昨日は、母の静かな日常の1コマに、姉たちと参加した。
実家の母が、巻き寿司を作るから、食べにおいで、とお誘いがあった。
母は、83歳だが、わたしより、ずっとしっかりしている。
アタマも、足腰も、馬力も、気力も。
庭に咲いていた、菖蒲やカキツバタを活けていた。
お花は、いつも野に咲く花や、庭の花木を活けるが、
自然を取り入れたセンスは、わたしも見習いたいと思っている。
満開のお花を庭にだけ咲かせておくのは、もったいないと、いつも、マメに活けている。
お寿司は、水加減が多かったそうで、やわらかめだと嘆いていた。
ご飯をしっかり冷ましていなかったことも、よくなかったとか。
具材も炊き込みすぎて、やわらかくなったのが、ますます良くなかったと、反省点がどんどん膨らむ。
実家で食べたときは、そんなに母が嘆くほどのことはなかったが、
自宅用にと、少しもらったものを帰ってから家で食べてみると、味は、薄めだった。
これは、母が嘆いていないポイントだったが、
気になるところや、好みは、ひとそれぞれ違うものなんだなあ・・・と改めて思った。
母の巻き寿司は、いつもは、美味しいのだが、
料理というのは、その日のコンディションがあるようで、なかなか一定の味付けになるとは限らない。
写真は、実家の食堂で、「いただきます」の直前に焦って撮ったので、
アングル、その他、よくない写り具合。(いつもだけれど)
間に合わせの材料で、ちゃっちゃと用意してくれたようだ。
この食堂で食べるのは、ずいぶん、久しぶり。
ごくたまに、突発的にアポなしで、用事で来た時に、軽く、食事をふるまってもらうこともあるが
子供たちが幼児の頃、里帰りしたときは、よくここで、朝食を食べた。
母の味、全然、わたしは受け継いでいない。
食べるのみ。
不出来な娘だ。
馬力も、料理も、お花も、仕事も、掃除や、外回り一切合切の切り盛りも、
全部、わたしは母の足元にも及ばないが、
時代背景として、苦労してきた戦中派の人々には、どうしても、勝てっこない、へなちょこ世代。
傍(はた)で見て、知っているだけで、自分では、しようとしないでサボってきた。
なので、いざ、同じようにしようとしても、できない。
せめて、お手本として、アタマの片隅に入れておきたい。
気温をいつも快適にコントロールできる高気密住宅に住んでいると、
快適さゆえ、季節の移ろいを実感ににくい面もある。
そういうライフスタイルが身に付いてしまうと、腰が重くなって、
季節ごとに入れ替える建具や、四季折々の設えなど、大掛かりなことはとても出来ない。
口ばっかり達者で、なにも大したことは出来ない、わたし。
年齢を重ね、オンナ同士の闘争など卒業して、落ち着いてきたら、
しっとり、移り変わる季節を、しみじみ味わいたいものだ。