自分のブログについて。
じつに中途半端である。
これは、前々から思っているのだが、
新しいブログを作るために、製本するなりなんなり、このブログを保存する作業が面倒なのだ。
なぜ、中途半端なのかは、・・・何人ものリアル人がこのブログを知っているから。
本音やら建前やら、事実やら虚飾やら入り乱れることになる。
そのまんま事実どおりに実物大には書けませんね。
それが、わたしには、歯がゆいというか、小さな息苦しさを感じる。
しかし、リアル人が知っているのを知っていて、よくここまで、書けるね、という見方もできる。
このブログを読んでいるリアル人は、わたしの味方だと思っているんで、まあいいのだ。
わたしに興味があるから読んでくれている、と、とらえている。
そして、それらのリアル人のことをわたしは、信頼しているので安心している。
(これ、あきらかに、そのリアル人たちに向けたメッセージになっています・・・)
誇張表現や演出、希望的観測、思い込みが散らばめてあるので、
あんまりまともに隅から隅まで、信じ込まないほうがいいかとは思うが。
(リアル人たちを意識したために、こうなったわけではないようだ・・・)
これは、蝶ブログを通してだけのわたし、
リアルなわたしを知らない方々に対しても言えることだが。
事実を事実そのままに書いて、なにか、おもしろいことがある?
小学生の作文ではないか。
いまどきの小学生は、話し言葉が文語になっていて、驚かされるが。
わたしは、一人遊びが好きなのだ。
大勢で、もしくはグループで遊ぶ、そういうことは、苦手なのだ。
大勢で行動する場合は、遊びではなく、義務や行事、イベントだったりする。
イベントも悪くないが、一人行動も好きなのだ。
なぜだかよくわからないが、自分のことを知ってほしくないからだろう。
というか、むしろ、そういうのは、うるさい、と感じる。
干渉されたくない。
ほっておいてほしい。
誰にも知られずに、のびのび、ドジを踏んだり、無駄なことをしたり、・・・ひとりで完結したい。
報告は、後から、自分の血となり肉となってから、あるいは、毒は対外に放出されてから。
でも、自分を知ってほしい。
だから、こういうブログのように、一方通行のものが好きなんだろう。
歪(いびつ)かも知れない。
人間は、矛盾を抱える生き物ですので。
ストレートタイプの人がいる。
まっすぐ、まん前を向いて、生きている人だ。
わたしは、すこし違う。
こころは、素直でまっすぐなんだけれど
(一人遊びが好きな段階で、すでに、違うのかも知れないが)
どこかが違うように思う。
(何度も言うようだが、わたしは根は、明るいタイプです)
そして、根は、ガンコである。
自分が納得しないと、テコでも動かない。
直進→衝突→停止→方向転換→直進→衝突→停止→方向転換→・・・これの繰り返し
なので、効率の悪い、要領の悪い行動をすることになる。
一般的には、こういう一連のことを「試行錯誤」という。
あ・・・それと・・・
自分より悲惨な目に遭っている人が、逆境を跳ね除け、頑張っていると、人は感銘を受ける。
恵まれた環境の人が、好き勝手し放題していても、なんの面白いことがあろうか。
同じ趣味の人同士ならともかく。
面白くない生活の人が、面白くなさを発散させる、その発散方法が、
スポーツやら趣味やらに「昇華」されるものならよいが、
マイナスの方向に向いて、人を攻撃したり、陰湿なことをしたりすると、よろしくない。
自分に向けすぎると、こころの病を患いかねない。
そんなことは、言うまでもなく、書くまでもないことだ。
が、現実としては、解決されないまま、毎日が過ぎていっていることだろう。
こころの支えは、家族。
そして、知らず知らずのうちに無意識に、宗教心に近いものがあるのかも知れない。
結婚する年齢を過ぎても、家族は家族。
結婚して、遠方に離れて住むと、少し、気持ちも離れ、
新しい家族に、バトンタッチ、切り離されたような気になるが、その後の経緯でまた変わる。
結婚していなくても、連絡もほとんどなく、遠方に住んでいると、日常では存在を忘れている。
やりとりがあると、気持ちがまた行き来する。
でも、やりとりがなくても、いつもこころの中にある。
それが、家族の絆。
自分の親、兄弟も、そう。
やりとり、行き来があるか、ないか、これはけっこう大きな要素になると思う。
家を出たまんま、音信不通、あるいは、喧嘩したまんま、そういう家族もいるだろう。
あるいは、日常にはお付き合いはあるが、うまくいっていない家族もあるだろう。
長いスパンで、家族の歴史に触れる機会、それが、お盆というものだ、と、つくづく感じた。