会話が、できないということ。
これは、とてもキツイ。
自分の「人生の質」の現状が、「会話」のやりとり状況で、表されている。
通常の日常会話、これは、まあいい。
次。
ちょっと、アタマの回転が遅い対応の場合の会話(わたしです)。
これは、間が空き、テンポが狂い、相手によっては、理解させることをあきらめ、次の話題に移る。
(これ、娘たちによく、やられます。
実母も、われわれに、やられます。)
その次。
老化で耳が悪くなって、聞こえないケース。
こちらの言っていることが、わかってないとわかると、会話の理解、反応をあきらめて適当に流して、精度を下げる。
老化現象のひとつと思って対処していたが、ほんとうは、「聞こえない」のではなく、
「自分の関心のあることしか、聞こえない」のだということが、最近、わかった。
さらに、その次。(上記とリンクするが)
人の話を聞いていない人との会話。
いくら熱心にこっちが話しても、相手は聞いていないので、がっくり。
今まで、微に入り、細に入り、わかりやすく実例や説明を加えて熱心に熱弁を繰り広げていたのに。
で、まともに話す気をなくす。
さらっと、相手の話したいことだけを聞く。
こっちは、さーっと熱が引いて、接待的な会話となる。
(これ、やっている場合も、やられている場合も、両方ある・・・はず)
で、そのまた次。
母国語の違う人同士との会話。
複数の人がいる場合、語学ができない、言葉がわからない人は、微笑むだけ。
まわりも、その微笑みが、理解や賛同の表現ではなく、
「わかってない」「理解できてない」ということを見抜いていて、
でも、あえて、会話の進行の邪魔になったり、場の雰囲気を壊したりしないよう、ちょっと距離を置く。
「わからない」にも、ヒアリング能力はあるが、スピーキングができない、
あるいは、引っ込み思案で、しゃしゃり出たり、自分の意見を言うのが不得意な場合もあるが、
「わかってない」、「意見がない」とみなされる。
あまりわかってないが、積極的スピーキングで、理解度を勘違いされる、ハッタリの利くケースもある、
が、難しい話になると、即、ばれる。
わたしのように、まったくわからない、という人も、まじっている。
必要最低限のことだけを必死で聞き出し、こちらからも伝える。
これは、「聞く」「話す」という会話レベルではなく、「コミュニケートする」に近い。
乳幼児と大人の会話は、その点、無邪気でいい。
言葉が話せなくても、会話になる。
まさに、ストレートなコミュニケーションだ。