夢を見た。
いつもは、まあ、割合、楽しげな、あるいは、懐かしい思い出いっぱいの夢なんだが、
今回は、初めてネガティヴな内容。
不幸せになる夢だ。
わたしは、いままで不幸せだと感じたことは、ほとんどない。
無理やり探そうとすると・・・小学校5年生の時に、父が癌になり、生活が一変し、
「真っ暗な家庭って、こんな家庭かな?」と想像したことぐらい。
しかも、ひしひしと直接、身に迫って感じた、というよりは、
きっと、こういうのって、漫画とかテレビで見るような、不幸っぽいムードなんでは?と、
想像した。
おそらく、自分が置かれている状況を自分のこととして、リアルに現実として受け止めないで、
感情的にとらえず、四次元の世界から醒めた目で、自分を見ているってことだろう。
子供のくせに、かわいげない。
大人になっても、その延長線。
嬉しいときも、恥ずかしいときも、困ったときも、悲しいときも、
もう一人の自分がいて、
リアルな自分に対して、クールだったり、あざけわらってたり、バカにしたり、
実にけしからん、自分がいる。
「やったね、おめでとう!!」
そう拍手してくれる自分はあまりいなくて、「よかったね。やれやれ、これで、しばらくサボれるね」
と、もう、サボる計画をささやく。
わたしの母は、感情の起伏が激しい、天真爛漫で、脳ミソに皺(しわ)ひとつない赤ちゃんのように、自分に正直なお人、
特に、荒れ狂っているときには、火に油を注いではいけない、と、わたしはいつも感情を抑えてしまうところがあった。
相手の激情が治まるまで、じっと静かに待つしかない。
そのときの嫌な気持ちや、悲しい気持ち、泣きたいような、わめきたいような、そんな感情をこらえて、
ただひたすら、じっと、時間が過ぎるのを待っていた。
父親は、旧来の家父長制の父として君臨していたので、当然、親しみなんかあるわけもなく
一歩も二歩も退いて、ぐうんと下座から見上げていた。(尊敬はしてたけれど)
母は、若気の至りそのもので、ばか力をいたるところに発揮していたが、
余計な、間違った発揮の仕方をすることもあり、わたしは、えらく迷惑した。
夫婦関係においても、そのばか力は、惜しげもなくパワフルに、台風を起こし、周囲を巻き込んだ。
父が帰宅すると、うちに遊びに来ていた近所の子供たちは、蜘蛛の子を散らすように、一目散に退散。
その影響なのか、今も、夫が帰ってくると、
わたしは、それまでしていたことをやめて、席を立って、脱兎のごとく逃げてしまいそうになる。
自分を守る殻を厚く、頑丈に、要塞のごとく築き、敵の侵入を防いだ。
しかし、それは家の中だけのことで、一歩、外に出ると、のびのび自由な、わたしがいた。
泣いたり、わめいたりする人をみると、不思議だった。
あんな甘っちょろいことで、なんで泣いたり、怒ったりしてるんだろう?
自分の家の中の火事に比べると、外の世界は、ぬるくて気持ちよかった。
そうやっているうちに、自然に発生する感情まで、自分でコントロールする習性が身についてしまった。
ここは、笑わないと。大笑い? ぎこちない笑い? お追従笑い?
(自然に笑うことも、もちろんある)
こういうのって、怒るべきシーン。激怒? ぐっと、こらえた静かな怒り?
(たいがいは、洞穴で吠えている)
泣くときだけは、わざと泣くような器用なことはしなかった。(できなかった)
普通に、静かに、涙、はらはら。 ぽろり。ほろり。
(ただし、人前ではなく、事態を想像したりして)
自分の子供が幼い頃、おいおい泣いているのを見ると、
「子供って、こういうふうに、なんの恥じらいもなく泣くものなんだ」と、妙に感心した。
なので、リアルな自分のことより、
ずっとずっと、感情に訴える、既製品のドラマや映画に感情移入し、涙がぽろぽろ。
わたしが、精神的に異常をきたさなかったのは、おそらく、これまた母親譲りの、楽天家だったからだろう。
鋼鉄のごとき強靭な神経(→「無神経」と同義語です)、脳ミソの皺のなさも、似てしまっている。
母との違いは、母は現実の世界で、あれこれ暴れていたが、わたしは、活動舞台は、脳内。
嫌なことがあっても、空想の世界で、楽しく遊んでいる。
どちらが現実で、どちらが空想か、と境界すら見えなくなったとしたら、
これまた、精神科の門を叩かなければいけない。
でも、そんなことはなく、ちゃんと自分で自在にswitchできる術を身につけたようだ。
と、ここまでが、前置きだとしたら、どうします?
すみません、前置きなんです。
力尽きた方には、お見舞い申し上げます。
いま、幸せの基準が、問い直されているようだ。
今月2日(一昨日)に、NHKの「クローズアップ現代」でも取り上げられていた、幸せのモノサシ。
幸せは、社会の豊かさを測るGDPを基準に測られていたが、所得の向上は、必ずしも幸せを実現しないようだ。
特に、この大震災では、今までの生活や幸せ感を根底から見直すキッカケを生んだように思う。
環境問題、エネルギー問題は、テレビや新聞などで接するだけの、対岸の世界のことではなくなってきている。
欧米人や他国の人々と、日本人との幸せ感の違いも紹介されていた。
自己実現や、能力を発揮できて見合った報酬が得られる、など、具体的な幸せ感もある中で、
人とのつながりに幸せを感じるそうだ。
人に「ありがとう」と喜ばれることが、自分の喜びとして感じ取れる、そういった新たな喜びを人々は発見した。
糸井重里さんが仰っていたが、
「自分は心根が悪い」と多くの人が自己評価していたが、まんざらマイナス人間ではない、と。
わたしは、かなしいかな、自分の世界が確立されてしまっているので、
人とのお付き合いが、結構、薄い、非社交的、自己完結型。
ただ、なにか自分ではどうしようもない大きな出来事が起きた時、
社会の隣人たちと、助け合っていかなければ、生きていけないことは確かだ。
脳内で、ウルトラマンが登場してきたところで、3分で去ってしまう。
たまたま、震災が、自分の住んでいる地域ではなかったものの、
同じようなことが、いつ起こらないとも限らない。
危機管理とともに、こころの危機管理もしておかなくては、
わたしの4次元の世界は、3次元が健常であってこそ、築ける世界。
そのためには、2次元の世界もフルに活用し、あれこれ日ごろからアンテナを張り巡らせておきたいものだ。
といいつつ、またまた、ぬるくて、生温かい、マイ ワールドで、にこにこ、にんまり、
現実の世界と、共存共栄。行ったり来たり。
この幸せが、いつまでも続きますように・・・。
にこにこにこにこ、ぬるくて、楽しいのは、わたしだけかも?
ここまで延々、長々と読んでくださった方々に、うれしいような
なんだか申し訳ないような・・・そんな、スロー・チキンです。
・・・・・・
「お気軽にお越しいただけるよう、毎回、1枚の写真だけで綴っています。
記事はありません。。。。。」
と、すっきりした涼しい顔で、言ってのけてみたい。。。。です。