかなか面白い。

 今回は東京都における、路上での弁当販売に対する新しい規制を話題にした記事が二本あって、それぞれに視点が違って興味深いものでした。

 
      ◆     

 まず最初は、『新しい規制は必要か』と題した、弁護士ドットコムの記事。

blogos【新しい規制は必要か】
 http://blogos.com/article/62969/

 ここでは問題点を、「新たな路上販売に対する規制は必要か」という所において、『弁当の路上販売は届出制だが、最近は無届の業者も増えているという。たしかに、消費者保護という観点からすれば何らかの新たな規制を導入するのは仕方ないかも知れないが、路上販売が全くなくなってしまうというのも寂しい。衛生面に問題のある弁当をなくすために、新しいルールが必要なのだろうか。また、もし制限をするとすれば、どんな規制が「落としどころ」になるのだろうか』と疑問を投げかけています。

 弁護士的な視点で、新しい規制について語ってくれましたが、これはちょっと的外れな印象があります。

 それは、今回の規制が必要な理由はまちづくりそのものにあると理解した方が良いからです。


      ◆     


 今回の東京都による路上販売規制のポイントは、表向きは衛生面での不備を問題にしていますが、それよりもこちらの記事の方がもう少しこの問題の背景をしっかりと理解しています。

blogos【「弁当の路上販売規制問題。利害関係者が自説を堂々と主張しない日本の社会風土」】
 blogos http://blogos.com/article/63141/

 こちらの方は、『東京都が規制強化を検討する理由は衛生問題だという。日光のあたるところで弁当を販売すると、雑菌が繁殖し食中毒が起こりやすくなるというがその理由だ。
 だが衛生問題というのは規制を強化する本当の理由ではない。背景には、路上の弁当販売に顧客を奪われている地域飲食店の存在がある』

『確かに弁当の路上販売は、届出制となっており、一般的の飲食店のような許可制ではない。初期費用も少なく手軽に始められる路上販売が低価格で弁当を販売することで、地域の飲食店が苦戦を強いられているのは事実だろう』

『道路は公共の場所であり、税金が投入されている。公共の場所でどの程度までビジネスが許されるのかは、諸外国でも議論になっており、そのこと自体にはいろいろな見解があってよい』

 …とこの記事では、この問題のポイントが、路上販売が行われる周辺の地域飲食店の経営問題であることを看破しています。

 そこまで見抜いていながら、論点が、「利害関係者である地域の飲食店自らが、表に出てそれを堂々と語ろうとしない」、日本的な言論風景を問題にしてしまっているのは惜しいところ。

 それよりも、地域の利害調整を行うのは行政なのか、という視点で書いた方がずっと面白かったのに、と思います。


      ◆     ◆  


 東京都内のオフィス街では、昼時になると昼食を求めるサラリーマンたちが一気に周辺の飲食店に押しかけます。

 一瞬それに出遅れると、長蛇の列の最後尾に並ばされて、下手をすると昼休みの間に職場に戻れないという事態にもなりかねません。

 そうした情けない状況を「昼食難民」と揶揄する向きもあるくらいで、それほどサラリーマンの昼食環境は厳しい者があります。

 そうしたニーズに颯爽と登城したのが、ワゴン車などで売りに来る路上の弁当販売業者たち。

 まともなお店に入れば千円前後はするランチや味が濃くて品数も少ないコンビニ弁当に対して、売りに来るワゴンも多くバリエーションが豊富で500円前後と安く、おまけに弁当であれば職場で食べられるために、午後の始業に間に合わないなんてこともないということで、大人気になっているわけです。

 路上での販売は東京都の場合届け出制であり、届け出を出しさえすればほぼ自由な商売ができることになります。

 しかしワゴン販売の弁当が安く提供できるのは、土地代や家賃の高いオフィス街に常設で店を構え、店員を雇っている既存のお店に比べて、そうした経常費がないからです。

 法律にダメと書いていないことやって良い、という自由主義の社会では至極当たり前のようなことですが、この自由を野放図に展開し続けると、結局既存店舗は売り上げが落ちて、店をたたんでしまって、夜飲みに行く店が少なくなる事も考えられます。

 つまり、規制を解除して自由で活気ある(と思われる)経済活動を進めることは、結局、健全な賑わいを保ち続けるマチが維持できないことになるという、不経済…というよりは不健全なマチを生むということに繋がるのです。


 
      ◆     


 そんなわけで、地域の商店が健全経営をして店を開けているというまちづくりの姿と、「そうは言うけど、安い弁当が欲しい」というサラリーマンのニーズ、さらにお店をちゃんと経営して儲けたいという店のオーナー、そして、自由に商売をしてやはり儲けたいというワゴン弁当売りの人たちの思いが複雑に交差することになります。

  これを規制緩和を進めたいという論者から見れば、「弁当屋がんばれ、東京都ふざけるな」ということでしょうし、(そう言えなくもない)既得権益を守りたいという既存飲食店の思惑もあるでしょうし、市民住民のニーズと健全な町並みを残すというバランスを考える行政としては、一定の規制をかけたいという思惑があるでしょう。

 問題は、自由主義社会でありながら、法律でやっていけないことは何でもやって良いのかどうか、ということ。

 また、(やり過ぎたらだめなあ)という抑制の気持ちを、商売という戦争をしている人たちのモラールに求めるのか、ということでもあります。

 その結果、そういう利害関係者たちの意見を聞きながら調整をする損な役割というのは結局行政しかないのだろうな、ということであります。

 しばしば時々の住民のニーズというのは気まぐれでわがままです。

 地域の商店街が潰れていったのも、郊外型大型ショッピングセンターの出店をとめられず、またそちらの方が車社会にマッチして利用者にとって便利で快適だったから。

 それを商店街がニーズをくみ取れず、結束して対処もできなかった、というべきなのか、大型ショッピングセンターは地域の喜びを満足させる黒船だったのか、はたまた地域の商圏を焦土化して、結局車のない高齢者の買い物環境を奪った諸悪なのか。

 立場の違う人たちの価値感を相対的に考えたときに、一番地域での効用が大きいのはどのような回答になるのか、しかもその効用も時代と共に変化する社会の中で、「今」の決断はいかにあるべきか。

 そういうことに市民も思いを寄せてまちづくりに参加して欲しいものです。


 たかが弁当売りですが、その裏を考えると、全てはまちづくりに繋がりますね。

 


  

 

コメント
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