北の心の開拓記  [小松正明ブログ]

 日々の暮らしの中には、きらりと輝く希望の物語があるはず。生涯学習的生き方の実践のつもりです。

イプシロン成功の深い意味

2013-09-20 22:41:41 | Weblog

 9月14日に打ち上げが成功したJAXAの小型ロケット「イプシロン」

 鉄腕アトム世代の私には、「イプシロン」と聞くと、鉄腕アトムの「地上最大のロボット」という物語に登場した「エプシロン」というロボットを思い出します。

 物語は、世界7大ロボットの一つとして、日本のアトムなど七人(?)のロボットがリストアップされて、悪役のプルートというとても強いロボットが自分こそ最強であることを証明するために、このロボットたちに挑戦し破壊していくというもの。

 漫画の中のエプシロンというロボットは、オーストラリアの幼稚園の先生ロボットです。

 彼は光をエネルギーにする光子ロボットで、子供たちから慕われる優しいロボットとして描かれていました。

 最近では、この漫画を浦沢直樹さんがリメイクした「PLUTO」という漫画がヒットしましたが、イプシロンという名前に郷愁を感じる世代の方も多いことでしょう。


      ◆     ◆     ◆


 さて、そんな漫画とは全く関係のない、日本の小型ロケット「イプシロン」ですが、発射中断というトラブルを経ながら、二度目は無事打ち上げ成功。

 「ひさき」と名付けられた小型衛星の放出にも成功し、日本人として心の底から誇らしくて喜びが湧いてくる話題となりました。

 さて、このイプシロンは、これまでのHⅡ-Aロケットよりもずっと小型で、打ち上げの手間を最小限に抑え、安く打ち上げられるロケットとして紹介されることが多いのですが、実はこれが成功した意味というのは日本の科学技術を進歩させる上でとても大きな意味を持っているのです。

 そして、今回打ち上げられた衛星「ひさき」にも、新しい衛星開発の考え方が導入され、これもまた世界をリードする技術が結晶としてこめられていました。

 そんな話題が、小型科学衛星プロジェクトのプロジェクトマネージャーである澤井秀次郎さんへのインタビュー記事としてJAXAのホームページに載っていたのでご紹介します。

 

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『世界最先端をめざすセミオーダーメイド型の衛星』
  ~惑星分光観測衛星「ひさき」(SPRINT-A)~

 

【Q. 小型科学衛星プロジェクトの概要と目的を教えてください。】
 私たちが開発している小型科学衛星は重量500kg以下のもので、従来の中型・大型科学衛星を補完する位置づけにあります。近年の技術的進歩によって機器の小型化が進みましたので、これまで中型・大型衛星でなければできなかったミッションも、小型衛星で実現できると考えています。

 しかし、複数の観測機器を搭載する、重量数トン以上の大型衛星と同じことを小型衛星でできるかというと限界があります。ミッションの目的を絞り込み、特化させることで、その分野における世界最先端の成果を出したいと思っています。また、短期開発によるコスト削減と、科学衛星ミッションのさまざまな要求に柔軟に対応することをめざしています。


【Q. これまでの衛星とは異なる、小型科学衛星の優れた点は何でしょうか?】
 現在開発中の小型科学衛星は、世界に類例のないモジュール構造の衛星です。衛星には、いろいろな機能を実現するために、さまざまな装置が載っています。それらを各々、組み替え可能な単位、すなわちモジュールとして扱い、それらをどう組み合わせるかで、いろいろな役割を果たす衛星を作っていこうという取り組みです。

 衛星の基本構造は四角い箱形をしていて、その中や、上にいろいろなモジュールを組み合わせていくことで、さまざまな用途に対応しようとしています。例えば、最近のパソコンは、基本の枠組みは同じでも、コンピュータのCPUやメモリーなどを選択して購入することができます。

 パソコンの構成要素をグラフィックに特化させるか、事務処理用にするかは顧客の用途によって違います。それと同じ仕組みで、衛星としての基本部分は同じでも、中身をそれぞれの仕様に合わせることができるのです。私たちは、衛星仕様をできるだけメニュー化し、ミッションごとに自由に選択できるようにしたいと考えています。このように、中のパーツ(機器)を組み替えることを前提に、セミオーダーメイド型の人工衛星と言える枠組みを開発するのは、新しいチャレンジです。ぜひ実現させて、科学衛星ミッションの多様な要求に柔軟に応えたいと思います。

 また、JAXAの小型科学衛星の基本構造は、一辺1mの立方体の箱形を予定しています。その内部には、スペースワイヤと呼ばれる、人工衛星などの宇宙機器に搭載する通信ネットワーク装置の国際的な規格を使う予定です。このように、共通モジュールを利用して規格をそろえることで、衛星の開発をより早く効率的に行い、衛星シリーズ全体のコスト低減にも貢献します。私たちは、今の標準的な科学衛星の半分以下の開発期間、数分の1程度の予算を目標にしています。


【Q. 衛星はどれくらいの頻度で打ち上げられる予定ですか?】
 約5年間に3機程度の打ち上げを目指しています。H-IIA ロケットで打ち上げる時に相乗りして一緒に打ち上げることも可能ですが、相乗り衛星では打ち上げ時期、軌道などに制限があります。大型ロケットで打ち上げる大型衛星プロジェクトは開発期間が長いため、打ち上げを頻繁に行うことはできません。そのためJAXAでは、開発期間と打ち上げコストの削減をめざした固体燃料ロケット「イプシロンロケット」の開発も行っています。


【Q. どのようなきっかけで小型衛星の開発が始まったのでしょうか?】
 JAXAの宇宙科学研究所では、これまで中型の科学衛星を定期的に打ち上げてきましたが、年々、衛星への要求が高まるにつれ、衛星が大きく複雑になってきました。その結果、開発に時間がかかり、それに準じてコストも高くなってしまったため、科学衛星を打ち上げる頻度が少なくなってしまいました。

 科学衛星にはいろいろな分野や目的があり、X線でブラックホールを観測するものや、赤外線で幅広く天体を見るもの、地球周辺の磁場を観測したり、惑星を探査するものなどさまざまです。しかし、科学衛星の打ち上げ頻度が少なくなると、分野ごとで観測する機会が減ってしまい、これまで培ってきた日本の科学衛星の技術や経験が活かされません。そこで、科学衛星を早く、安く打ち上げるための枠組みが必要になったのです。


【Q. なぜ、今、小型科学衛星が必要だと思われますか?】
日本が宇宙科学の分野で世界最先端を狙うためには、新しい観測、新しい研究を継続して行うことがとても大切です。このままでは、同じ科学分野の科学衛星の打ち上げ頻度が非常に少なくなってしまう恐れがあります。これでは観測が途切れてしまい、大きな成果を出すことは困難です。そのためにも、早く効率的に衛星を開発し、いろいろな分野の科学衛星が活躍できる場を増やすことが重要だと思います。

 一方で、高頻度に科学衛星を打ち上げることは、若い科学者の育成にも役立つと思います。やはり、何事も経験を積まないことには成長しません。しかし、10年や20年に一度しか科学衛星打ち上げのチャンスが巡ってこないと、なかなか経験を積むことができませんし、その経験を継承することもできなくなります。それでは、日本の科学が衰退することにもなりかねないのです。小型科学衛星のシリーズ化を実現することは、科学者の育成や日本の科学の発展にも貢献できると思います。


 (…中略…)


【Q. 将来、小型科学衛星をどのように展開していきたいですか?】
小型科学衛星は、科学はもちろんですが、その他の用途の衛星などにも展開していければと思っています。私たちは、さまざまな用途に使えるように、セミオーダーメイド型の人工衛星を目指しているわけですが、その用途が、科学を超えて、商用利用を含めて拡がればよいと思っています。

 例えば、私たちは、経済産業省の指導の下で運営されている無人宇宙実験システム研究開発機構(USEF)が打ち上げる予定の、地球観測衛星「ASNARO」と共同研究をしています。このASNAROという衛星は、経済産業省が主導していて、将来的には人工衛星の海外輸出まで視野に入れた、大きな構想の第一歩なのですが、その基本構造は、JAXAの小型科学衛星と共通の技術を使用する予定です。まさに、現在、開発試験を共同で行っています。


【JAXAホームページ】 http://www.jaxa.jp/article/interview/vol56/index_j.html


 技術協力はNEC日本電気(株)です。こちらもどうぞ。↓

【NECホームページ】
 http://jpn.nec.com/ad/cosmos/sprint_a/index.html?waad=uQcdnOkc&mid=e458h90800001378440

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澤井 秀次郎(さわい しゅうじろう)
JAXA宇宙科学研究所 宇宙航行システム研究系 准教授 工学博士
1994年、東京大学大学院工学系研究科航空宇宙工学専攻博士課程修了、同年、旧文部省宇宙科学研究所(現JAXA)助手に着任 。1999年9月~2000年9月米国ミシガン大学工学部航空宇宙工学科客員研究員。2003年、宇宙科学研究所システム研究系助教授、同年、JAXA総合技術研究本部主任研究員。2004年、JAXA宇宙科学研究本部助教授。2009年より現職。専門は制御工学。

 

      ◆     ◆     ◆


 いかがでしょうか。

 ロケットが頻繁に格安で打ち上げられるということが科学技術をリードする上でいかに大切な力であるか、ということがよく分かりますね。

 ヨーロッパやロシアにはイプシロンの打ち上げ費用35億円よりもずっと安いロケットがまだまだある、と言われていますが、他国の技術で他国の都合で打ち上げられるロケットに衛星を載せるよりも、自国の技術で自国の好きなように好きなタイミングで挙げられるロケット技術があるというのはすばらしいことです。

 かつての天文小僧だった私としては、星と宇宙の世界に限りないロマンを感じます。

 あらためて日本人としての誇りを抱きながら、JAXAを応援し、科学技術の面で後生の世代に良い国を遺したいものです。

 

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バリアを除きたい

2013-09-19 22:21:03 | Weblog

 女優の黒柳徹子さんが「心から尊敬して止まない」と讃える人がいます。

 福島智(ふくしまさとし)さん、五十歳。

 三歳で右目を、九歳で左目を失明、十四歳で右耳を、十八歳でついに左耳の聴力まで奪われ全盲聾(ぜんもうろう)となった福島さんですが、その後、盲ろう者の指を点字タイプライターの6つのキーに見立てて、左右の人差し指から薬指までの6指に直接打つ方法指点字に出会って、コミュニケーションの方法を取り戻します。

 そして昭和58年に東京都立大学(現・首都大学東京)に合格し、盲聾者として初の大学進学を果たしました。

 金沢大学助教授などを経て、平成20年より東京大学先端科学技術研究センター教授になりましたが、盲聾者として常勤の大学教員になったのは世界でも初めてのことだそうです。

 「致知」10月号に、そんな福島さんと黒柳徹子さんの対談が載っていたのでその一部をご照会します。


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(黒柳)「福島さんがすごくいいのは、『喋れる』ということですね。ご自分には聞こえなくても、昔は聞こえていらしたからでしょう。盲聾者であなたのようにいろいろなことを表へ発信なさる方って少ないじゃないですか。それでいま東大ではどういうことを教えていらっしゃるの?」

(福島)「バリアフリー論という学問なんですが、例えば『バリア』と一口に言っても、路面の段差を解消するなどといった目に見える問題だけじゃなく、法律や制度、慣習の中でのけ者にされている、といったことがよくあります。例えば私は十二年前に東大に助教授として着任したんですが、女性のスタッフがトイレに行くとなかなか戻ってこなかったんです。変だなと思っていたら、私の研究室のある一階には女性トイレがなかった。」

「あらら」

「だから仕方なく二階まで行くんですが、そのフロアにも一つしかない。前身の帝国大学には女性が入れなかったからですが、それを目の当たりにしたときはショックでしたし、なるほど、これがバリアなんだと思いました。それと同じことが障害者に対しても行われているわけで、これらを社会全体の構造的な問題とも結びつけて説明したりしています」

「少しは世の中も変わったとお思いになる?」

「少しは変わっています。ただし、多くは国際的な流れなどの外圧によるものですね」

「おっしゃるとおりです。私ね、子供たちには小学校ぐらいからいろんなことを教えておく必要があると思うんです。というのも、この前、私が足を怪我してニューヨークへ行った時、車いすに乗っていたんですよ。実験的に車椅子で街を回っていると、スーパーのドアを開けてくれたり、上の方の棚を見ていると人が寄ってきて『何か取りましょうか』と声を掛けてくれたり。この人たちは障害者への接し方に慣れているなと驚いて、理由を尋ねてみたんです。そうしたら『小学校の時から習っています』って。向こうの国では小学校から手話を習っていることは聞いていましたが、子供の頃から障害児と一緒に学んでいくというんです。日本とは随分違うと思いました」

「そうですね」

「『窓際のトットちゃん』のモデルにもなった私の小学校には、背のとても小さな子や難病を抱えた子など、障害のある子がいっぱいいたんですが、校長先生は一度も『助けてあげなさい』とはおっしゃらなかったんです。いつでも『一緒にやるんだよ。皆一緒にやるんだよ」とおっしゃった。ですから学校の中では、皆で一緒にやっていくという上で、差別や違いは全くありませんでしたし、そういう教育を受けられたことはとてもよかったと思っています」

「それはすごく大事なことですね。東大の学生たちに『同じクラスに障害のある子がいたことがあるか』と尋ねると大多数が進学校を上がってきて、全然経験がないと言うんです。障害児と触れ合うという経験をそもそもしていない」

「学校の方でも障害児と健常児を初めから離しちゃうんですよね。だから大人になっても慣れないの。皆一緒にすれば、学ぶことがすごく多いのに」

「そしてそういう人たちが中央官庁に入ったり、政治家になっていくんですが、障害者と触れ合った経験のない人が頭で考えて作る制度や法律はどこか実態とずれているんです」


      ◆   
  

「一つの例として、約十年前、『徹子の部屋』にいらしたある先生の学校もやはり障害児と健常児のクラスを分けていらっしゃいました。ところがある時、障害児の板校舎を建て替えることになって、その間、一人、知的障害のある子がクラスに入ってきたんですって。私がすごいと思ったのは、皆で海へ行った時のお話です。皆がワーッと砂浜のほうへ駆け出していったんだけど、岩がごろごろしている所があって、その子は怖がって砂浜へ出られない。すると一人の女の子が駆けていって、手を貸さないで、『もっと前へ』『そこの石を持って』と教えている。そしてその子はとうとう一人で岩場を越えて砂浜まで来ると、バーッと先生の所に走ってきて、涙をいっぱいこぼしながら『先生、僕一人でこられた…』と言って、喜んで泣いたんだって。つまり子供はどんな偉い学者が頭で考えているよりも、大きな可能性を秘めている。大人はつい手を取ってどんどんやっちゃうでしょう。でもそういう、子供の自主性に任せた教育法をしていくと、いいのになと思っています」 
 

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 バリアフリー社会ということが言われていながら、物理的なバリアも心のバリアも取り除くのはなかなか難しいようです。

 しかし難しいことであっても、一つ一つを乗り越えてバリアのない社会を作りたいものです。


 

    ◆     ◆     ◆

 


 さて、今日は私の誕生日。

 とうとう55歳になったのですが、夜は妻と一緒に食事にでかけました。

 まずは「バーやまざき」で軽く記念の一杯をいただきました。

 バーには日本バーテンダー協会という組織があって、参加している多くのバーテンダーの皆さんが技術の練磨と人格の陶冶をめざして日頃から精進しています。

 こちらの「バーやまざき」さんには山崎達郎さんという、協会の名誉会員にして御年93歳という有名なバーテンダーがいらっしゃいます。

 釧路にいたときに通ったバーのマスターから、「札幌へ行かれたら是非行ってみてください」と言われていたことがやっと果たせました。

 残念ながら山崎さんご本人はご高齢のためにお店に出てくるのが、火・木・土の20時~21時と決まっているそうで、今日はお会いできませんでした。

 また次の機会におあずけです。

 
 ネットでは多くの方から誕生日を祝うメッセージをいただきました。この場をお借りしてお礼申し上げますと共に、これからもどうぞよろしくお願いいたします。
 

 

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フィリピンのメイドさん

2013-09-18 22:22:14 | Weblog

 友人たちと飲んでいて、海外経験について話題になりました。

 すると友人の一人のAさんが、「僕はフィリピンのマニラにいたことがありますが、とても良いところでしたよ」と話してくれました。

「メイドさんとか、運転手などを雇うことになったんですか?」と訊くと、「ええ、メイドも掃除と洗濯の補助と料理の2.5人に、運転手でした」とのこと。

「メイドさんの料理って美味しく作ってくれるものですか?」
「そこは、探し方ですね。中国人のメイドを経験した人を選ぶのがポイントです」

「それはどういうことですか?」
「中国人の家庭でメイドをすると、中国料理を覚えているので料理がおいしいことと、とても厳しくこき使われるのと、その後で日本の家庭で働くことが天国のように思われて幸せなんですよ」

 メイドをあたかも奴隷のようにこき使う考え方もあれば、同じチームとして互いの幸せを求めてwin-winで行こう、という考え方もあります。

 日本人ならばどちらかというと後者が多いのではないかと思いますが、労働や使用人に対する感性にもお国柄があるようです。


「ところが悩ましいこともありましてね」と、件のAさん。
「それはどういうことですか?」
「週末はメイドも休みで自分の家に帰るのですが、そのタイミングで家の砂糖がごっそりとなくなったんです。かの国はキリスト教が多くて、物を多く持っているものが足りないものに施すのは当たり前だ、という感覚があたりまえなんです。それが分かってから、メイドにどう言おうかと悩みましたよ(笑)」

 外国へ行くと、いろいろな宗教観があって、日本のそれを当たり前と思うと、意外だったり驚くようなことが大変多いのですね。

 そういえば以前、作家の曽野綾子さんが海外へ旅行する際にどうしても梅干を持っていきたくて持参したのですが、それが税関で「これはなんだ」と詰問されて取り上げられそうになったとのこと。

 曽野さんはその瞬間に、「それは私の宗教ではとても大切なもので、それがなくてはならないのです」と言ったところ、無事に通してもらえた、という体験談をある本で書いています。

 宗教というものはそれだけ尊重されるべきものだ、という感覚って日本にはほとんどありませんね。

 やはり外国を含めて世間を広く見た人の視野は広いなあ。

 人間、勉強と経験が大切なのです。

 

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サロベツ原野の風景

2013-09-17 23:40:26 | Weblog

 この週末の天塩中川~サロベツ原野の旅では、現地の知人に随分お世話になりつつ、道北の自然を勉強する良い機会になりました。

 なかでも現地でボランティアガイドをしている知人にガイドしていただいたおかげで、サロベツ原野の特異性とその資源性について非常に勉強になりました。

 私は釧路にいたことで、釧路湿原をわりと身近に感じていましたが、サロベツ原野は釧路湿原ともまた違った植生環境を有しています。

 サロベツ湿原は天塩川河口に砂丘帯が生まれたことによってによってできた潟湖(古サロベツ湖)が起源となっていて、湿原としては7千年~4千年前に発達したのだそう。

 釧路湿原は、4千年前から始まって3千年前に今の形になったそうですから、サロベツの方は釧路湿原よりも古いのですね。


     ◆   


 さてサロベツ湿原の特徴は、湿原北部から中央部にかけての湿地に"高層湿原"が発達していることで、これは潟湖から湿原に移行する過程で遷移してきたものと考えられています。

 ここで案外理解が難しいのが「高層湿原」という単語です。

 単純に考えると、高いところにある湿原を思い浮かべて、つい雨竜沼のように山の上の方にある湿原と考えがちです。

 しかし本当はそうではありません。

 湿原は、最初のうちヨシやスゲなどの湿地に生える植物が枯れて堆積してゆきますが、その際に寒いところだとそうした堆積物が腐らずに泥炭となってゆきます。

 こうしたヨシやスゲなどの植物は水位が高いところに毎年生えては死んで堆積して行きますがこの段階を低層湿原と言います。

 植物の生えているレベルが周りの水位より低いことから低層湿原と呼ばれているのです。

 ところが年月が経って、こうした堆積物が溜まりにたまってやがて周辺の水位よりも高くなってしまいます。

 そうすると周りの水から栄養を得ることができなくなり、雨水や雪解け期に増水した水だけしか流れ込まないようになります。

 すると、雪解け期以外では、水は雨水だけですし雨には栄養が含まれていないことから、栄養分の少ない環境でも育つような植物が中心となった湿原となります。

 これが、周りよりも水位が高いところに発達することから「高層湿原」と呼ばれているのです。

 高層湿原では、ヨシやスゲではなく、ミズゴケやツルコケモモ、ガンコウラン、さらには虫を食べる食虫植物のモウセンゴケなど特徴的な植物が生えています。
 
 こういうことも分かって見ると湿原もまた別な表情を見せますね。

 

 


【環境省 サロベツ自然再生事業 ホームページより】


 近くの牧場には、渡り鳥のオオヒシクイが何千羽も群れで羽を休めていました。

 彼らが飛び立つさまはそれはすごい景色なんだそうですよ。見るのには忍耐とタイミングが必要なようですね。

 

【追記】
 学生時代、北大で故辻井達一先生の授業を受けていて、唯一覚えているのが、「高層湿原というのは高いところになる湿原じゃないんだよ」ということでした。

 辻井先生には釧路へも良くお越しいただきました。

【湿地のワイズユース】2012-02-21
http://bit.ly/19anMw1

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利尻富士の夕焼け

2013-09-16 23:18:27 | Weblog

 いよいよ天塩中川でのキャンプも最終日。

 二泊したキャンプでは、夜中に強い雨が降ったものの、朝になると曇り程度で済み、日中はほとんど雨にあたりませんでした。

「これは強いパワーを持った晴れ男か晴れ女がいるね」と笑いましたが、それが誰かは良くわかりません。


     ◆   


 我が家のキャンプは道具立てが多いために、撤収にやたらと時間がかかるのがいつもの癖。

 今回もチェックアウトの11時ぎりぎりにキャンプ場を出発しましたが、キャンプ場で娘夫婦とは分かれて、それぞれのルートで帰路に就くことにしました。

 我々夫婦は道北の川での釣りを試してみたくて、音威子府川へ直行。

 ヤマベの期待が大きかったのですが、連日の雨のせいで濁りも入って釣果どころか魚の影も形も見られません。

 アメマスっぽい魚が一匹、驚いて逃げて行ったのを見ただけでした。残念!


     ◆  


 釣果こそなかったものの、道北で初めて釣りもできたので満足してあとはドライブをしながら札幌へと帰ってきました。

 昨日、幌延の知人から、「中川へ帰るんだったら幌延らしい沿道景観の道があるからそっちを通ってみてください」と言われていたのですが、実は道を間違えて、そこを通ることができませんでした。

 それが心残りだったので、少々遠回りでしたが言われた道を北上して幌延経由で帰ることに。

 牧場が続く道を走りながら、(なるほど、牧場の風景がいいね)などと思いながら走っていると、遠くに利尻富士が見えてきました。

 昨日サロベツ原野を案内してもらっていた時は雲に隠れて全く見えなかったのですが、今日は西の方向から晴れ間が広がって、利尻富士がはっきりと見えます。

 


 【これだって結構素晴らしい風景だったのです】

 

 なるほど、昨日道を間違えたのは今日もう一度来いという布石だったのか、と納得です。

 今日の夕焼けは車を走らせるほどに色濃くなってゆき、天塩町についたころにはいよいよ日も落ちて素晴らしい夕焼けとなりました。

 夕焼けなど見慣れているはずの地元の方たちも海沿いへ出てきてじっくり眺めるほどの、素晴らしい夕焼けです。

 カメラに"夕日モード"というのがあったので、それで撮影してみました。

 ちょっと赤が強調されていますが、まあこれくらいの迫力はありました。

 
 ラジオでは台風による雨と風の被害が連呼されていましたが、北へ北へと行ったためにそれらを感じずにすみました。

 避暑ならぬ、避台(風)でしょうか。

 道北のキャンプは良い思い出になりました。

 今度は釣果や湿原の花にも期待して、もっと暖かい時期に来たいものです。

 

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幌延町の酪農とサロベツ原野

2013-09-15 21:41:20 | Weblog

 朝4時くらいから雷を伴った強い雨が降り出し、早朝の釣りは中止。

 しかし7時過ぎからは雨粒が落ちてくることもなく、日中は曇り程度で済みました。


 午前中に幌延町のネット友達を訪ねてドライブ。

 時々ネットで会話をしている仲間ですが、リアルではなかなか会えないお友達です。

 Aさんは酪農家の奥さんで、B夫妻はお寺の住職です。

 まずはAさんのお宅を訪問して、自家製の牛乳をごちそうになった後、牛舎を拝見。

 牛たちの多くは牧場の奥まで行ってのんびりと休んでいて、牛舎に残っているのは生まれたての赤ちゃん牛と産後すぐのお母さん牛などです。

 赤ちゃん牛は、ホルスタインのお母さんに肉牛の精子を受精させたF1という交雑種なんだそう。

 F1の子牛は体重がそれほど大きくならずに生まれてくるために、初産のホルスタインにとって負担が少ないとのこと。

 翌年からはホルスタイン同士でかけ合わせますが、牛の世界にもいろいろなことがあるものです。


     ◆   


 こちらのお宅では70頭ほどの牛を飼っているとのことですが、この辺りでは少ないほうだと言います。

「牧場の広さってどれくらいあるのですか?」と訊ねてみると、「広さ?ええ?どれくらいだろう…考えたこともないわね(笑)」とのこと。

 とにかくどこまでも広がる牧草畑の牧草ですが、今年は二番草が遅れてやきもきしたそうです。

 そして広い牧場で採草するためには機械力が欠かせません。

 一台1千万円くらいもするトラクターも4台ほどあって、後ろにつける農機具だって一つ数百万円単位。でもこうした機械がなければとてもではありませんが、夫婦中心で牛を育てて搾乳をすることなど到底できないのです。

「機械はどこのメーカーが多いのですか?」
「やっぱりアメリカ製ですねえ」

「日本の農機具じゃだめですか」
「はい、アメリカとドイツが一段上で、日本はその次。以前韓国製のトラクターが安いというので入れてみたけれど、耐久性が悪くて使えませんでした」

「耐久性が問題ですか」
「はい、アメリカの農機具は、錆びても強度が落ちないんです。鉄の質が違うのかなあと思いますが、日本のは錆びると構造が駄目になってしまいますね。そもそも日米の農家からの需要の大きさの違いかもしれませんが」

 確かに、こんな大きなトラクターで採草しながら酪農をするなんて日本では北海道くらいしかありませんしね。

 売れない機械を開発するというのはメーカーにとっても辛い事のようです。

 日本の農機具にももっと頑張ってほしいものです。


   ◆   ◆   ◆


 続いては、Bさん夫婦を訪ねて、こちらのお二人からはサロベツ原野を案内していただきました。

 サロベツ原野の特徴は、湿原の植物が積み重なって腐らないままに時間がたった後に遷移してできる「高層湿原」が広い事。

 もう今の季節は花としてはエゾリンドウやアキノキリンソウくらいしか咲いていませんでしたが、もっと良い時期の花の季節も見てみたくなりました。

 また、ここサロベツ原野もラムサール条約の湿地として登録されていて、水鳥が羽を休めて憩う姿がよくみられます。

 この季節は、オオヒシクイが何千羽も牧草地に羽を休めていて、これが一斉に飛び立つさまは得も言われぬくらいの感動があるそうです。

 今回見られなかったものはぜひ次回に果たしたいところです。

 豊富町に三年前にできたビジターセンターでは、湿原のお勉強もしっかりとできます。

 今回初めて、まじまじとサロベツ原野を勉強ができました。

 北海道は広いです。

 (写真は後日)

 

 

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天塩中川町ナポートパークキャンプ場での初日

2013-09-14 21:31:12 | Weblog

 朝一番で札幌を出発して、日本海側の国道を延々と北上。

 途中の4つの道の駅すべてに立ち寄りながら、日本海沿いのドライブを楽しみました。

 事前の天気予報は全道的に雨ということでしたが、雨雲に突入したときは雨がぱらつくものの北上するにしたがって天気は穏やかになってゆきました。

 中川町についたのが午後3時過ぎ。そこからスクリーンテントやテントを設営して、終わったころには雲の切れ間から太陽が顔を出しました。

 夜もどうやら雨は降らずにすみそうで、ちょっとホッとしています。

 バーベキューの準備の途中でキャンプ場裏にある、カヌー練習場になっている川を見てみると、なんと大きな魚がゆっくりながらライズしています。

 これは明日は早朝から一竿入れてみなくてはなりますまい。

 とりあえず天気に恵まれたキャンプ初日でした。

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明日から道北へキャンプ

2013-09-13 22:40:52 | Weblog

 かつて北海道でオートキャンプ場の整備推進活動を一緒に行っていた盟友のAさんと再会して一杯やりました。

 北海道でのオートキャンプ場整備推進運動は、自治体が中心となったオートキャンプ場を「オートリゾートネットワーク構想」として連携し、定住人口が減る中で交流人口を増やすことで地域に活性化をもたらそうという試みでした。

 オートリゾートとは、オートキャンプ場を中心とした複合的なレクリエーションエリアという概念で、公園の中にオートキャンプ場があるようなものも一つのイメージです。

 こうした滞在拠点が道内に点在しネットワーク化することで、ドライブ観光の推進と上記の地域活性化を図りたいという願いが込められた活動でした。

 オートキャンプ場の整備で言えば、旧運輸省が「オートビレッジ構想」を掲げたり、環境省が「エコロジーキャンプ」など様々な施策が打ち出されましたが、利用者からすれば、とにかく質の高いキャンプ場ができるのはありがたいことであり、自治体の多くは色々に工夫した起債制度を利用して建設が進められました。

 こうしたオートリゾート構想として道内では、平成4年に長沼町のマオイオートランドと苫小牧市のアルテンがオープンしたのを皮切りに、以降整備が進み平成17年度には46カ所が供用されるまでになりました。

 観光とは、地域全体の持っている風景、事物、食、人、活動、店などの素材を全て総合して来訪者を楽しませ、もてなす経済行為です。

 しかし単に通過する途中で訪ねるよりも、仮にも「一宿一飯の恩義」という日本人の浪花節的な感性に訴えかけることで、地域への記憶と愛着と共感の気持ちをもってもらいたいという願いが、宿泊施設を作ることに込められています。

 こうしたオートリゾートネットワーク構想を推進したことで、道内には、それまでは芝生に勝手にテントを張っていたキャンプ場が多かったのが、サイトを区切って水やトイレの設備も整った質の高いキャンプ場が実に多く増えました。

 しかしその一方で、管理費と収入の関係を見ると、夏休みと週末が活動の中心であるオートキャンプ場では、稼働日数が少ないためにほとんどのキャンプ場で収益が出ていません。

 それは自治体が公園などの管理の一貫として行っているところでカバーしている例がほとんどですが、この経費と地域に及ぼすトータルの貢献を秤にかけているのが実態でしょう。

 

     ◆     ◆    


 オートリゾートネットワーク構想を推進し始めた頃から、そうした課題はある程度見えていて、現役世代が参加の中心である限りこの傾向は変わらないだろうと考えていました。

 そしてそれは、当時現役のキャンパーがリタイアして時間が十分にできた時に、空いている平日キャンプへ移行してくれるかどうかが鍵なのではないか、とAさんと話し合ったのをいまでも覚えています。

 互いにそろそろそうした年齢にさしかかった二人で、これからシルバーキャンプがどうなるだろうか、と意見を交わしました。

「そういえば、昔、キャンパーがシルバー世代になったら平日利用がされるだろうか、と話しましたよね。Aさんは、いまでもキャンプをしていますか」
「僕のところはしなくなっちゃいました。道具が大きくて持ち運びが大変なのと、うちの奥さんがキャンプはもういいや、という感じなので行かなくなってしまいましたね」

「そうですか。うちは娘が結婚して孫もできたところで、私たちと娘夫婦の二家族でこの週末に道北へ行こうと思っています。かつての現役キャンパーが子供夫婦と行く、という活動もどうなるか見物です」
「そういうある種教育的であり思い出づくり的な活動はあるかも知れませんね。でもやはりそうなると週末中心だよね」

「そうなんです。それと、昔は道具を使って宿泊すること自体が楽しかったのですが、それが『泊まって何をするか』という風に、アクティビティがステップアップしないかな、と思ったのですが、それもなかなか難しいですね」
「そう。かつて先進地としてニュージーランドへ海外視察に行ったことがありますが、やはり泊まって釣りなどのアクティビティをしようと思うような人は当時からホテルに泊まっていました。やっぱりテントを張ることってそれだけで一つのアクティビティだから疲れちゃうんですよね」

「やっぱりそうですよね。私も釣りをするのなら、思い切り疲れた後は畳の上でゆっくり休みたいですもんね」


      ◆     ◆ 


 テントを張らないキャンプとしては、値段は高いもののコテージによるキャンプというのも一つの流れを作りました。

 こちらは数がどうしても増えないのですが、天気や季節を選ばないところと、テントを張る手間がかからないことで高い人気です。

 オートキャンプ場はアクティビティと見るか、宿泊手段と見るかでかなり考え方も違いそうですね。


 さて、明日からの三連休では道北へテントでのオートキャンプ場へ行ってきます。

 どうにも天気が悪そうですが、それもまた経験値を上げる…ということになるでしょうか。

 ちょっとびくびくしながらのキャンプです。

 

 

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愛ある言葉は人生を変える

2013-09-12 23:05:10 | Weblog

 曹洞宗の開祖「道元」。

 道元禅師は、愛に満ちた言葉は人生を変えるということを「愛語」という二文字で表しました。

 この教えを現代に伝える活動を続けているのが曹洞宗長徳寺住職の酒井大岳氏ですが、この方のお話が「致知」10月号に掲載されていました。


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 何気ない言葉一つで人生は大きく変わることがあります。皆様の中にはご自身の歩みを振り返って「ああ、あの時、ああいう言葉を掛けてもらったために今の自分があるんだな」「あの言葉との出会いがなかったら、人生は別の方向に向かっていたかも知れない」と、言葉の重みを実感としてつかんだ方もいらっしゃるかと思います。

 …言葉に力がある、というのはいい意味でも悪い意味でも言えることです。心ない言葉は時として凶器となり相手に立ち直れないほどのダメージを与えます。一方で苦境にある時に掛けてもらったさりげない一言が生きる上での大きな糧になることもあります。
 曹洞宗を開かれた道元禅師は後者を「愛語」と表現されました。

 道元禅師の筆による『正法眼蔵』という経典には有名な次の一説があります。

 「愛語能く廻天の力あることを学すべきなり」
 
 愛のある言葉はその人の人生を根底から変えてしまう力がある、という意味です。


    ◆     ◆     ◆


 大学で仏教を学ぶために私が群馬から東京に出てきたのは昭和28年、18歳の時でした。横浜にある叔父の下宿屋に寝泊まりし、アルバイトをしながら大学に通ったのですが、そういうある日、叔母から「いまとても忙しいので、三時間ほど子供の面倒を見ていてもらえないだろうか」と子守を頼まれたことがありました。

 三歳のいとこを連れて近くの海岸で思いっきり遊んだ、までは良かったのですが、その帰途、私はからかい半分にいとこの三輪車のパイプに掴まって後ろから思いっきり押して走ったのです。

 三歳の子が上手くハンドルをが切れるはずもありません。見事に転倒して「あっ」と思った時は、すでにいとこの額には大きな傷ができ、血がぽたぽたと流れ落ちていました。

 私は頭の中が真っ白になりました。三輪車をその場に置いたまま、いとこを抱えて一目散に叔母のいる下宿屋めがけて走りました。下りかけていた踏切の遮断機をくぐりハアハアと息を弾ませながら叔母のもとに着くなり、「すみません。怪我をさせてしまいました」と何度も頭を下げました。

 すると叔母はエプロンの端で血をぬぐいながらこう言ったのです。
「あら、傷が浅いからすぐに治るわよ。それより長時間遊んでくれていてありがとうね」

 結果的に七針を縫いましたから、傷が浅かったはずはありません。しかし叔母はまったく慌てるそぶりは見せませんでした。この言葉に救われた私は自分の部屋に入り、息をころして泣きました。

 あれから六十年が経ったいまも、いとこの太い眉のところに、私にしか見えない傷が残っています。彼と会う度に叔母の言葉が昨日のことのように蘇ってきます。


    ◆     


 叔母は家が貧しく尋常小学校を二年で終えると、神奈川の葉山にある豪邸に小間使いとして勤めました。随分失敗をしておこられもしたようで、あるとき大きな花器を割ってしまったことがあったようです。

 おそらく子供心に大変なショックを覚えたことでしょう。泣き続ける叔母に年配のお手伝いさんが近づいて言いました。

「持ちにくい花器だからって、私が注意しておかなかったのがいけないの。あなたのお手々も小さいんだし無理はないわね。さあ元気をお出し。人間にはね、いろいろな失敗があるの。こんな小さなことでメソメソしていたら駄目。こっちへいらっしゃい。おいしいものでも食べましょう」

 叔母はこの言葉を聞いてポロポロと涙を流し「わたしもいまにああいう人になりたい」と心に誓った、といつか私に話してくれたことがあります。

 人の失敗をとがめず、勇気づける愛語はこのようにして人から人へとでんしょうされていくのです。


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 日常の何気ない思いやりと一言が相手の人生を変えることがあるのです。

 発する一言にも意識しながら、より良いコミュニケーション作りに努力したいものです。

 

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自分自身のこの一枚~素顔館の決意

2013-09-11 22:36:31 | Weblog

 皆さんは自分自身の写真をちゃんと撮ったことがありますか。

 それが遺影となると、「縁起でもない!」と言われるかも知れませんが、亡くならないのならそれはそれで記念の一枚になりますよね。

 デジカメでパチリではなく、プロの手による何枚もの中から選ばれる一枚って、値のある一枚ではないでしょうか。

 月刊誌「致知」の10月号に、遺影を撮る専門の写真館館長のお話が出ていました。どうぞご覧ください。


    ◆     ◆     ◆

 

 「百年後も残る『普段着の笑顔』」

 遺影写真家。私は自らそう名乗ったことはありません。私が発信していることはただ一つ、「遺影写真を元気なうちに撮りましょう」ということです。

 二〇〇八年、ここ東京・中野に遺影・肖像写真の専門スタジオ「素顔館」を開館。僅か五年で二千五百人以上もの方が全国各地からお越しくださり、いつの間にか周りから遺影写真家と呼ばれるようになりました。

 いまから四十三年前、資生堂の広告を手がけるプロのカメラマンとしてスタートし、写真の道を歩んでいく中で、疑問に思うことがありました。それは葬儀に行くたび、悲しく寂しい遺影写真が多いということ。旅先で撮ったスナップなどを引き伸ばして使っていたのでしょう。ボケたような写真が多かったのです。なぜ相応の写真を撮っておかないのか。そんな思いを漠然と抱いていました。

 にも関わらず、十三年前、家内の父が亡くなった時、葬儀に使われたのはまさにピンボケした写真でした。私は義父の写真を撮っていなかったのです。

 この時の後悔と自責の念が私を駆り立てました。六十歳の節目を迎えるにあたって、これからの人生は遺影写真を撮り続けようと心に誓ったのです。

 普段着の笑顔-それが私の追求する遺影写真の姿です。遺影写真は葬儀の時に祭壇の真ん中に置くお飾りではなく、遺された家族がずっと見続けるもの。であれば、普段セーター姿のお父さんが慣れないスーツを着て、ガチガチの表情でカメラをにらんでいるよりも、セーター姿で肘をついていてもいい。そこにお父さんの笑顔があって、見ただけで元気だった時のことを思い出せる。それこそがいい遺影写真であり、家族にとっての幸せな一枚、宝物となるのでしょう。

 そんな普段着の笑顔を撮るため、私はお客様が来店されてもすぐに写真を撮りません。お互いに初対面ですから、まずお茶を入れて、雑談する。すると、段々と気心が知れ、お客様も心を開いてくださるようになります。趣味の話やお孫さんお話をしていると顔の表情も目も輝いてくる。その一瞬を撮らせていただくのです。

 会話によって心を通わせ、本当の素顔を撮影し、一緒に写真を選定する。シャッターに向かっている写真は僅か十分程度ですが、最高の一枚を創り上げるまでに二時間近くを要します。

 これはよくお客様にお話ししていることですが、素顔館では何も人生最後の一枚を撮るわけではありません。あくまでもきょうの元気な一枚を記念に撮る。ですから、その先も元気だったら、また撮ればいいのです。

 しかし再びここを訪れることなく、天国へと旅立たれた方も少なくありません。これまで忘れがたい数多くの方々との出会いがありました。


     ◆     


 あれは素顔館を開館して間もない八月でした。ある日、五十代くらいの女性が旦那さんと共にお見えになり、私はいつものごとく雑談を楽しんでいました。
「でもまだお若いんだから、五年、十年経ったらまた撮りましょうね」
「ありがとう。でもね、私、ひょっとしたら来年いないかもしれないの…」

 ご主人の顔を見ると、黙ってうなずいている。ああ、ガンでもう余命があまりないのだと察しがつきました。

 それでも奥さんは笑いながらいろんな話をしてくださる。私はその姿に、溢れる涙を抑えることができませんでした。そして、その時ふと、「今日はぜひ、お二人の写真も撮らせてください」と言って、写真をプレゼントさせていただきました。

「今日はありがとうね。来年元気だったらまた来るからね。その時撮ってくださいね」

 そう言ってご夫婦は帰られました。その年の暮れに、どうしても気になってお電話を差し上げると、ご主人が出てこられてこう言われました。
「ああ、いまちょうど家内の写真を見ていたところなんですよ」

 初めて目の当たりにするお客様の死に動揺を隠しきれませんでしたが、ご主人はさらにこう続けたのです。

「本当にいい写真を撮ってもらってありがとう」
 この言葉を聞いた時、私はこの仕事を始めてよかった、絶対に辞めないと心底思いました。

 数年後、同じく末期ガンのお客様がお見えになったのですが、その方は私にこんなことを言ったのです。
「私ね、ガンになってよかったんですよ。人の命って必ず最後が来ますよね。でも、いつ来るかは分からない。明日かも知れないし、十年後かも知れない。けど、私は最後の時間が分かったんですよ。だから、その間にやりたいこと、伝えたいこと、全部準備できる。こんな幸せなことってないでしょう」

 死を前向きに受け入れ、残りの時間を一分一秒大切にされている。その方も残念ながらお亡くなりになってしまいましたが、そういう方々の生き方から私は人として大切な何かを学ばせていただいたと感じます。

 遺影写真は百年後も残る。そこに能津喜代房という名前がなくてもいい。けれど、間違いなくその写真は私の作品であり、家族に見続けられています。

「あの写真のおじいちゃんさ、いい顔してるよね。撮った人の名前は分かんないけど、上手だよね」

 百年後にそう言っていただけるよう、これからも精一杯の力で今日の元気な一枚をとり続けたいと思います。

            (のづ・きよふさ=素顔館館長)


    ◆     ◆     ◆

 

 私も釧路にいた時に、駅裏の山一写真スタジオというところでプロの手によるスナップ写真を撮ってもらいました。

 撮影技術料と気に入った写真を一枚いくらで購入しますが、料金は5種類で約1万円くらいなもので、このうちの一枚を「釧路のマチのコト語り」での著者近影にも使いました。

 やっぱりちゃんとした写真は良いもので、実物よりもよほどよく写してくれるもので、対価をお支払いするのに値があるものだ、とつくづく思いました。

 山一スタジオでは、購入した写真はCDに焼いたデジタルデータでももらえたので、いろいろなところに使い回しも可能です。

 
 いかがでしょう。デジカメやスマホがこれだけ増えても、大切な一枚に値する写真は少ないものです。

 そこにこそ、プロの出番があると思います。 
 

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