北の心の開拓記  [小松正明ブログ]

 日々の暮らしの中には、きらりと輝く希望の物語があるはず。生涯学習的生き方の実践のつもりです。

離島の話を聞こう~宝の海の島から

2015-09-10 23:14:25 | Weblog

 今日から明日にかけて利尻礼文の離島を巡る出張行程。現在策定中の第八期北海道総合開発計画の中間とりまとめ案について説明をして意見交換をするのが目的です。

 計画案を説明したうえで、それぞれの町長さんと意見交換をして地域の課題や話題をいろいろと教えてもらいました。

 利尻町では、「利尻地域漁業就業者対策協議会」で漁師になりたいという人に対して新規漁業就業者支援制度として『漁師道』と名付けた取り組みを行っています。そしてこの制度により若い人が漁師として研修を受けて地元に根付いており、漁業振興と人口減少対策として一定の効果を上げているとのこと。

 また地元の名産である利尻昆布も養殖の技術を習得してもらうことで安定的なコンブ漁の収入に繋げているとも。

 しかし漁業という仕事がありながらそれでも若者が町から出て行ってしまう現実があります。

「若いうちは外に出てみたいという思いが強いし、やっぱり都会は魅力的ですからね」

 仕事の上には暮らしや遊びなどの要素も必要で、特に若者はそうしたものを求めます。


       ◆ 


 つづいて利尻富士町長さんとお会いしました。

 利尻富士町ではウニ、特にエゾバフンウニの収量が年々落ちていることが心配だと顔を曇らせます。

「親ウニが取れても、それより若くて小さいウニの数がだんだん減っているというんです。どうも海水温が平年より一度上がっているらしくて、海での海水温の一度の変化って生き物にとっては大変なことなんだそうです」

 収量が少ない分単価が上がって、漁師さんの収入は変わらないと言いますが加工場や食堂などでは卸値が上がるとお客さんに売りにくいとやはり苦しいそう。値段が上がりすぎてなかなか口に入らないというのも困ったものです。


        ◆ 

 午後のフェリーで利尻から礼文島へ渡り次は礼文町長さんとの意見交換。礼文町の小野町長さんとはフェイスブック仲間なのであまりご無沙汰している感覚がありません。ネットの力はすごいものです。

 礼文町ではフェリーの時刻表の関係で礼文島に宿泊する便利が悪く、宿泊客が年々減少しているのが悩みでした。飛行機の路線もかつてはありましたが今では路線がなくなり事実上空港も使っていない状況。

「札幌との路線が無理なら稚内空港との間でもいいから飛行機の路線があれば利便がだいぶ変わるんですが」と小野町長さん。飛行場などのインフラもそれを使う路線があるかどうか、路線をどう貼るかは特に離島のように交通の難しいところには影響が大きい問題です。

「礼文は漁業で言うと宝の海ですよ。やりようによってはちゃんとした稼ぎになりますからね」とは小野町長の弁。

 漁業者の数でいうと、年に20人が引退して5人くらいが新規に就業するという感じだそう。
「だから年に15人くらいずつ漁業者が減っています。でも漁業者の平均年齢はここのところずっと65歳で変わらないんですよ。高齢で引退する人と若くて就業する人とのバランスがあっているんですかね(笑)」

 人口が一貫して減っていると言いながら、礼文出身で他の地域で活躍している方の中には故郷礼文町への思いが強い方が多いのだそう。

「食品関係で成功した方からは温泉建設のために億単位の寄付が寄せられたり、とにかく礼文島が好きで好きでたまらない都会の人たちが何かにつけて礼文島へ来てくれる集団がいたりして、不思議な魅力を感じてくれる人がそれなりにはいるんですがね」

 
 離島に対する不思議な魅力は私も感じます。もう少し頻繁に通って通り一遍ではない離島の魅力を掘り下げてみたいものです。

 

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これでようやく一人前~新しい土地での通過儀礼

2015-09-09 23:00:20 | Weblog

「ああ、あなたも登りましたか。私も登りましたが最後の壁は大変だったでしょう」

 かつて長野県松本市で二年半勤務をしたときに、初めて北アルプスの槍ヶ岳登山をしたときの話を地元の方に言ったときの相手の言葉がこれでした。

 数多く転勤して様々な土地に住みましたが、なかでも長野県の人たちの人柄は独特です。相手を値踏みし、自分の主張がしっかりしていて一家言あるのがその特徴。

 役職だとか立場のような薄っぺらな権威は通じないし、お世辞やおべんちゃらも通じません。、それよりは"本当のところ何を考えているのか"の方がずっと重要です。

 そんな典型的な信州人が多い松本市があるのがいわゆる"安曇野(あずみの)"地域。田園風景と北アルプスの組み合わせが何とも美しい地域です。

 ここでで信州人を相手に仕事をしようと思ったときに、受け入れてもらうためには地元の人たちの自慢や誇りを自分も共感し共有することが大切だと思いました。

 そこで何が地元の自慢や誇りなんだろうか、といろいろな人の話を聞いているとどうやら「蕎麦と北アルプス」らしいということが分かりました。そこで蕎麦は地元の手打ち蕎麦屋を食べ歩くことにし、北アルプスはとにかく登ってみようということにしました。

 槍ヶ岳に上ったのは着任した翌年の二年目でしたが、それによって始めて地元の人たちから「そうですか、登りましたか」と喜ばれ、親近感を持ってもらえたような気がします。


 かつて、世間から「こいつは一人前だ」と思われるためにはある種の通過儀礼(=イニシエーション)がよく行われました。

 それは一定の年齢に達すれば自動的に取得できる場合もあれば、バンジージャンプのように勇気を持った行動を取ったことで周りから認められるというような場合もあります。

 安曇野ではアルプスへ登ることが、特にヨソ者にとっては一つの通過儀礼になっていたように思います。


       ◆ 


 翻ってわが稚内。サハリン旅行をしたことで初めてサハリンとの交流を薦めたり、また彼の地との物流やビジネスの難しさなどを肌身で感じることができました。

 今回サハリンへ旅行をして現地の風景や様子が分かりましたが、このことで市役所や経済会の人たちとサハリンを話題にする際にもすっと話に入れます。

 サハリン旅行って実は稚内におけるヨソ者にとっての通過儀礼なのかもしれないなあ、と改めて思いました。



 ちなみに安曇野での蕎麦の方は、長野県内で100件以上の蕎麦屋さんを巡って全てをリスト化して回りました。蕎麦に心底詳しくなるということも信州で認められる素養の一つで、このことでも随分助かったものです。

 新しい土地へ転勤した時に地元の人たちの理解を得、仲間として認めてもらうためには、その土地の通過儀礼が何なのかを考え、それを実践しましょう。

 それもできるだけ早いうちに気が付くとなお良いのですがね。



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ロシア人が"ナナマンエン"って言ってるけど何なの?

2015-09-08 23:37:12 | Weblog

 サハリン旅行の最中にロシア人も一緒にバスに乗っているときに、何かの拍子にバスががたんと揺れました。

 その揺れでバランスを崩しかけた私を見て、一人のロシア人が「&$#○△¥…?」と分からないロシア語で話しかけてきました。

 ロシア語の分かるガイドさんが「大丈夫か?」って言ってますよ、と教えてくれたので、日本語で「大丈夫です」と言うと、「そういうときは"ダルマーリナ"とか"ナルマイナ"と言うといいですよ」と教えてくれました。

「それはどういう意味?」「"大したことない"とか"まあまあ"といったような意味です」

「じゃあ、"なんもさ"みたいなもの?」「ああ、それは近いですね(笑)」

 それから先はロシア人から話しかけられると「ダルマーリナ!」とか「ナルマイナ!」と言い返して笑いを誘っていました。

 あんまり「ナルマイナー(笑)」と言い続けていたら、一緒にバスに乗っていた方が「さっきから"七万円"、"七万円"って言っているけど、それはなんなんですか?」と訊いてきました。

「あはは、"七万円"じゃなくて"ナルマイナ"です。"大したことないよ"ってくらいの意味らしいですよ」
「あー、そうなんだ、なるほど…、でなんていうんだっけ?」

「ナルマイナです」
「ナ、ナル、ナルマ…、あーもう覚えられない!もう"七万円"でいいや」


 それから先、その方は一人だけ何か話しかけられると「七万円、七万円」と言い続けてロシア人の笑いを誘っていました。

 外国語の言葉ってなかなか覚えにくいものですが、日本語に置き換えると覚えやすいかもしれませんね。でもいつしか本当の言葉は忘れてしまいそうですが(笑)


       ◆ 


 私もずっと「ダルマーリナ」「ナルマイナ」と言い続けていて、美味しい料理にも「ナルマイナ」と言ったところ、件のロシア人に「そういうときは"ナルマイナ"じゃなくて"アトリーチナ"って言う方が良い」と言います。

「アトリーチナってどういう意味?」
するとガイドさんが「"最高!"って意味ですよ」と教えてくれました。

 美味しいお酒と美味しい料理と、上手な歌には"アトリーチナ"と言いましょう。


   【アトリーチナ!】

 

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御前崎のお茶とゆめぴりかのコラボ玄米茶

2015-09-07 23:45:16 | Weblog

 サハリン旅行を終えてほぼ一週間ぶりに職場へ復帰しましたが、さすがにメールやら報告案件が溜まっておりました。

 しかし不在中に大きな事件や事案はなく、不在期間を支えてくれたスタッフに改めて感謝です。

 家に帰ると静岡の茶処御前崎市からお茶が送られてきていました。かくいう私は、御前崎市から「御前崎茶アンバサダー」に任命されていて、御前崎茶に意見をしたり紹介をするという役割を期待されているのです。

 御前崎では「つゆひかり」という品種の緑茶が自慢なのですが、今回はそれをつかったほうじ茶と道産米ゆめぴりかを使った玄米茶も新たに送られてきました。

 暑い時期は緑茶の冷茶も良いのですが、そろそろ涼しさを増してきて温かいお茶が恋しい季節。ほうじ茶と玄米茶はありがたいですね。


       ◆


 学生の頃に玄米茶を飲んでその香ばしさに、(お茶ってこんなに美味しいものだったのか!)と気づいた瞬間がありました。

 一体誰がお茶に炒ったお米を混ぜようと思ったのでしょう。調べてみると、戦前に鏡開きの時にできる餅くずを勿体ないと考えた茶商がこれを炒って茶葉に混ぜたのが始まりなんだとか。

 捨ててしまうものをもったいないと思って合わせてみる精神が新しい味を創り上げることになりました。

 さて静岡のお茶と北海道の優良米ゆめぴりかを合わせた味はどんなものでしょう。

 秋の楽しみがひとつ増えました。
 

 

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サハリンの道路を見て気が付いたこと

2015-09-06 23:02:52 | Weblog

 サハリンの道路は興味深い作り方をしていました。

 日本では都市間の道路は大抵片側一車線で往復二車線か片側二車線で往復の四車線での作り方が一般的なのですが、サハリンでは都市間の道路は基本的に三車線。

 これを上り坂になる方が二車線で片側を追い越し車線として使い、坂が下りになると反対側の登り車線が二車線になるのです。

 そのコントロールは白い線と道路標識で行っています。道路は切り盛りがほとんどなくてほぼ地形なりに作られているので上り坂と下り坂がしょっちゅうでてきます。

 そのためドライバーにすれば今は一車線でもすぐに上りになれば追い越し車線が出てくるのでイライラすることも少ないでしょう。

 二車線の道路にして、すぐ前の車を追い越せずにイライラして反対側車線に出て追い越しをかけることを思えば合理的に見えます。

 ガードレールなどの道路付属物もほとんどなくて、極めて質素な道路ですが、これが当たり前だと思えば不満などないのかもしれません。

 コルサコフなどでは何本もの道路が交差するところではラウンドアバウト、つまり日本で言うロータリーも見かけました。ドライバーが慣れたところではこの形の方が信号もいらずスムースな交通制御ができそうです。

 日本では信号によって制御される分、青のときは自分の進む権利という意識がものすごく強くなってしまいます。信号がなければお互いが譲り合ってスムースな調整をする余地もあるのですが、信号があれば自ら判断することなく信号に頼ればよいことになります。

 モノやシステムが発達すればそれに頼ればよいけれど、それがまだ未発達の場合は自分の調整力や交渉力、判断力によって何が適切かを判断しなくてはなりません。

 いちいち自分で判断し続けなくてはならないなんて、非効率なのかもしれませんが、効率を追い求める裏側で、多分自分自身の判断力をそぎ落としているのかもしれないなあ、と思いました。

 だから誰かが制御してくれるうちは効率性が発揮できるけれど、一たびその制御が外れた時には皆周りを見回すけれどだれも調整ができないなんてこともあるのではないでしょうか。

 インフラやシステムの充実と効率、そして人間としての判断力の相互の関係性って片方が増えれば片方が減る、そんな関係になっていそうです。


       ◆ 


 サハリンで横断歩道の標識を見かけましたが、日本よりは歩行者が胸を張って偉そうにしています。

 だからドライバーは結構横断歩道で停車することが多いのでしょうか。標識一つの作り方にもお国柄が出るので興味深いですね。

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ロシア人の食文化・酒文化~飲みたい時に飲んじゃダメ

2015-09-05 21:34:53 | Weblog

 今回のサハリンツアーでは、終始ロシアの料理を食べてきました。

 初日は北海道サハリン事務所の方たちと「黒猫」というロシア料理のお店に連れて行ってもらいました。

 日本人の口に合うロシア料理だということで、野菜サラダ、真っ赤なビーツとじゃがいものサラダ、ちょっと意外な白いビーフストロガノフ、ロシア風串焼きのシャシリク、ロシア風餃子のペリメニ、そしてデザートは黒パンという組み合わせ。
 有名なお店だけあって美味しくいただきました。


       ◆ 


 泊まったホテルの朝食は白いご飯がちょっと口に合いませんでした。お米も中国米のようでしたが焚き方に芯が残っていました。サハリンでは日本の米を持ち込むことが難しいと言われていましたが、中国米をうまく炊くことも難しいんですね。

 お昼はホルムスクの韓国料理屋さん。皿料理はキムチ風やチャプチェ風で味はアジアらしく出汁というかスープの旨味が良く出ています。

 エビや鮭の刺身もありましたが、「醤油は何かな?日本の醤油だったら美味しいんだけど韓国醤油じゃだめなんだよな」と誰かが言います。

 今回はちゃんとキッコーマンの醤油でそれは良かったのですが、残念ながらワサビがありません。韓国料理では唐辛子がありマスタードも見かけましたが、ワサビという香辛料はとても珍しいようです。


 サハリンでは全体に香辛料や味付けのためのソースやドレッシングをほとんど見かけませんでした。味付けは塩コショウしかないという印象。

 サラダや肉料理でも"スメタナ"と呼ばれるヨーグルトを酸っぱくしたソースはあるのですが、マヨネーズやソース、各種ドレッシングがまずありません。日本はそれぞれの素材に合う香辛料や調味料が豊富なんだな、と改めて気づきます。

 パンなどは固い黒パンが有名ですが、ロシア人にはこれが腹持ちが良いのだそう。日本の白くて柔らかいパンは腹持ちせずお菓子のようで日本人が思うほど美味しいとは思われていないよう。

 おまけにロシアの黒パンは日持ちがせずすぐにカビが生えるのだとも言います。日本のパンはそこまでひどくカビが生えるという印象がありませんが、それは添加物のせいなのかもしれません。

 

       ◆ 


 次はお酒の話。ロシア人はまあ良くお酒を飲みます。

 視察のバスには案内や記録撮影のために5人のロシア人が乗り合わせましたが、最初の休憩時にスーパーへビールを買いに行き、午前中からぐびぐびとビールを飲んでいます。

 その量も、500ml缶で3~4本は水替わり。根本的にお酒が強いのが良くわかります。

 最終日の前夜に、ロシア人関係者にパーティに招かれました。自分の別荘で手料理でもてなすパーティで、友人も多数訪れてきて言葉は分からないものの楽しい時間でした。

 当然ウォッカが用意されています。

 ツアーでずっと同行してくれたサーシャ(アレクサンドルという名前の愛称)という名のロシア人に妻がウォッカ用の小さなグラスに注ごうとすると、「ニェット(だめ)」と注意されました。

 基本的にウォッカは男が注ぐものだそうで、しかも一度注いだ人はずっと注いだ相手に次ぐ役目になるのだそう。今回は私がずっとサーシャに次ぐ役目になりました。

 で、これをガブガブ飲むのかと思いきや実はそうではありません。「飲みたいからと言って自分のタイミングで飲む奴はアル中と思われます」

 飲みたい時は立ち上がって全員の注目を集めたうえで、健康だとかお祝いだとかその場の何かに対して乾杯をする、という形で杯を上げなくてはならないのだそう。

 実際、皆飲みたくなったら立ち上がって挨拶をしたうえで乾杯をしていてだらだら飲み続けるようなことはありませんでした。

「こんなに強い酒を何倍も飲んで大丈夫なの?」と訊いてみたところ、「あまいジュースをチェイサーとして飲めば大丈夫。糖分がアルコールを分解するんです」とのこと。なるほど、オレンジジュースやアップルジュースがたくさん用意されていて、ウォッカを飲んではジュースを飲んでいます。

 だらだらと飲むわけではないということを初めて知ったロシア風飲み会。

 日本より秩序があるかもしれませんが、それにしても我々は夜十時に引き揚げましたが、パーティそのものは真夜中過ぎまでやっていたようです。

 食文化と酒文化にはお国柄がよく出ます。

 

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サハリン旅行最終日~無事帰国しました

2015-09-04 23:45:29 | Weblog

 朝早くにホテルを出て一路コルサコフへと向かいます。いよいよサハリンへの旅も今日でおしまいです。 

 出入国管理所で、ツアーで現地ガイドをしてくれたエレーヌさんに誰かが「稚内とのフェリーが無くなっちゃうと大変でしょう」と声をかけました。

 するとエレーナは「私たちは稚内との船が無くなれば小樽へ行くからいいんです。大変なのは稚内ではありませんか」と直球での返し。そう、大変なのは稚内なのです。

 サハリンに近いという地の利を地域のメリットとして活かすべきなのですが、観光で言うと、どうもサハリンはまだまだ観光地としての備えが不足しています。

 急速にインバウンドが増えている日本でもまったく同じように海外からの観光客を迎えるにはどうしたらよいかを考え、ようやく行動に移しつつありますが、サハリンではまだ到底その域に達しているとは言えません。

 市内の看板には英語の併記もないし、博物館でも展示物の説明はロシア語しかありません。おまけに何より言葉が全く通じません。日本語はおろか、英語すらほぼ通じないという実情は実に心細くなります。

 しかもロシア語の文字がこれまた全く読めません。一番近い外国とは言いますが、どうも観光客として歓迎されている感じがありません。

 同行の人は「ものすごくアウェイ感を感じませんか(笑)」と笑っていましたが、確かに観光客に来てほしいという感じがあまりしません。 

 しかしこれって日本語を全く話せない外国人が日本に来る時と同じことで、(なるほど、言葉が全く通じないというのはこれほど心細いものか)と気づくきっかけになりました。

 日本が観光立国として進めようとしていることをサハリン側に伝えて観光インフラの整備や観光地としての玉磨き、人材の育成などを通じてサハリンの経済活性化に繋げることを支援することは大いに意義があると思います。

 またそういう観光地としての期待度が高くないことが却って温かいもてなしを受けたりすると期待を上回る印象を得ることにも繋がるでしょう。

 

 そのまた一方で、ビジネス相手としての備えもしっかりしてほしいところ。今日はフェリーに乗船するときに、偶然きょうから開催される『道北物産展』の関係者にお会いしましたが、「北海道から運んできた果物類の通関に手間取っている」というお話を聞きました。

 観光もビジネスも双方のwin-winに繋がることなのだ、ということを理解してもらうには、地道な努力の継続と信頼できるパートナー探しが大切です。

 努力を地道に継続させましょう。
 

 サハリンからのフェリーは日本時間午後3時過ぎに無事稚内港へ到着。楽しんだとともに、いろいろなことを考えさせられた旅でした。

 今回のサハリンツアーは様々な切り口で書いてみようと思いますが、とりあえず今日のところはこの辺で。
 
 

 

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サハリン三日目~ロシアの国のこのユルさ…

2015-09-03 23:45:08 | Weblog

 サハリン観光の三日目。今日も昨日の御一行様に同行させてもらい、まずはフェリーのついた港町コルサコフへ。

 同乗者の仕事の関係でコルサコフへ向かったのですが、仕事の方はオフィスに置いて我々はプリゴロドノエという港町の視察に向かいました。

 ここはサハリンで行われている天然ガスや石油採掘の積出港として、サハリン2プロジェクトを語るときにはいつも出てくる地名なのですが、なかなか見ることはできませんでした。今日の視察ではちょうど天然ガスの輸送船にガスを充填しているところが見られ、感動もひとしおです。

 またここでは石油の積み出しも行っているのですが、石油の積み出しはなんと沖合4キロに設置されたクレーン状のパイプから送られるのだそう。

 なぜ港を建設して接岸させないのかなあ、と不思議に思いますが、ロシアにとってはわざわざ防波堤を作ったり浚渫したりする手間を考えると、沖合の海底が深いところに停泊させてそこで積出をすればよいだけと考えたのかもしれません。

 港があれば天候や波が荒れても積出ができると思うのですが、天気が悪ければ明日でも良いやと考えたのだとすれば、いかにもロシアらしい考え方ではあります。
 ロシアにも少しずつ慣れてきて、今日はこの国のユルさがなにかと目についた一日でした。


       ◆ 


 プリゴロドノエの視察を終えてコルサコフからユジノサハリンスクへと戻ってきましたが、途中に"ダーチャ"と呼ばれる菜園付きのセカンドハウスがやたらと目につきます。

 ロシアの人たちは週末をこの菜園で野菜や花を作って過ごすことが大好きなんだそうで、ロシア人の通訳さんに訊いてみると、これらは土地の権利を買って建てるので、「まさにどの町で作るかを始め、各種条件でピンからキリまである」のだそう。

 このダーチャ、元々は貴族の遊びだったとのことですが、ロシアが歴史上経済的に苦しかった時代には自給自足により国民の食べるものを生産するうえで計り知れない救いになったとも言われています。

 車窓から眺めていて、どう見ても日本でいう掘っ立て小屋にしか見えない小さくて粗末な小屋もあります。それなのにその煙突から煙が出ているので中で人が暮らしていることが分かり、(ほんとに?)と突っ込みたくなってしまいます。

 道路を走っているときに見えたダーチャですが、ユジノ市内に帰って来て山の風スキー場の夏観光のゴンドラに乗ったところ、ゴンドラの通る道の真下もダーチャになっています。

 日本だったら安全の観点から絶対に許されないと思いますが、ロシアなら許されるのです。緩いなー。


      ◆ 


 ゴンドラに乗るときも、12時の運航開始が12時になっても県の販売窓口の列が動きません。

「どうしたの?」と訊くと、「レジのシステムが壊れたので十分待ってくれと言われました」とのこと。十五分ほど経ってようやく列が動き始めたと思っていたら、券を買うため並んロシア人の若者が突然レジから外れてカフェへ走ってゆきます。

 どうやら「お釣りがない」と言われたようで、お金を崩すために走り回っていました。待たせた上にお釣りがない!緩いなー。


      ◆  


 旅で困るのはなんといってもトイレの問題。

 見学を終えて用を足そうと思ってデパートへ入ったら、トイレは全館で一か所しかありません。おまけに男女の別もあるんだかないんだか。

 女性が使った後に入ってみたところ、なんと便座がない!男性はこれで良いとしても女性はいったいどうやって用を足したのやら。

 これがたくさんの人が使うデパートだというのですから日本の常識は通じません。公共のトイレなどは便座それ自体も持っていかれて穴しかないというところもあるのだとか。

 もっとも我々は、前日の旅の途中で立ち寄ったお店の外のトイレが日本の昭和三十年代も真っ青の板の上のボッ○ントイレだったということもあって、「いざとなればバスを止めてもらって草むらに行けばいいや」という覚悟ができていました。

 この緩さを受け止めたうえで、慣れて対応できなければ旅はできませんね。


       ◆ 


 こうした緩さの一方で、サハリンでは信号がとても少ない事に気が付きます。大きな道路同士の交差点なら信号がありますが、大体数百メートルに一カ所という程度にしか現れません。

 それでも車の進入や交差は結構スムースに行われています。規制がない分、自らの自制によって交通をスムースにする譲り合いの精神が発揮されているような気がします。

 また信号がないところにある横断歩道では歩行者が待っていると実に頻繁に車の方が止まってあげます。なのでバスの車内では急ブレーキに遭遇することがしばしば。バスの中でも油断することができません。

 以前行ったことのある中国の都市ほど激しいクラクションの鳴らし合うこともなく、穏やかに交通が裁かれています。緩さの陰での人の好さも伺えて微笑ましくも思えます。

 うーむ、少しロシアのファンになったかもしれません。いよいよ明日は日本に帰国する日です。過ぎれば旅は短いものですね。

 

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サハリン二日目、ネベリスク~ホルムスクへ

2015-09-02 22:50:18 | Weblog

 サハリン旅行の二日目。ツアー参加者一行は午前中の市内観光を午後に回し、午前はフリーにしたのですが、私たち夫婦は別動隊と合流して遠方まで足を延ばしました。

 別動隊というのは全く同じ日程の三泊四日でサハリン州を視察している稚内港利用促進協議会の一行。私がこちらのツアーに参加を申し込んでから、こちらもサハリン州を回るというので、サハリン事情やサハリンでのビジネス事情に詳しい人たちと一緒の方がより深くサハリンを理解できるだろうということで、こちらと行動をともにできるようお願いをして了解を得ていたのです。

 港利用促進協議会の方は、移動に現地でパートナーとして長くつきあいのあるロシア企業の方にバスを出してもらいこれで州内を移動しました。

 今日の午前はユジノサハリンスクでは動きが取れないだろうということでサハリン島の西側のネベリスク(旧本斗)とホルムスク(旧真岡)を巡るロングドライブの一日。

 ユジノサハリンスクからネベリスクまでの途中は峠を越えないといけないのですが、都市間道路なのに途中の15kmが未舗装道路。対向車とすれ違うと前が全く見えない煙幕状態はロシア名物だそうで、舗装の部分にたどり着いたときには車内から歓声があがり、「日本にいると舗装のありがたみが分からなくなるね(笑)」という声も。

 ネベリスク市は人口一万人足らずの小さな町で1972年に稚内市と友好都市になり、稚内とは縁の深いところ。市内には稚内通りと名付けられた道路も走っています。

 着いた時にはちょうどネベリスクでも戦勝記念式典の最中だったようでちょっと渋滞に巻き込まれましたが、脇道を抜けて移動に成功。

 かつて市役所だった建物が2007年の大地震でかなり傷んだことで、市役所を向かいの建物に移して元の市役所は博物館になっていました。カラフトアイヌの人たちの文化から日本統治時代の文化、ロシア統治時代を経て現代の稚内との友好交流などの展示があって興味深く見て回れます。


  
 またこちらには1983年に起こった大韓航空機撃墜事件の慰霊の碑もありました。宗教的バックグラウンドがよくわからないデザインでちょっと不思議な感じでした。


       ◆ 


 続いては北方面に車を走らせてホルムスクへ移動。途中にはかつての日本人が作った橋が二か所でいまだに使われていて、いい加減にして架け替えればよいのにと思います。

 ホルムスクは人口3万弱の港町で、実は釧路市と姉妹都市になっています。釧路時代にはとうとう縁がありませんでしたがこういう形で訪ねることができるとは不思議なものです。

 ここホルムスクにはかつての王子製紙の工場があって戦後はロシアでも使っていましたが火事を出して今では全くの廃墟になっています。この製紙工場で使われた発電所はわりと最近まで使われていたのだそうでまったく物持ちが良い国です。

 ホルムスクでもネベリスクでも海を見ているとぼろぼろに朽ち果てる直前の防波堤が見えます。実はこれも戦前に日本が作った防波堤で、ロシアにはそれを修復する技術もなくてそのまま使われているのだそう。もうこうなると物持ちのレベルではありません。

 ホルムスクの港には海岸で良く見かけるテトラポッドが置かれていましたが、じつはこれは中国製のパクリ製品なんだそう。テトラポッドの形状は国際特許が取られていて簡単に似たような形のものは作れないのですが、そこはお国柄で大体の形さえわかれば中国に鋼製の型を作らせてテトラポッドも作ってしまうのだそう。
 これが日本人の常識にはないロシアという国と理解しなくてはならないようです。

 
 今日の視察の最後はホルムスクからユジノへ戻る途中の熊笹峠。ここは終戦時に進行してきたロシア軍と日本軍との間で激戦が展開された場所でここでの最後の抵抗が、ロシアに北海道の占領の既成事実化を断念させたとも言われています。

 ここでもロシア側の戦勝記念式典の跡が伺えましたが、いずれにしても平和のありがたさに感謝し、これが続くように努力しなくてはならないものだという思いを強く持ちました。

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サハリンの旅初日~日本のものは良いけれど高いです

2015-09-01 23:17:53 | Weblog

 いよいよサハリンへの初めての旅です。

 朝七時半に国際フェリーターミナルに集合して、同行のツアー客の皆さんと合流。今回は近畿日本同じ船にはツーリストの旅ですが、参加者は29名。今日のフェリー船「アインス宗谷」には101名が乗船するのだそうで、まあそこそこの利用者数と言ったところ。
 海は風も波もほとんどなくて穏やかな海を船はひた走ります。

「もうすぐ二畳岩が見えますよ」

 二畳岩というのは広さが畳二枚ほどの岩で、かつてサハリンが日本だったころにこの岩の上に灯台を立てているのが見えました。ネットで調べてもなかなか出てこないこの岩。かつての日本人はいろいろなことをしているんだなと改めて分かりました。

 
 コルサコフ港に着いたのは現地時間の午後3時50分(日本時間の2時50分:日本より一時間先行している)。稚内よりは大きな港のようですが施設はどこか古めかしい感じ。70年前にまだ日本だったころに整備された港湾施設がいまでも使われているとのことで、随分頑丈なものを作ったなあ、と言うべきか、ロシアももっとよい港湾施設を作る力がないというか、まあ旅はいろいろなことを考えさせてくれます。


         ◆ 


 ユジノサハリンスクには18時過ぎに到着。ツアーの皆さんは19時からホテルで食事でしたが、我々夫婦は現地の北海道事務所スタッフの方と合流して「黒猫」という別のレストランで会食をしました。

 対応してくださったのは北海道事務所の若きスタッフ二名。どちらもこの四月からサハリンへ赴任したとのことで、5カ月が経過していろいろと地域の事情がわかってきたとのことで、サハリン事情をより詳しく教えてもらいました。

 黒猫は住宅街のアパートの一階にあるちょっと変わったレストランですが、日本人の口にあうロシア料理を出すというので、現地邦人に人気のレストラン。

 バルチカビールで乾杯をして、サラダやビーフストロガノフ、ロシア風焼き鳥にロシア風ギョーザなどを美味しくいただきました。特にデザートの黒パンアイスはなかなかの美味でした。これはお薦めです。


 サハリンの事情を数字で教えてもらいましたが衝撃的だったのは男性の寿命です。なんと62.17歳。女性はずっと長生きで73.53歳とのことですが、男性の寿命の短さは
ちょっと異常です。酒好きだとかタバコだとか医療環境などがあるのかもしれません。

 ただ平均賃金も低くて約11万円とのこと。それでいて物価は日本とあまり変わらない感覚だというのですから、生活は決して豊かとはいえないようですが、それでもアウトドアや休日を明るく楽しむのが地元の人たちだとも。

「物価が日本と変わらないというのでは賃金が低いと大変ですね」
「はい、でもそれゆえあまり外食はせずに家で料理をするという生活があたりまえのようですね」

「日本の産物や商品をこちらへ売るためには何が障壁になっていますか?」
「やはり価格ですね。韓国のカップラーメンが200円するのに日本のカップラーメンは500円もします。食べてみれば美味しいというのはわかりますが、それにしてもこの価格差ではなかなか手にしようとは思えません。売る側がもうけを上乗せしているように思いますが…」

「やはり日本の産物は人気はあるのですか」
「日本に比べるとはるかに多くのものが中国から入ってきます。しかし中国産は『輸入品』としか表示されていないのに日本からのものには『日本産』と書かれていてさらに北海道のものはさらに『北海道』と書かれています。それゆえ売る方が強気で高い値付けをするということもあるでしょう。日本産や北海道産がブランドとして認知されているということを感じますが、それゆえ高価で人々の口に入らないというのはちょっと残念です」

「物流を果たそうにも冷凍庫の設備もないということで、いわゆるコールドチェーンがけいせいされていないとも聞きますね」
「そこはまさにサハリン側の努力も足りないと思いますが、ユジノサハリンスクの人口が20万人しかいないという点では商圏としても小さいのかもしれません」

「サハリン観光の可能性はいかがですか」
「ポテンシャルはあると思いますが、不親切というかぶっきらぼうというか、日本からの観光客を迎えようという意思が今のところあまり感じらません。日本だった時代の遺物や建物が現存しているの使われていないものは朽ち果てるばかりです。ちょっと残念ですね」

「日本人の仕事が今でも残っているのにそれに日の目があたらないのは確かに残念ですね。日本人観光客が訪ねてくることが双方にとってwin-winになる道筋を示してあげて努力を促したいところです」


 最後に「何か足りないものってありますか」と訊くと、「実は米も持ち込もうとしたら税関で取り上げられてしまうんです。美味しい米も食べてもらえれば日本食の味わい
ももっと伝わると思うのですか」


 まだまだビジネスとしても日露の文化交流としても様々な障壁があるようです。もっとがんばらなくてはいけないようです。

 

 

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