わたしは、ひじょ~に、生臭い人間なので、おカネの話が大好きだ。
なんでもかんでも、価値を金銭に換算してしまう。
試算、シュミレーション、おおまかな概算、見積もりを脳内で出してしまう。
これこれするには、いくらかかる。
こういう行動なら、いくら。
ああいう状況なら、いくら。
これには、実費も人件費も、プランニング・企画料も含まれている。
サービス価格にしてみたり、お試し価格にしてみたり、
ぼったくり価格にしてみたり。
時には、目玉で、「無料」ということもある。
奉仕の場合も、泣く泣くの場合もある。
この試算は、払う側にもなるし、いただく側にもなる。
・・・
わたしは、骨の髄までケチ根性が蔓延っていて、できれば、省エネしたいわ~などと思ってしまい、
しなくてもいい苦労や、非能率的なことをしてしまう。
おカネで換算すると、労働しているにもかかわらず、マイナスの時もある。
金儲けをしようとして、かえって目の前が見えず、労多くて、無駄が多い。
小心なケチ者にありがちな、陥りやすい、ドつぼである。
「墓穴を掘る」にも似ているが、少し違う。
目先のことに、とらわれ惑わされる、しょせん、器の小さい人間である。
・・・
ドケチのくせに、おカネで買えないことに、やたら価値を見出す。
これは、性質(たち)が悪い。
習い事の免許皆伝やら、そういうものは、鼻で笑う傾向にある。
真剣にやっておられる方に怒られそうだが、
おカネの力がモノ申していることが、ありあり、はっきりわかったりすると、
まるで魅力を感じない。
「下駄を履かせる」というコトバがある。
かさ上げする、とでもいうのか、実力ではない借り物の力で底上げするとでもいうのか。
おカネやコネなどで優遇して、下積み部分をスキップさせて、一歩先を歩かせる。
お高い塾の教育費や、高名な医師にかかるための「袖の下」など、そのうちのひとつ。
しかし、あくまでの「底上げ」であって、最後は、本人の力。
いくらおカネを積んでもダメなものは、ダメ。
最終の頑張りは、本人がしないと、ダメ。
その力がない人は、しょせん、おカネの力でどうにかなるレベルまでしか到達できない。
おカネで情報や知恵を買ったり、時間を買ったり、労力を買ったり、
効率よくショートカットするためにおカネを生かす。
それは、悪くない。
わたしの使い方は、おそらく、その逆だと思う。
人、時間、おカネの使い方の効率が、とても悪い。
ドケチのくせに、へんにこだわりがあるから、
ショートカットとは真逆の方向に逆噴射しているのではないだろうか。
・・・
おカネのレベルで手に入れていることを自慢したりしている人を見ると、恥ずかしくなる。
おカネのあとの、ほんとうの真価が問われる部分にたどり着いていないことが、わかっていない。
・・・
「私は、○○を持っている」
「私は、○○が出来る」
「私は、○○と知り合いだ」
「私は、○○出身だ」
こういうことは、その人の歩んだ人生に大きく関わっている。
「私は、○○が好きだ。嫌いだ」
これは、どうでもいい。ひとそれぞれの好みだ。
「私は、○○をしている」
これ、範囲が大きすぎて、まとめられない。判断できない。
非合法の悪いことかも知れないし、慈善、善意のことかも知れない。
義務でやっていること、自発的にやっていること、
嫌だけれどやっていること、楽しくてやっていること、
劣等感をもっていること、誇りに思っていること、
いろいろだ。
おカネでどうこうできるレベルに達していないことも、いっぱいある。
いくらおカネをつぎ込んでも、どうしようもないこともある。
救いきれない、悲惨な悲劇が、世の中には存在する。
解決できない、社会の問題点、病理がある。
おカネでは、価値観が計れないこともある。
そういう時に、脳内の、自動見積もり器は、ストップする。
プラス方面のことも、マイナス方面のことも。
ストップした見積もり器の代わりに、
何が作動するか?
何を作動させるか?
・・・
おカネは、ひとつの基準であって、絶対ではない。
こころ、人、そういうものが必要だ。
ある程度、おカネで買えるかも知れないが、すべてではない。
・・・
今日は、アタマが、冴えない。
(いつもだけど)
脳内見積もり器、動かさなければいけないこと(めんどくさい実社会での用事、義務)が、
目の前にあり、ぐずぐずしている。
で、ここで、終了します。
なんでもかんでも、価値を金銭に換算してしまう。
試算、シュミレーション、おおまかな概算、見積もりを脳内で出してしまう。
これこれするには、いくらかかる。
こういう行動なら、いくら。
ああいう状況なら、いくら。
これには、実費も人件費も、プランニング・企画料も含まれている。
サービス価格にしてみたり、お試し価格にしてみたり、
ぼったくり価格にしてみたり。
時には、目玉で、「無料」ということもある。
奉仕の場合も、泣く泣くの場合もある。
この試算は、払う側にもなるし、いただく側にもなる。
・・・
わたしは、骨の髄までケチ根性が蔓延っていて、できれば、省エネしたいわ~などと思ってしまい、
しなくてもいい苦労や、非能率的なことをしてしまう。
おカネで換算すると、労働しているにもかかわらず、マイナスの時もある。
金儲けをしようとして、かえって目の前が見えず、労多くて、無駄が多い。
小心なケチ者にありがちな、陥りやすい、ドつぼである。
「墓穴を掘る」にも似ているが、少し違う。
目先のことに、とらわれ惑わされる、しょせん、器の小さい人間である。
・・・
ドケチのくせに、おカネで買えないことに、やたら価値を見出す。
これは、性質(たち)が悪い。
習い事の免許皆伝やら、そういうものは、鼻で笑う傾向にある。
真剣にやっておられる方に怒られそうだが、
おカネの力がモノ申していることが、ありあり、はっきりわかったりすると、
まるで魅力を感じない。
「下駄を履かせる」というコトバがある。
かさ上げする、とでもいうのか、実力ではない借り物の力で底上げするとでもいうのか。
おカネやコネなどで優遇して、下積み部分をスキップさせて、一歩先を歩かせる。
お高い塾の教育費や、高名な医師にかかるための「袖の下」など、そのうちのひとつ。
しかし、あくまでの「底上げ」であって、最後は、本人の力。
いくらおカネを積んでもダメなものは、ダメ。
最終の頑張りは、本人がしないと、ダメ。
その力がない人は、しょせん、おカネの力でどうにかなるレベルまでしか到達できない。
おカネで情報や知恵を買ったり、時間を買ったり、労力を買ったり、
効率よくショートカットするためにおカネを生かす。
それは、悪くない。
わたしの使い方は、おそらく、その逆だと思う。
人、時間、おカネの使い方の効率が、とても悪い。
ドケチのくせに、へんにこだわりがあるから、
ショートカットとは真逆の方向に逆噴射しているのではないだろうか。
・・・
おカネのレベルで手に入れていることを自慢したりしている人を見ると、恥ずかしくなる。
おカネのあとの、ほんとうの真価が問われる部分にたどり着いていないことが、わかっていない。
・・・
「私は、○○を持っている」
「私は、○○が出来る」
「私は、○○と知り合いだ」
「私は、○○出身だ」
こういうことは、その人の歩んだ人生に大きく関わっている。
「私は、○○が好きだ。嫌いだ」
これは、どうでもいい。ひとそれぞれの好みだ。
「私は、○○をしている」
これ、範囲が大きすぎて、まとめられない。判断できない。
非合法の悪いことかも知れないし、慈善、善意のことかも知れない。
義務でやっていること、自発的にやっていること、
嫌だけれどやっていること、楽しくてやっていること、
劣等感をもっていること、誇りに思っていること、
いろいろだ。
おカネでどうこうできるレベルに達していないことも、いっぱいある。
いくらおカネをつぎ込んでも、どうしようもないこともある。
救いきれない、悲惨な悲劇が、世の中には存在する。
解決できない、社会の問題点、病理がある。
おカネでは、価値観が計れないこともある。
そういう時に、脳内の、自動見積もり器は、ストップする。
プラス方面のことも、マイナス方面のことも。
ストップした見積もり器の代わりに、
何が作動するか?
何を作動させるか?
・・・
おカネは、ひとつの基準であって、絶対ではない。
こころ、人、そういうものが必要だ。
ある程度、おカネで買えるかも知れないが、すべてではない。
・・・
今日は、アタマが、冴えない。
(いつもだけど)
脳内見積もり器、動かさなければいけないこと(めんどくさい実社会での用事、義務)が、
目の前にあり、ぐずぐずしている。
で、ここで、終了します。