北の心の開拓記  [小松正明ブログ]

 日々の暮らしの中には、きらりと輝く希望の物語があるはず。生涯学習的生き方の実践のつもりです。

「人材育成研修」の講師 ~ 人間力向上のためのアプローチ

2022-10-21 23:02:08 | Weblog

 

 木曜日の事ですが、某官庁の職員を相手に「人材育成研修」の講師を行いました。

 受講生は16名と少数精鋭での研修。

 全部で二泊三日の研修で私以外の講師のコマも多岐にわたる盛りだくさんな研修で、そのうち私は最後の日の最後の1時間30分の研修を割り当てられました。

 人材育成と言われても、具体的にどのようなことを行ってどのようなことを伸ばしたり気づかせるか、ということには様々なアプローチがあることでしょう。

 今回は、全体のコマを概観してどうやら座学的に講師の話を聞くような研修が多いような気がしたので、私は受講者に「考えて・自ら話す」ということを求める時間帯にしようと思いました。

 またそこでの研修テーマは「人間力の向上」ということにしました。

 人間力というとなにやら漠然としたイメージしかありませんが、実は政府内部でもそうしたことを検討した経緯があります。

 平成15年に内閣府では「人間力戦略研究会」を設置して、その報告書の中にこう書かれています。

 曰く、「…人間力に関する確立された定義は必ずしもないが、本報告では、「社会を構成し運営するとともに、自立した一人の人間として力強く生きていくための総合的な力」と定義したい」として、
 
 具体的には、人間力をその構成要素に着目するならば、
① 「基礎学力(主に学校教育を通じて修得される基礎的な知的能力)」、「専門的な知識・ノウハウ」を持ち、自らそれを継続的に高めていく力。また、それらの上に応用力として構築される「論理的思考力」、「創造力」などの知的能力的要素

② 「コミュニケーションスキル」、「リーダーシップ」、「公共心」、「規範意識」や「他 者を尊重し切磋琢磨しながらお互いを高め合う力」などの社会・対人関係力的要素

③ これらの要素を十分に発揮するための「意欲」、「忍耐力」や「自分らしい生き方や成功を追求する力」などの自己制御的要素などがあげられ、これらを総合的にバランス良く高めることが、人間力を高めることと言えよう。

 
 …とされています。

 個々人の能力で見れば、これらには得意なものもあれば苦手なものもあるでしょう。

 ただそうした自分の得手不得手に気づき、足らざるを補うような意識を自分の中に持ってもらいたい。今回の研修はそんなことを目標にしました。


     ◆


 具体的な研修は、私が読んできたいろいろな本の中から、心がちょっと揺さぶられるような文章を読んでもらい、それを読んで自分がどう感じたかについてグループで意見交換をしてもらい、グループ代表に発表してもらう形にしました。

 例えばこんな文章を用意しました。

 ーーーーーーーーーーー

「傍観者」にならないために
 最初の一歩を踏み出すために必要なのは少しの勇気です。

 朝の混雑する駅などで人が倒れた際、多くの人が見てみぬふりをして通り過ぎていったという出来事が、インターネット上などで話題になることがあります。気づいた人はたくさんいたはずなのに、どうしてそうなったのでしょうか。

 それは逆説的ですが、「人がたくさんいたからこそ、声をかけなかった」ということも考えられます。もちろん「先を急いでいた」とか「面倒に巻き込まれたくない」といった理由で見て見ぬふりをした人もいたかもしれません。しかし、もしそれが人通りの少ない場所で起こった出来事であり、その場に居合わせたのが自分一人だったとしたら、そのままにして通り過ぎたでしょうか。おそらく、なんらかの行動をとったはずです。

 つまり、多くの人がその場にいたことによって、「自分がやらなくても、他の誰かが声をかけるだろう」とか「ほかの人も知らん顔をしているのだから、自分だけが悪いわけではない」といった意識が働いたのではないでしょうか。こうした心のはたらきを、心理学では「傍観者効果※」と呼んでいます。

 そうした心理を克服して行動を起こすためにも、やはり勇気は必要です。手助けの必要を感じたときには「傍観者」になることなく、みずから率先して手を差し伸べることを心掛けたいものです。

 最初に行動を起こすときにはハードルが高く感じられても、小さな実践を積み重ねていくうちに、それほど構えることなく、自然な形で行動に移すことができるようになります。最初の一歩を踏み出すために必要なのは、ほんの少しの勇気です。

 勇気を出して行動を起こした結果が思わしくなかった場合も、ことさらに自分の行為を押しつけようとしたり、相手を責めたり恨んだりする必要はありません。次の機会に向けて「思いやりの心」の表し方を前向きに考え続けていったなら、自分自身をより大きく成長させることができるでしょう。

 ※集団真理の一つ。ある事件に対して、自分以外に傍観者がいる時に率先して行動を起こさない真理である。傍観者が多いほど、その効果は高い。

 (出典:「読むだけで人間力が高まる100話 モラロジー道徳教育財団) 
 ーーーーーーーーー


 こんな文章を1ラウンドで4編用意して、意見交換、発表をしてもらい、これを2ラウンド行います。

 後半の2ラウンド目には、二宮尊徳さんの「二宮翁夜話」からの文章を用意しました。

 
 研修では4グループに分けてそれぞれで討議、発表をしてもらい熱心な感想が語られました。

 意見交換の最中に各グループを回って話を聞いていると、研修の目的を見透かしたような頑なな意見を持っている人がいたり、素直に感動している人など受け止め方は千差万別。

 しかし発表の内容に正解などなくて、真剣に考えて自分の意見を発表するという行為こそが大切で、そこで心の中に何かしらハッとする経験が起こるかどうかがポイントです。

 二宮尊徳先生は「私のやり方は心の荒蕪を開くのが本来の目的だ。荒れた心が直されたならば、土地が何万町歩荒れ果てていようとも憂うことはない」と言いました。

 今回の研修がそんな形に繋がると良いのですがねえ。

 研修講師は準備から当日の運営まで苦労も多いですが、後々受講者と話すときに良いネタになるもので、充実感も得られます。

 さて、いつまでやることになるのやら。
 

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本物に出会うための旅

2022-10-19 22:18:59 | Weblog

 

 本州からお客さんが来て夜に懇親会。

 よもやま話の中で、その方は名古屋がご出身とのこと。

「北海道は一年ぶりですね」とのことで、「北海道にいれば美味しいものがたくさん食べられるんでしょうね」とタチの天ぷらを「旨い旨い」と言って大喜びでした。

 話の中で、「名古屋にいてもデパートで『北海道物産展』となると、もう混雑がすごいんですから」と、北海道の産物が人気なのだと力説します。

「北海道物産展って何が売っているんですかね」と試みに聞いてみると「〇〇とか××とか…、そうそうお米も美味しいですからね」と北海道のお米の銘柄を言ってくれました。

 ただ私自身はその銘柄は好きではなくて「それって粘るけど味がしない感じがして、私は別な銘柄のお米が好きですね」と言うと、「例えばどんな銘柄ですか?」と来る。

「△△が美味しいです。蘭越産などは特に」
「ははあ、聞いたことがありませんね。名古屋にまでは届かないのかなあ」

 地元が納得する真に美味しいものって、そうそうどこにでも行き渡ることなどないのだな、と。

 本当に美味しいものは地元だけが理解していれば良いのです。


     ◆


 そういえば以前愛媛の松山に旅行した際に、ふらりと入ったお城近くの小さな八百屋さんで、一山300円と言うそれまで見たことのない柑橘を買いました。

 ホテルについてからそれを食べてみたところ、まあ美味い。

 みずみずしくて甘さもたっぷりで、(こんなミカンは見たことがない)と妻と大感激したことを思い出します。

 そしておそらく松山の人たちはそんなミカンは日常的で珍しくもないので気にもしていないのかもしれません。

 ある講演会で講師が「自分の身の回りにあるものを、人はしばしば過小評価するし、また同時にしばしば過大評価するものです」と言っていたことを思い出しました。

 「そんなの大したものじゃない」という過小評価がある一方、「うちのこれはすごいでしょ」という過大評価もあり得る。

 自分を客観的に眺めるのは難しい。 

 よそ者の目というフィルターを通せば、本当にすごくて自慢すべきなのか、そうでもないのであまり自慢しすぎないほうが良い、ということのアドバイスをもらえるかもしれません。

 本物に出会おうと思うとその場所に行かないといけなくて、それだけに旅はやはり良いものなのです。

 本物に出会うように努力しましょう。

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道路舗装管理の新たな課題 ~ 試験施工は無事終了

2022-10-18 23:18:33 | Weblog

 

 天気にも恵まれて試験施工は無事終了。

 車道にある橋の段差を解消する新しい材料を使った施工ができました。

 昨年も同じような形で段差解消の施工を別なところで行ったのですが、そのときは材料が非常に硬くなる素材でした。

 北海道のような積雪寒冷地では、固くなる素材は春先に水が凍って持ち上がったり、融けてまた下がるという動きによって壊れやすいという弱点があります。

 昨年もその例にもれず、やはり一冬越すうちに端部の方から壊れてしまい、厳しい結果になりました。

 今回は昨年の素材をさらに改良して、少しは柔らかさを保つようなものになっています。

 今後も定期的にフォローアップをしてゆきましょう。


     ◆


 今回の試験施工会場には、北海道の舗装の大家である大学教授もK先生も視察に来てくださいました。

 そこでよもやま話をしているうちに、段差解消とはまた別な舗装の課題が話題になりました。

 それは「横断クラック」と呼ばれるもので、道路に横方向に舗装が筋状に割れる現象のこと。

 これは冬期に気温が下がることで舗装のアスファルトが収縮することで、舗装が引っ張りに耐えきれずに割れてしまう現象なのです。

 郊外部の道路を走ると、そうした割れ目が一定の幅でできてしまい、まるで自動車が線路を走っているかのようにカタンカタンと振動が来ます。

 舗装は寒い時期に一度割れてしまうと暖かくなっても戻ることがないので、その割れ目から水が入って舗装の下に浸みてゆきます。

 今までもそれによって舗装が痛んで、その割れ目が広がったり舗装がへこんだりすることが分かっていました。

 それをK先生は「今回、割れ目から下がどんなふうに傷んでいるのかを見てみようと、実際に道路を掘ってその下を見てみたんです」とのこと。

 すると「細い割れ目でもそこから水が入るとその下で水が凍結誘拐して舗装が粉々になって土砂化していることが改めてよくわかりました。その痛みも、真っすぐ下にではなくて、下がるほど横に広がっていくんですね。なので、舗装の割れ目を早い段階で修繕して水が入らないようにすることは大事だな、と思うので、お宅の会社もそういう修繕素材を作ってほしいですね」とのこと。

 舗装の横断クラックは、北海道の道路の構造的な問題で、これを修繕するとなると膨大な費用がかかることでしょう。

 それを少しでも軽減できるような素材と施工性の改善が将来の道路管理の大きな課題である、とのこと。

 また新たな課題に向けて業界が頑張らないといけないようです。

 施設の維持管理は将来の我が国の大きな課題です。

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舗装修繕の試験施工 ~ 気温が下がると固まらないんだよ~

2022-10-17 22:41:08 | Weblog

 

 今日から明後日まで、道東で舗装の段差を修繕する試験施工の立ち合いです。

 つくばにある当社の技術研究所が、製造している製品が北海道の厳しい自然の中で舗装材料として使えるかどうかを実際のフィールドで試すというものです。

 こういう話はそもそも適切なフィールドを見つけ出すのが難しい。

 ましてつくばの社員が道内で公道での試験施工の道筋を立てるのは難儀です。

 いきおい、道内のことは多少詳しい私が露払いをして適度に道路が傷んでいるところを道路管理者に探してもらい、そこから最も良い場所を見つけます。

 今回も夏くらいから場所探しを始めて、秋が深まった今頃の施工になりました。

 舗装の修繕材料は暖かい方が都合が良いのですが、明日から北海道は冷気が襲ってくるとのことで、材料が固まるまでの時間が心配です。

 さて、まずは明日の天気が良いことを祈りましょう。

 

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タイヤ交換はネジの締め付けに注意 ~ ちゃんと締めてもさらに締める

2022-10-16 22:20:11 | Weblog

 

 先日愛車セレナのタイヤ交換を終了。

 この車のタイヤを交換するのもおそらく最後だろう、と思うのですが、2月に注文した次の車はまだくる気配もなし。

 担当者におずおずと聞いてみましたが、「1月に注文された方の車がようやく納車になり始めました」とのこと。

 担当者も「正直、今の車メーカーはどうなってるんだ、とは思います」と同情してくれますが、ディーラーにとっても売れなくてはお金が入らないわけで、これでは経済が回らない道理です。

 今の日本、観光のようなフワフワした需要は喚起できても、サプライチェーンが脆弱になり、生産して販売するという経済の基礎体力が衰えていることを痛感します。


     ◆


 さて、仕方がなく終えたタイヤ交換。

 以前タイヤ交換を行った際に、走行中に右前のタイヤからゴトゴトと異音が発生。

 怖くてカーショップへ行ってみてもらうと、「タイヤのネジが締まっていませんでした」という衝撃の結果が判明しました。

 一本のタイヤのネジをしっかり占めるのを忘れていたというわけです。

 そういう記憶があるので、今度こそタイヤのネジはしっかりと締めたはずでした。

 ところがまたしても右前のタイヤから走行中にゴトゴトと言う音がします。

 まさに前回の轍で、タイヤのネジが緩んでいると直感。

 帰宅してジャッキアップしてタイヤのネジを確認すると、やはり明らかに緩んでいます。

 今回は全部のタイヤのネジをしっかり締めたので締め忘れではないはずでしたが、実はタイヤ交換の際には「増し締め」が必要だ、とのこと。

 しっかり締めたつもりでも、走行中にネジが緩んでしまうことがあるので、タイヤ交換後の50㎞~100㎞走行後にネジの締め直しをすることが必要だというのです。

 こういうことも気をつけないといけませんね。

 タイヤ交換の季節です。皆さんもご注意を。

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ニセコの保養所で驚いたこと ~ 建物が随分増えている

2022-10-15 23:01:24 | Weblog

 

 今日から明日は長女の旦那さんの会社がニセコにもっている保養所で憩いのひと時を過ごします。

 基本的には社員の身内も使えてその範囲は二親等までということで、妻の兄妹である次女までは良かったのですが、その子供の孫は三親等で利用ができないというルールでした。

 それが最近「利用の範囲が三親等まで広がったみたいです」という噂を聞きつけ、会社の担当者に確認したところ「利用できますよ」とのこと。

 これでいま同居中の一歳の孫も一緒に利用ができるようになりました。

 
 私は以前も何度か利用させてもらっていたのですが、久しぶりにニセコの山麓を運転していると、以前はなかった建築物が随分増えています。

 ホテルクラスの大きな建物も増えたし、数組が利用できるような別荘の大きな感じのものも増えました。

 コロナでニセコも観光客の減少に苦しんでいたと聞きましたが、ポストコロナを見据えた建設投資は確実に進んでいたのでしょうか。

 いよいよインバウンドへの受け入れ制限が緩和され、旅行支援も本格的に始まりました。

 今までのうっ憤を晴らすかのような出足になって、ただ消費すればよいというような安易な観光地のガチャガチャが起きないことを祈ります。

 しっとりした観光地を楽しみたいものですが。

 

 

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リスキリングとリカレント、分からない単語はすぐにググらなくちゃ

2022-10-14 23:56:43 | Weblog

 

 政府が構造的な賃上げの実現に向けて、リスキリング(re-skilling=学びなおし)に対する支援方策をまとめるのだそうです。

 英語の"re"という接頭辞は「再び」という意味でつかわれることがあり、ここでは「再びスキル(=技術)を身に着ける」ということからリ・スキリングとし、これを労働環境活性化の起爆剤にしたいと考えているとのこと。

 ところで政府や岸田総理の話し方からは、しばしば「リスキリングをすることで、人材がより賃金が高くやりがいがある職場へ転職をする」ことを重要に考えていることが伺えます。

 ちょっとこのあたりが混乱していて、リスキリングはどちらかというと企業内で所属する人たちが新しい分野への学びを行い、組織のレベルを上げるという事のように思います。

 全く違った技術の習得をして転職するということならばそれはこれまで「リカレント教育」と呼ばれていたもので、再度学校に入りなおして新たな能力を開発するということではないか、と思うのです。

 リスキリングとこれまでのリカレントとの違いを明らかにしてほしいような気がします。

 政策を単なる流行言葉でとらえていて、「もうリカレント教育と言う言い方は古いから、これからはリスキリングと呼ぼう」という単純な発想ならば、そこも含めてちゃんと説明してほしいものです。

 またさらにややこしいのは、ネットを見ていると「リスキリング」をしばしば「リスキング」と書いている文章に出会う事です。

 恐らくは「リスキング」と言う単語はなくて、「リスキリング」なのだろうな、と思うのですが、カタカナを本来の意味を考えずにそのままありがたく思うとなんだか単語そのものも意味も分からないままに使って平気なような気がします。

 外来語でカタカナでそのままイメージが多くの人と共有できて、それを言われればすぐに頭に浮かぶようであればよいでしょう。

 しかし最近は分かりにくい単語を持ち出して平気で使うことが多いので困ります。

 先日も「会議のアジェンダを決めましょう」と言われ?(アジェンダ?なに?それ?)と戸惑いました。

 この場合のアジェンダとは、「会議の日程や議題、議論すべき内容」と言った意味で使われるているのですが、私の中ではまだイメージがポンと頭に浮かばないので困ります。

 日本語も新しいものを取り入れながら変化・進化しているのだ、と言う分には構いませんが、言葉が共通の意味として理解されないのだとしたら、その単語はまだ共有の途上で、軽く使わないほうが良いのではないか、と思います。

 それともすぐ「ググって」調べるのが現代社会なのでしょうか。

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「芋こじ」で気づくこと

2022-10-13 23:21:25 | Weblog

 

 来週今年最後の研修講師の一コマがあります。

 今回のテーマは「人材育成」ということで、若い人たち16名が参加しての研修です。

 昨年も同じようなテーマで一コマをもったのですが、今年は昨年と趣向を変えた形でやろうと思います。

 それは①心を打つ文章を読んでもらい、②相互に意見交換をする、というやり方。

 それぞれ、文章の出どころや背景についての説明を軽くしてからの意見交換で、文章は先に渡して読んでおいてもらおうと思います。

 全部で90分のコマなので、二つくらいのカテゴリーでそれぞれ4編のお話を読んでもらい、感想を言い合うことで互いに気が付くことが多く、そこで相互にインスピレーションが沸くことを期待します。

 二つのカテゴリーのうち後半には二宮尊徳所縁の「二宮翁夜話」からの文章を用意しました。

 「二宮翁夜話」は、尊徳先生の高弟であった福住正兄(ふくずみまさえ)が尊徳先生と過ごした4年間に書き記した語録から選んだ書物です。

 尊徳先生の考えや思想などが平易な文章で語られていて、尊徳先生の報徳思想とは何かを理解するうえで格好の一書です。

 またさらに相互に語り合うことでお互いに高めあう手法は現在は「ワークショップ」などという言い方をします。

 自分ではない他人から自分には思いつかないような話を聞いて、知識や意識を高めるという手法ですね。

 二宮尊徳の報徳仕法(やり方)では同じように村民が皆で語り合うことをやっていて、それを「芋こじ」と言いました。

 ここでの芋とは里芋のことで、里芋を樽に入れて水を入れ棒きれでぐるぐるかき回すと芋についた泥や汚れが芋同士こすれあって取れるということを「芋こじ」と言ったのです。

 誰か上の人から言われて勉強になるということもありますが、人間は真に納得したこと以外は行動に移せないものです。

 同等の者同士がお互いに意見をぶつけ合うことでより理解や納得が深まり、一人ひとりの意識が向上することが期待されるというわけです。

 尊徳先生の熱い文章とそれをめぐるやり取りで受講生の心が開かれるでしょうか。

  

 

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婿さんが赴任中の中国に帰ります ~ 早くコロナ前の日常が戻れば良いのに

2022-10-12 22:39:38 | Weblog

 

 国慶節の期間を利用して一時帰国をしていた婿さんが明日赴任中の中国に帰ります。

 最後の今日は長女夫婦らも参加しての食事会。

 家の近くに品のある小料理屋があるというのは嬉しいものです。

 1歳になる孫は9歳と7歳の甥っ子にも慣れて、食事に飽きたところで3人で遊び始めました。

 1歳の孫はようやくスタスタと歩けるようにもなり、大きなテーブルの周りをぐるぐると周り、疲れることを知りません。

 婿さんが前回帰国して我が家へ来たのは2月のことで、そのときには孫はまだようやく立てるか立てないかというくらいのとき。

「立ってすたすた歩いているのを見るのが信じられない感じです」

 他人の子供が育つの早い、と言われますが、自分の子供だってちょっとみないうちにずいぶん成長するものです。


      ◆


 人生の中で単身赴任は10年経験しました。

 転勤は公務員として働いている以上、仕方のないことですが、それに家族がついて来るか来ないかは、その時その時の家庭の事情です。

 私の場合も単身赴任という事は、そのときはもう子供中心の過程になっていて、学校が替わることが可哀想に思ってのことでした。

 私が高校生の頃は、父が転勤で稚内に行ったときは母も弟も妹も皆稚内について行き、私だけが旭川で下宿生活を送りましたが、そういう時代だったのだと思います。

 父親だけが単身赴任するというのはその後の昭和50年代以降に始まった風潮なような気がしますが、下宿生活で得た思い出も大きいものがありました。

 誰とどんな形でいるのが良いかなんて正解はなくて、その時その時を一生懸命生きればよいのだと思います。


     ◆


 さて、明日中国に変える婿さん。

 昨日、今日と連続二日のPCR検査を受けて陰性判定証明を取りましたが、それでも中国に着いたら1週間のホテル隔離期間が必要なのだそう。

 新千歳への直行便も復活しておらず、不便な日が続きます。

 次に来られるときはコロナ前の日常が戻っていると良いのですが。

 

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家族葬の是非を考える ~ お坊さん(の友達)に教えられた話

2022-10-10 22:27:53 | Weblog

 

 昨日開催されたクラス会で僧侶の友人と話したなかで考えさせられることがありました。
 
 それは「家族葬」の問題。

 家族葬は一応「親しい方を中心に個人を見送るお葬式の総称」とされていて、必ずしも明確な定義はありません。

 ただそれは従来型の、新聞にお葬式の日時や場所を掲載しまた生前の様々な繋がりの果てまで亡くなった報せを届けてとにかく多くの参列者を招く形へのアンチテーゼということでしょう。

 広く知らせることで生前の付き合いが浅かった人までもが参列し、香典を持参するということは、参列する側になってみると参列するかどうか、香典を持参するかどうかに迷う、いわゆる「つきあいの濃さ」のギリギリにいる人たちには心の負担かもしれません。

 そうしたことを慮(おもんぱか)ると、「そういう負担は申し訳ない」と考えるようになります。

 そういうことから、葬儀は家族を始めごく近親者のみで行って、葬儀を終えた後で故人を見送った報せを周囲に伝える。

 香典や供花を受け取るタイミングはないし、持ってこられても受け取らないということで仕切るとそれはそれで周りも気持ちが楽なのだろう、と思うわけです。

 

 
 しかし冒頭の僧侶の友人は「そうじゃないよ」と言います。

「まずお見送りをする方の生前の付き合いでやり方を考えるべきだ、と思うわけ。それは、もう高齢の親などで周りにも付き合いをしている方がほとんどいない、というのなら、家族葬でいいと思うよ。しかし、町内会や回りにお世話や貢献をして慕われているような方ならば、最後にお別れの機会を作ってあげるべきだと僕は思う」
「ふむふむ」

「確かにかかるお金を考えると小さいところでやればかからないような気がするけれど、従来型でも家族葬でもお寺さんへのお礼のお布施は変わらない。小さな会場でもかかるものはかかるし、広いところでやれば香典を持ってこられる方もいて、なんだかんだで持ち出しは同じようなもの」
「うん」

「何より問題なのは、お見送りをする範囲を近親者に限ることで、家族葬を終えたあとに『どうしても弔意を表したい』といった故人を慕う方がご自宅に次から次へと来られて、結局いつまでも対応がずるずる続くという事があるんだよ」
「ははあ」

「社会の中でそういう儀式をこの2時間に込めましょう、そして気持ちにけりをつけましょう、というのがお葬式と言う儀式なのに、その機会を奪うという事は、遺された人たちにずっともやもやをのこすことにもなっちゃう」

 
 周りの人たちに対して「故人のために気遣いをしてくださらなくて結構ですよ」というこちらの気遣いのつもりが、実は周りへの気遣いになっていないことがある、という想像力は働かせてほしいね。

 
 いわゆる従来型のお葬式では、家族も知らない故人の昔の友達が現れて故人の知らなかった一面を教えてもらえることもあるなど、面倒やお金には代えられない縁と繋がりの出来事が与えられることがある。

「お葬式も社会の中ではないがしろにできない縁と縁を感じる儀式だからね。人には迷惑をかけてもいいんだよ、申し訳なくても良いんだよ。『今日だけはお許しください』で良いんだよ」

 だから流行っているのは分かるけれど、故人の生前の社会の中のお立場を考えた式にして差し上げてほしいというのが彼の言い分です。

 別にお坊さんが儲からないから、などという下世話な理由ではありません。

「生きることは関わることで、それは人に迷惑をかけること」という人間の業の最後がお葬式だ、という考えはいかがでしょうか。

 私自身、今まで何も考えずに「もう時代は家族葬なんだろうな」と思っていましたが、例えば亡くなった方の年齢やその時の立場によってもやり方は考えなくてはならないのだな、と思いました。

 いろいろと友人から教えられたクラス会でした。

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