眠たい話
赤裸々に自分のことを綴りたい・・・
と思っても、本当に重大なことや、ひとに知られたくないことは、まったくと言っていいほど綴ってない。
というか、綴る気がない。
綴ったところで、自分は楽しくない。
これは、一種の欺(あざむ)き?
いえ、自己防衛です。
こころの中に、しっかりと、しまいこんで、門外不出。
仮に「大切な何か」があったとしても、世の中の誰にも、どんな身近な肉親にも、
どんなに解り合えた大親友にも(いませんが)、一生、表さない。
それは、幼い頃からの、わたしの信条。
自分と向かい合うために書くこともあるが、
実際のところ、自分にとっちゃ、半分どーでもいいことを、ちゃらちゃら書いている。
刺身では食べられない鮮度のものを、濃い調味料で味付けして、ごまかしているかんじ。
沿岸地から遠く離れた内陸地の中華料理というかんじ。 (こってりしていて、好きですが)
ぷりぷりした海鮮料理とは、ほど遠い。
血が滴り落ちる、生肉感は、ない。
シュワツと、ほとばしるフレッシュ感もない。
あるとすると、納豆みたいな、腐ってるんだけど、食べられる、発酵食品みたいなもの。
ネバネバ、とろとろ系?
ヨーグルト、チーズ、味噌、キムチ、・・・
けっこう、美味しいじゃない?
鋭い一突きをしているときも、まれにあるかも?
それは、狼が満月の日に、吠えるとき。
と思いきや、たんに腐っているだけで、おなかをこわすこともあるだろう。
それに、わたしは力もないくせに気分屋さんなので、
「書きたいこと」と、「書きたい気分」と、「書ける状況」が、重なるときに、
はじめて、自己満足できるものが書ける。(人にどう映るかは、別として)
これは、外出時の洋服選びに似ている。
その日の天候、温度、行動予定、会う人、気分、いろんな要素が重なり、服を決める。
が、最近は、同じ服ばかり着ている。
佃煮にするほど服があるというのに。
これは、老化現象の一部で、見た目より、快適性を重視しているから。
おしゃれは、見た目を優先し、どれだけ苦痛や、不快さに耐えることができるか、踏み絵みたいなもの、
そういう忍耐度チェック説があるが、わたしは、いの一番に躊躇(ためら)いなく、踏み絵を踏んでいる。
というか、他人は、わたしの服など、まったく見ていない。
わたし自体を見ていない。
本人が思っているだけ。
それを「こだわり」だと、おめでたく思っていても、実際は単なる「自意識過剰」。
これは、ファッションだけに限らないことだろう。
こんなことを書いて、こんな秘密をもらして、大丈夫なんだろうか・・・と思うブログもあるが、
彼ら、彼女らにすると、べつに、どおってことない内容なんだろう。
視点が違う? 価値観が違う? 生き方が違う? 住む世界が違う?
というか、あまり深く考えてないんだと思う。
女性として、一番大切なものを、売ったり買ったり、商品として捉える感覚は、わたしには理解できない。
(商品化は、女性だけでもないけれど、絶対数から言えば、女性が断然、多い)
この世の中、そんなことを言うのは、時代遅れなんだろうか。
アタマの古い、脳ミソが硬直した「シーラカンス」ですね、と、冷ややかな目で見られるだろうか。
(太古の昔から、人間の職業として最も古いものは、春の売買なので、今に始まったことではないが)
結婚だって、ひょっとすると、バージョンが違うだけ、包装方法が違うだけのケースもあるかも知れない。
社会制度、こころ、肉体、お金、これらがキーワード。
(年齢が上がると、肉体は、カット傾向)
それぞれが特化されると、
性の商品化は、お金と肉体。
非婚パートナー(カップル)は、こころ。
結婚は、社会制度、絆。
プライドは、ひとそれぞれ、顔が違うように、違うだろう。
世間のモノサシで測れない、独自のモノサシもあるだろう。
もって生まれた能力、性質、DNA、育成環境、背景、努力、意識、まわりの人々、
そういうことが複合的に合わさって、一人の人間が形成されている。
わたしは、究極は、出会いにあると思っている。
価値観を構成するものの土台は、人や、体験との出会い。
親や家庭は、まず、その第一歩。ただ、これは、自分では選べない。
出会いというには、選択肢がなさすぎる。
が、避けることができない強力なもの。
親の教育方針によって歩む道が方向づけられる。
学校は、人生のコースを歩き始める、最初の第一歩。
人格形成の発達段階で出会う学友たちの影響は、とてつもなく大きい。
また居住地近隣で出会う人々にも影響を受ける。
さらに成長するに従い、
実際に会ったことがない人や、経験したことがないことでも、書物や、映像などで知ることができる。
映像は、直接的で訴えやすく便利だが、( YouTubeは、国をも滅ぼす)
知の部分で脳を活性化させるには、文字、言葉は重要な役割を果たすと思う。
影響力は無限大。
衝撃を受けたり、感動したりするのは、実体験や、未知への旅、映像、動画のインパクトに勝るものはないが、
深く思考したり、ものごとを探ったり、追究したり、想像したり、
細かく説明したり、微に入り細に入り補足して伝えたりするのは、言葉や文字の力は大きい。
影響を受ける人と出会うことが、人生を左右するポイントかも知れない。
すばらしい人に出会っても、自分とのギャップが大きすぎれば、素通りし、まったく興味を覚えないだろう。
人間は楽な方向に、流れる。
類は友を呼ぶ。
複数の自分と同じような人と接していると安心できる。
居場所を見つける。
傷口をなめ合い、上昇しようとする人を引きずり下ろすグループもあるだろうし、
励まし合い、上昇し合う、高め合うグループもあるだろう。
その人の性質や情況によるだろう。
わたしは、憧れたり、理想とする人がいると、そのレベルに近づくのは無理としても、
少しでも、ほんの一部でも自分に取り入れたいと願う。
逆の場合もあり、良くないと感じることは、自分も、気づかず、やっているかも知れないと思うので、
極力、気をつけようとする。
アタマではわかっていても、まったく価値観が異なる場合がある。
まるで理解できない人々もいる。
違うことばかりではなくて、なかには、人間として、共通する価値観や感性、感覚もあるはずなんだが、
それが見出せない。
そういう場合は、どうすればいい?
理解できないのは、お互いに、だろうけれど。
こんなにいい歳をしていて、まだ、こんなことを言っている、わたし。
だから、まだ、いろんなことを学び、吸収する余地は、大。
良く言えば、「柔軟性がある」、悪く言えば、「未熟」、ニュートラルに言えば、「未完」。
悟りの境地に達すれば、理解できるのだろうか。
達観する頃には、あの世で微笑んでいることだろう。
あの世でも、まだ、理解に苦しんでいるかも知れない。
それより、わたしの回りのひとたちは、わたしのことが理解できないかも知れない。
いいえ、それほど関心を示されていない。それが、正解だろう。(ファッションと同じ)
理解したければ、そして、理解してほしければ、お互いに努力が必要であることは、間違いない。
ここまで、お読みになられた方、おられますか?
あらら、おられない・・・あ、そこに、おひとり?
ありがとうございました。ほんとうに、お疲れ様でした。