なぜか、わたしが毎日見に行く、一方的隠れファンである、とあるブログ。
まったく、なんの関わりも接点も共通点もないのだが、
描写力の素晴らしさ、キリリとした目線の鋭さが、ある種の気持ちよさを感じさせてくれる。
冷静な目で人間ウォッチングをしているところは非常に興味深いのだが、
目線の先の現象に対して、本人がそれをどう感じるか、ということが、違う。
世代間ギャップも大きい。
(なんせ、世代もまったく違うもので)
それがまた、面白かったりする。
・・・
「他人の小さな子供に、まとわりつく60代おじん」
これって、ちょっと衝撃を受けた。
なにがかというと、ものの見方、方面、角度が違うと、こうも違うものかと。
このおじん、離婚歴ありで、子供がいるが、家族とは没交渉。
孫がいるとすると、同じような年頃。
そういう子供たちと遊んだり、話したりしたがる、一人暮らしの団塊世代・男性。
同じ集合住宅に住んでいて、毎日、まとわりつかれてうんざり、と若いママたちに苦情をもたらされている。
よほど、気持ち悪い変質者的であるか、異常なほどのねっとり偏愛者っぽいとか、
子供をべろべろなめまわすとか、汚い手で、さわりまくるとか、
そんなことなら、警戒もするだろうし、気持ち悪がられて当然だが。
そんな風でもない。
毎日、ぺったり子供たちと接したくて、周辺をうろうろしている、とのこと。
実際にその場にいて見ていないので、なんとも言えないが、
定年を過ぎた独居やもめ男性が、自宅に閉じこもるのもヘキヘキし、外に飛び出す。
自分の孫と同世代の、かわいい年頃の子供たちと接したい。
それだけの思いだとすると、なんて、かわいそうなことだろう。
趣味でもあれば、毎日、趣味を楽しむのもひとつの方法。
(大してお金のかからない方法で、趣味を見つけることもできる。
趣味を通しての人付き合いも生まれる)
だが、その男性は、おそらく、趣味や、家族はもちろんのこと、友人たちとの交流がないのだろう。
で、自宅近隣の子供たちと遊ぶことが、楽しみ、あるいは、暇つぶし。
1日のルーティンワーク。
しかし、ママたちには、そんな嫌な目で見られているとは、およそ思っていないと推測する。
会話するにも至近距離すぎて、口が臭くて、唾が飛ぶのがゾッとする、とのこと。
これ、ひょっとしてわたしも、人にそんな思いをされているとも限らない。
フランス語のテキストを机に広げて、ラジオの流れにそって、テキスト真上から10~15センチぐらいのところで発音していると、
テキストに、小さな小さな水滴(霧に近い?)のようなものが、ぴっぴっと付くことがある。
(すぐ、乾いて見えなくなるが)
これって、いわゆる唾(ツバ)?
多かれ少なかれ、人は発音すると、ツバが飛ぶ。
これを不快と感じるか、ツバの存在自体に気が付かないか、相手との距離に関係する。
その人物とのお付き合いの距離、こころの距離。
自分の生活空間を圧迫する人に対しては、不快感を募らせていくのだろう。
目に見えない、感じることのできない、小さな小さな霧状のものでも、
大きな大粒の、思わず避けたくなるほどの、汚いツバのカタマリに感じるのだろう。
人のいい、さびしい熟年おじさんが、こうも嫌われる図は、憐れでしかたがない。
・・・
昨日のわたしの記事、ひとり残った老人の話。
彼の捉え方も、見方によっては、まったく違う。
一人気楽に、文句ばかりのうるさい女房もいなくて、好きにできる。
なんだって、しようと思えばできる。
一人暮らしの気楽さ。(ただし、病身でなければ)
場合によっては、今から結婚だってできる。
なにも子供を残さなくても、家族や子供にかける、その分のエネルギー、時間、お金を、自分の好きに使うことができる。
自由に好きなことに、使うことができる。
かなりのことが、できるだろう。
(家族や子供への労力、出費は、それぐらい大変なウエイトを占める)
なので、そんな悲惨な話ではないのだが。
過去から現在、未来への橋渡し、継承という軸を基準に、ある側面から見た場合の、わたしの感想である。
あんなに大勢だった家族が、一人減り、二人減り、最後には誰もいなくなることへの、
寂しさを感じただけであり、
本人は、ぜんぜんそんなこと、お構いなしかも知れない。
それはそれで、いい。
・・・
自分では楽しい人生を送っていても、人から見れば、嫌われたり、気の毒がられたり、
そういうことは、摩訶不思議な現象である。
ママ・ブログに書かれていた、(おじん、改め)まとわりつきおじさんに関しては、
ママたちに嫌われていることに対して、わたしは、同情の念を抱いている。
(が、おじさんと生活空間を共にしているママたちと、立場が違うので、なんとも言えない)
おじさんは、自分では、嫌われているなんて、思いもしていないだろうだけに、
なんだか、しんみりものである。
生活空間を共にする場合、かなり気を使わなくてはならないということか。
・・・
毎日、どういう気持ちで生活を送っているか、ということが大きいと思う。
ピアノの音がうるさい、ぎんぎんがんがん、アタマに響く。
どんどん、ばんばん、床の振動がこたえる。
子育てや仕事で、へとへとになっていると、ちょっとしたことも、気に障るのかも知れない。
椅子を引くキーキー音が神経にさわる、など、建物の構造上の問題もあるだろう。
そして、住環境は、とても大事。
でも、各自、いろんな事情があり、理想と現実は一致しないことが多い。
・・・
と、なにをまとめれば?
とどのつまりは、個人の性格や、受け止め方の違い。
価値観の違い。
現在、置かれている状況の影響が大きい。
いろいろあるものだ。
まったく、なんの関わりも接点も共通点もないのだが、
描写力の素晴らしさ、キリリとした目線の鋭さが、ある種の気持ちよさを感じさせてくれる。
冷静な目で人間ウォッチングをしているところは非常に興味深いのだが、
目線の先の現象に対して、本人がそれをどう感じるか、ということが、違う。
世代間ギャップも大きい。
(なんせ、世代もまったく違うもので)
それがまた、面白かったりする。
・・・
「他人の小さな子供に、まとわりつく60代おじん」
これって、ちょっと衝撃を受けた。
なにがかというと、ものの見方、方面、角度が違うと、こうも違うものかと。
このおじん、離婚歴ありで、子供がいるが、家族とは没交渉。
孫がいるとすると、同じような年頃。
そういう子供たちと遊んだり、話したりしたがる、一人暮らしの団塊世代・男性。
同じ集合住宅に住んでいて、毎日、まとわりつかれてうんざり、と若いママたちに苦情をもたらされている。
よほど、気持ち悪い変質者的であるか、異常なほどのねっとり偏愛者っぽいとか、
子供をべろべろなめまわすとか、汚い手で、さわりまくるとか、
そんなことなら、警戒もするだろうし、気持ち悪がられて当然だが。
そんな風でもない。
毎日、ぺったり子供たちと接したくて、周辺をうろうろしている、とのこと。
実際にその場にいて見ていないので、なんとも言えないが、
定年を過ぎた独居やもめ男性が、自宅に閉じこもるのもヘキヘキし、外に飛び出す。
自分の孫と同世代の、かわいい年頃の子供たちと接したい。
それだけの思いだとすると、なんて、かわいそうなことだろう。
趣味でもあれば、毎日、趣味を楽しむのもひとつの方法。
(大してお金のかからない方法で、趣味を見つけることもできる。
趣味を通しての人付き合いも生まれる)
だが、その男性は、おそらく、趣味や、家族はもちろんのこと、友人たちとの交流がないのだろう。
で、自宅近隣の子供たちと遊ぶことが、楽しみ、あるいは、暇つぶし。
1日のルーティンワーク。
しかし、ママたちには、そんな嫌な目で見られているとは、およそ思っていないと推測する。
会話するにも至近距離すぎて、口が臭くて、唾が飛ぶのがゾッとする、とのこと。
これ、ひょっとしてわたしも、人にそんな思いをされているとも限らない。
フランス語のテキストを机に広げて、ラジオの流れにそって、テキスト真上から10~15センチぐらいのところで発音していると、
テキストに、小さな小さな水滴(霧に近い?)のようなものが、ぴっぴっと付くことがある。
(すぐ、乾いて見えなくなるが)
これって、いわゆる唾(ツバ)?
多かれ少なかれ、人は発音すると、ツバが飛ぶ。
これを不快と感じるか、ツバの存在自体に気が付かないか、相手との距離に関係する。
その人物とのお付き合いの距離、こころの距離。
自分の生活空間を圧迫する人に対しては、不快感を募らせていくのだろう。
目に見えない、感じることのできない、小さな小さな霧状のものでも、
大きな大粒の、思わず避けたくなるほどの、汚いツバのカタマリに感じるのだろう。
人のいい、さびしい熟年おじさんが、こうも嫌われる図は、憐れでしかたがない。
・・・
昨日のわたしの記事、ひとり残った老人の話。
彼の捉え方も、見方によっては、まったく違う。
一人気楽に、文句ばかりのうるさい女房もいなくて、好きにできる。
なんだって、しようと思えばできる。
一人暮らしの気楽さ。(ただし、病身でなければ)
場合によっては、今から結婚だってできる。
なにも子供を残さなくても、家族や子供にかける、その分のエネルギー、時間、お金を、自分の好きに使うことができる。
自由に好きなことに、使うことができる。
かなりのことが、できるだろう。
(家族や子供への労力、出費は、それぐらい大変なウエイトを占める)
なので、そんな悲惨な話ではないのだが。
過去から現在、未来への橋渡し、継承という軸を基準に、ある側面から見た場合の、わたしの感想である。
あんなに大勢だった家族が、一人減り、二人減り、最後には誰もいなくなることへの、
寂しさを感じただけであり、
本人は、ぜんぜんそんなこと、お構いなしかも知れない。
それはそれで、いい。
・・・
自分では楽しい人生を送っていても、人から見れば、嫌われたり、気の毒がられたり、
そういうことは、摩訶不思議な現象である。
ママ・ブログに書かれていた、(おじん、改め)まとわりつきおじさんに関しては、
ママたちに嫌われていることに対して、わたしは、同情の念を抱いている。
(が、おじさんと生活空間を共にしているママたちと、立場が違うので、なんとも言えない)
おじさんは、自分では、嫌われているなんて、思いもしていないだろうだけに、
なんだか、しんみりものである。
生活空間を共にする場合、かなり気を使わなくてはならないということか。
・・・
毎日、どういう気持ちで生活を送っているか、ということが大きいと思う。
ピアノの音がうるさい、ぎんぎんがんがん、アタマに響く。
どんどん、ばんばん、床の振動がこたえる。
子育てや仕事で、へとへとになっていると、ちょっとしたことも、気に障るのかも知れない。
椅子を引くキーキー音が神経にさわる、など、建物の構造上の問題もあるだろう。
そして、住環境は、とても大事。
でも、各自、いろんな事情があり、理想と現実は一致しないことが多い。
・・・
と、なにをまとめれば?
とどのつまりは、個人の性格や、受け止め方の違い。
価値観の違い。
現在、置かれている状況の影響が大きい。
いろいろあるものだ。