蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

核家族の行方

2013-08-29 | 

昨日は、総務課のお仕事を済ませた。
総務課につき、濃い親戚ではないので、ほんのちよこっとのお仕事。
が、行き帰りに要する時間は、たっぷり。
総務課なんて、そんなものだ。

でも、知った顔に会い、いろんな話を聞かせてもらい、あることを感じた。
わたしの直属の上司である総務課長、いや、総務部長がわたしに職務命令を出すのだが、
このお仕事内容、解せないなあ・・・と、思っていたが、イヤなことばかりではない。
葬儀は、人間の生死の区切りのセレモニーだ。
ドラマが、必ずある。

親戚と顔を合わせ、人の生死は、大きな流れの中の一部分、一区間だと感じた。
家に帰ってきて、前にわたしが義母から聞き書きした「親戚関連図」をじーーっと見て研究。
ふむふむ、あの人は、こーで、この人は、あーで。あーなって、こーなって、そーなって。
その親が、こーで、兄弟があーで、あそこに嫁に行って、あっちから婿に来て・・・。
こんなに、ひとつの限定された関わりがあり、めんめんと続いているのであれば・・・。
親戚って、結束が固くなってもわかるような気がするなあ・・・と、つくづく思った。

誰一人として道を踏み外すことなく。
特別、華々しい花火はいらない。
(花火は、冠婚葬祭だけ。今では、そのうちの、2~3つぐらい)
案外、目立たない地味なことだけれど、普通に生活し続けることって、カンタンなようで、カンタンでない。
意味がないなようで、意味がある。

で、それで、なにかイイことがあるかは、別として。
単なる「『絆』の確認作業」のような気にもなったが。
その絆も、お年寄りたちが強く思っているかも知れないが、
わたしのような中途半端な中堅・総務部員では、まだまだゆらゆら、固まりきっていない。
ましてや、若い世代になると、どうだろう?
ゆらゆらのまま、ゆらゆらを伝えて、次世代には、また次世代的発想で、やってもらうのだろうか。

しかし、地元、地域から一歩も出たことのない人々は、親や、じいさま、ばあさま、親戚から言われ続けたりして、
若くても、魂のどこかに、ででんと「なにか」が、位置し育っているように思う。
地域から出ていても、遠隔操作されているかのごとく、「なにか」は作用しているように思う。
それを取り入れ続けるのか、断ち切るのか、適当に間引きながら、とりあえず続けるのか、
おのおの家の考え方だろう。

べつに、選挙に出るわけじゃなし、仮に選挙に出たとしても、たいしたバックアップ力もないし、
組織票や地元票も、たいしてつながるわけじゃなし。
そんな、目に見える、はっきりわかるご利益(ごりやく)的なものではなく、
こころのつながりなのだろう。
時代の波で、切り離された「核家族」とは、逆方向のものだろうか。

親戚づきあいが遠のく家族は、ますます核家族化し、家族の中でも分裂、個体化して散ってゆく。
(あるいは、個人主義の徹底、浸透)
従来の親戚づきあいは、お年寄りが亡くなっていき、形式を重んじた慣習は減り、
新しいゆるやかな血縁や親戚との絆が生まれることだろう。

いずれにしても、日ごろは別生活、「葬」でだけ、結束集会。

※補足説明をすると、
冠婚葬祭のうち、「冠」は、とっくになくなり、
「婚」も最近は仲人さんも立てない、遠い親戚はあまり呼ばない、個人の「活動」を軸にしたものを多く見る。
「祭」は、ちょっと衰退??(よく知らない)
「葬」だけは、根強く残ってはいるものの、家族葬など、個人の価値観により、かたちは柔軟になっている。


総務のお仕事、仕事内容を再チェックし、見直しを図り、
時代の流れに応じて対応していきたいものである。
総務部がある経営母体、会社そのものの事業内容も、見直しが必要かも。

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