見ず知らずの、ある人。
この方は、私がよく訪れるブログに、時々コメントを寄せておられる。
田舎で大家族で住んでおられて、お年寄りの食事の用意やら、病院への送り迎えやら
なんやらかんやら、しないといけないらしい。
幼い子供の世話もある。
特に90歳を過ぎるオバアサンを囲んでの食事タイムが、大嫌いだそうだ。
彼女がすべて用意して、上げ膳据え膳。
大変だ。
イエや夫の従属物であるかのような扱いを受ける嫁。イマドキ??
※(嫁を動かすほうの力量にもよるけれど。
上司の人事的采配がうまいと、気付かないうちに、
部下は気持ちよく、最大限の力を発揮して、自主的に働いたりするから)
家族の暮らし方や形態は、選べる場合と、選べない場合がある。
夫や嫁ぎ先の地域や、因習、事情で、大きく変わる。
自分から飛び込んで、大自然の中、大家族で暮らしたい若いお嫁さんも、中には、いるかも知れない。
私なら、ノーサンキューだが。
※(医療体制が整っていない地域で、老人を抱えて暮らすのは、現実的には厳しい)
嫁の地位が低く、従属的立場で、家族の枠組みの中でやらされるから、
嫁に被害者意識が生まれてくるのだと思う。
仮に、介護施設で働いていると仮定しよう。
給料のため、社会参加、経済的自立のため、
そう考えると、そこまでボランティア的不公平感、嫌悪感は感じないのでは?
そうやって、家庭内で嫁としての当たり前の役割(無償労働)という捉え方をされ、
苦労をして、幾重の試練を積み、人の痛さや弱さがわかるようになっていくのだろうか。
将来、自分は仏の顔で、息子に嫁いでくる現代っ子の若い嫁に接することが、できるのだろうか。
今の家庭の状況から生活を切り替えることができないなら、
気持ちを切り替えて、あきらめるか、開き直るか、鬼の嫁に転じて身を守るか、それしかない?
被害者意識を克服して、自分が家族を独裁的に牛耳るぐらい強くなるしかない?
それより、いくら、田舎で閉鎖的で、時代遅れだからって、
このご時世、そんな「嫁の仕事」的考え方が、まかり通る?
まかり通させている嫁のほうにも、原因はあると思う。
そんな運命共同体にしか、自分が生きていく場所がないのなら、
あきらめて、その宿命なり、運命なりを嘆き、呪い、それを生きていく糧にすればいい。
そんなところでしか生活させてくれない夫を、夫として選び、結婚したのは、
他でもない自分の裁量、力量なんだから、自分で責任を取るしかない。
なぜ、そんなになるまでほっておいて、自分の運命を自分で切り開かないのか。
その方は、まだお若い。
学校だって行っただろうし、ちょっとぐらいは勉強もしただろうし、歴史だって習っただろうし、
社会に出て働いたことだってあるだろうに。
あえて、そんな、低い地位の嫁の立場を甘んじて受け入れるには、理由があるはずだ。
その人なりの計算、打算が。
外で働いても、給料など、たかが知れている。あるいは、病弱で、働けない。
または、外で働くのがキライ。職がない。
母子家庭でやっていくには苦しい。
なら、専業主婦で・・・毎日の生活費のこともそう切実に考えなくてもいいなら、
夫に養ってもらおうか。
そんな卑屈な気持ちではないなら、どうして、もっと主張しないのか。
世界の地の果ての、遅れに遅れている封建的な地域ならともかく、私には、理解できない。
いっそ、嫁が高給をバーンと稼ぎ出し、
「このお金で、おばあちゃんに美味しいものを食べさせてあげて」
「このお金で、冷暖房完備・快適な別棟を新築してさしあげて」
「このお金で、優しい親切なヘルパーさんを頼んでくださいな」
「このお金で、皆さんで温泉にでも行って休養してくださいね」
なんて、言ってみたいものだ。
究極のところは「このお金で、見晴らしのいい、超高級ケア付き老人ホームに入れてさしあげて」
「このお金さしあげますから、私は、この家を出ますっ。そしてもっといい人と、再婚しますっ!!」
どっちにしても、私には、遠い世界の絵本を読んでいるかのようなお話なので、
現実問題としてぴんと来ない。
同じようにこの世に生まれてきても、病弱な人もいるし、健康な人もいる。
過酷な環境に育った人もいれば、辛い毎日を送らざるをえない人もいる。
その逆に、自分の力ではないところものの恩恵を受けて、のほほんと楽しく暮らしている人もいる。
しかも、そういう人に限って、ちょっと文化程度の低いことに出会うと、眉をしかめたりする。
(私は、実は、この後者の高慢ちきな人種の方を最も忌み嫌い軽蔑する)
人の痛みを我がコトのように感じ、(体験がないので、それは無理だろうけれど、それなりに)
毎日を感謝して過ごすことにしよう。
どうしようもないことなら、しかたないが、自分の工夫などで、改善できることは改善していきたい。
当たり前と思っている毎日が、人によっては、当たり前でない人がいる。
苦労や努力の内容が、資格試験に挑戦とか、趣味の世界を広げる、とか、
そういうことではなく、
毎日の、暮らし、嫌なことがいっぱい詰まった暮らしを、いかに、苦痛をやわらげるか、
そういうことから逃れる努力からスタートしなければいけない人も、いるのだ。
ステップ・バイ・ステップ。
自分らしく生きるにはどうすればいいか。
自分で考えて、行動するしかない。
時には、助けを求める声をあげるのも、ひとつの方法だ。
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この方は、私がよく訪れるブログに、時々コメントを寄せておられる。
田舎で大家族で住んでおられて、お年寄りの食事の用意やら、病院への送り迎えやら
なんやらかんやら、しないといけないらしい。
幼い子供の世話もある。
特に90歳を過ぎるオバアサンを囲んでの食事タイムが、大嫌いだそうだ。
彼女がすべて用意して、上げ膳据え膳。
大変だ。
イエや夫の従属物であるかのような扱いを受ける嫁。イマドキ??
※(嫁を動かすほうの力量にもよるけれど。
上司の人事的采配がうまいと、気付かないうちに、
部下は気持ちよく、最大限の力を発揮して、自主的に働いたりするから)
家族の暮らし方や形態は、選べる場合と、選べない場合がある。
夫や嫁ぎ先の地域や、因習、事情で、大きく変わる。
自分から飛び込んで、大自然の中、大家族で暮らしたい若いお嫁さんも、中には、いるかも知れない。
私なら、ノーサンキューだが。
※(医療体制が整っていない地域で、老人を抱えて暮らすのは、現実的には厳しい)
嫁の地位が低く、従属的立場で、家族の枠組みの中でやらされるから、
嫁に被害者意識が生まれてくるのだと思う。
仮に、介護施設で働いていると仮定しよう。
給料のため、社会参加、経済的自立のため、
そう考えると、そこまでボランティア的不公平感、嫌悪感は感じないのでは?
そうやって、家庭内で嫁としての当たり前の役割(無償労働)という捉え方をされ、
苦労をして、幾重の試練を積み、人の痛さや弱さがわかるようになっていくのだろうか。
将来、自分は仏の顔で、息子に嫁いでくる現代っ子の若い嫁に接することが、できるのだろうか。
今の家庭の状況から生活を切り替えることができないなら、
気持ちを切り替えて、あきらめるか、開き直るか、鬼の嫁に転じて身を守るか、それしかない?
被害者意識を克服して、自分が家族を独裁的に牛耳るぐらい強くなるしかない?
それより、いくら、田舎で閉鎖的で、時代遅れだからって、
このご時世、そんな「嫁の仕事」的考え方が、まかり通る?
まかり通させている嫁のほうにも、原因はあると思う。
そんな運命共同体にしか、自分が生きていく場所がないのなら、
あきらめて、その宿命なり、運命なりを嘆き、呪い、それを生きていく糧にすればいい。
そんなところでしか生活させてくれない夫を、夫として選び、結婚したのは、
他でもない自分の裁量、力量なんだから、自分で責任を取るしかない。
なぜ、そんなになるまでほっておいて、自分の運命を自分で切り開かないのか。
その方は、まだお若い。
学校だって行っただろうし、ちょっとぐらいは勉強もしただろうし、歴史だって習っただろうし、
社会に出て働いたことだってあるだろうに。
あえて、そんな、低い地位の嫁の立場を甘んじて受け入れるには、理由があるはずだ。
その人なりの計算、打算が。
外で働いても、給料など、たかが知れている。あるいは、病弱で、働けない。
または、外で働くのがキライ。職がない。
母子家庭でやっていくには苦しい。
なら、専業主婦で・・・毎日の生活費のこともそう切実に考えなくてもいいなら、
夫に養ってもらおうか。
そんな卑屈な気持ちではないなら、どうして、もっと主張しないのか。
世界の地の果ての、遅れに遅れている封建的な地域ならともかく、私には、理解できない。
いっそ、嫁が高給をバーンと稼ぎ出し、
「このお金で、おばあちゃんに美味しいものを食べさせてあげて」
「このお金で、冷暖房完備・快適な別棟を新築してさしあげて」
「このお金で、優しい親切なヘルパーさんを頼んでくださいな」
「このお金で、皆さんで温泉にでも行って休養してくださいね」
なんて、言ってみたいものだ。
究極のところは「このお金で、見晴らしのいい、超高級ケア付き老人ホームに入れてさしあげて」
「このお金さしあげますから、私は、この家を出ますっ。そしてもっといい人と、再婚しますっ!!」
どっちにしても、私には、遠い世界の絵本を読んでいるかのようなお話なので、
現実問題としてぴんと来ない。
同じようにこの世に生まれてきても、病弱な人もいるし、健康な人もいる。
過酷な環境に育った人もいれば、辛い毎日を送らざるをえない人もいる。
その逆に、自分の力ではないところものの恩恵を受けて、のほほんと楽しく暮らしている人もいる。
しかも、そういう人に限って、ちょっと文化程度の低いことに出会うと、眉をしかめたりする。
(私は、実は、この後者の高慢ちきな人種の方を最も忌み嫌い軽蔑する)
人の痛みを我がコトのように感じ、(体験がないので、それは無理だろうけれど、それなりに)
毎日を感謝して過ごすことにしよう。
どうしようもないことなら、しかたないが、自分の工夫などで、改善できることは改善していきたい。
当たり前と思っている毎日が、人によっては、当たり前でない人がいる。
苦労や努力の内容が、資格試験に挑戦とか、趣味の世界を広げる、とか、
そういうことではなく、
毎日の、暮らし、嫌なことがいっぱい詰まった暮らしを、いかに、苦痛をやわらげるか、
そういうことから逃れる努力からスタートしなければいけない人も、いるのだ。
ステップ・バイ・ステップ。
自分らしく生きるにはどうすればいいか。
自分で考えて、行動するしかない。
時には、助けを求める声をあげるのも、ひとつの方法だ。
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