昨日は、ひとつ落ち込むことがあったが、
気を取り直して、本屋に行って本を買い、いつも行く店で洋服を買ったら、
ブルーな気分が、すーっと消えていた。
その勢いで、帰りに、デパ地下で、タイムセールの米八のおこわ弁当とフォションのパンを買い、
家でビールを飲んだら、気分はもう、もとに戻っていた。
それから主婦コース、夕食の支度をしたが、通常の生活になっていた。
で、落ち込みが消えたにもかかわらず、
落ち込んだ原因である悩みを、例の小さなSNSの日記に書いてアップした。
あららら・・・不思議、不思議・・・
コメントがたくさん寄せられ、しかも、アップと同時に、アクセス数が跳ね上がっていた。
この蝶ブログと、たいして変わらない数だった。
(が、そっちに気をとられ、昨日が締め切り日のポイント交換を申し込み忘れ、ポイント切れとなり、ショック)
しかも、コメント内容ひとつひとつが、わたしの悩みの解決の糸口となるような、
各人、ご自分の経験をもとに、誠意あるアドバイスをお寄せいただいた。
わたしにとってはコメント数が多すぎて、まだお返事はしていないのだが。
人によっては、いくつもいくつも、たくさんコメントが寄せられていても、
ひとりひとりに、ざざざっとお返事コメントを書いておられるのを見かける。
時間も相当かかるだろうし、
わたしの場合、そんな形式だけの、やっつけ仕事的なコメント返しは、自分の志向にあわない。
なかには、コメント欄にはコメントしにくいということで、メッセージを送ってくる方もいた。
一気には無理だが、少しずつ、返していこうと思う。
悩みというものは、まじめに真剣に取り組んでいると、
読んでくださった方も、まじめにアドバイスしてくださるものだと感じた。
おなじ思考空間にいる人々とは、こころの交流というものができる。
次元が同じ、目線が同じだと感じる。
まして、共通の趣味の世界の話だと、目の色が変わる。
逆に、まったく別次元、別世界に住んでいる人同士は、接点がない。
お互い、まるで、こころのひっかかるところがない。
それはそれで、棲み分けが出来て、衝突やトラブルを回避できる。
わたしのよく知っているAちゃんと、Bちゃんは、同性(女子)、1歳違い。
同じ時期に結婚し、同じ年の子供がいる。
まったく接点はなく、お互い、接点がないことを認め合っている。
それはそれで、キモチよく、接点がない者同士で、話したりしている。
傍らで見ていると、おもしろい。
子供の学年もいっしょだから、今後、なにかと、比較したり、されたりするのだろうけれど。
生きる道、スタンスが違えば、べつに、人は人の道。
お互いの道は、お互いが選択して歩んでいるのだから。
羨ましいとか、どっちが上だとか、下だとか、そういうことはない・・・はず。
自分の道を築いてきたのは、自分なんだから。
理想や目標に向かって、歩いてきたはずだから。
途中で挫折したとしても、それは、自分が挫折したのだから、自己責任だ。
だれのせいでもない。
それを、人のせいにするなんて、もってのほかだ。
ああ、ワタシのアタマが悪いのは、・・・ワタシがぶさいくなのは、・・・親のDNAのせいだ・・・
(同じ親から生まれた、きょうだいでも、イイのも良くないのもいるが)
ワタシが、○○なのは、○○のせいだ。ワタシには、まったくなんの責任も非もない・・・
わたしは、そうは思わない。
○○なのは、自分のせいでもある。
(ただし、災害や事故、病気など、どうしようもない特例は省いて)
この考え方は、うまくいかなかった時や失敗した時は、
自分を責めすぎて、鬱(ウツ)になる可能性もあるので、要注意。
さらに、人が、自分より秀でている、素晴らしいのは、自分が劣っているからだ、
などと、当たり前のような、わけがわかりきっているけれど、わけがわからない、
マイナス志向に囚われると、ろくなことがない。
人を責めたり、自分を責めたりせずに、
人や世の中を否定せずに、
あきらめずに、努力をする、向上心を持つことが大事だと言いたい。
まわりを否定したからといって、自分まで否定せず、
自分を肯定すること、自分を信じることから、よい実は生まれると思う。
なので、ひねくれている人は、まず、そのヒネ曲がったところを真っ直ぐに戻すところから始めて、
そのあとは、大地に足をしっかり付けて、ぐらぐらしないよう、
自分のポジションを把握しつつ、それなりに前向きに生きて生きたいものだ。
これ、ヒネクレ者のわたしのこと、自分に言い聞かせている。