一昨日、蝶ブログの小さな変化を書いたばかりだが、もうはや撤回。
やっぱり前と同じ。
閲覧数に振り回されるのは、おかしいと再認識した。
自分はなんら変っていないのに、なぜか閲覧数が上下する。
それによって自分が変るのは、本末転倒だ。
「目先の変化を鵜呑みにしてはいけない」という、イソップ物語の教えだ。
(イソップ物語に、そんな教えがあるのか、どうか知らないが)
わたしは、わたしなので、べつに、どおってことないのだが。
わざわざ読みにきてくださる方もいれば、べつにそうでもなく無機質的にクリックされただけの場合もある。
ただ、訪問数というのは、唯一、双方向感を感じるバロメーターなので。
書きっぱなしといっても、そこそこ受け皿的なものが気になるのは、俗人ゆえ。
孤高の仙人になりたいところだが、まだ、山のふもとの御茶屋さんで、お茶。
人里離れた高い山に、ひとり住んでいたとしても、人恋しい。
(高い山というよりは、ぽつんと離れた山というかんじ?)
(といっても、べつに「コメントください!!」と、欲しているわけではありません。
お気遣いなく)
毎日毎日、ほぼ私信に近いものを発信し続けていて、いいのかしら?と思うこともある。
「発信」という概念が、大げさか。
書き捨て?
旅の恥のようなブログか?
・・・
ハナシはいきなり、ころっと変って・・・
・・・
人生のピークは、人によって違う。
乳幼児の時は、誰でもかわいい。
が、小さいときはブサイクでも、大きくなって可愛くなった人もいる。
学生時代は、ぱっとしなくても、社会人になってからメキメキ頭角を現した人もいる。
若いときは、すごいイケメンだったが、中年になって単なる、さえないオジさんになってしまった人もいる。
誰もが振り向く美人が、輝きを失ったギスギスした女性になる人もいる。
年を重ねて、輝く人も、どんどん味の出る人もいる。
これは、決して見かけだけのことではない。見かけは、全体のうちの一部。
しかし、見かけ(目に見える部分)だけしか考えない人もいる。
(これには、驚いたが、先日、そんな人がいることがわかって、ますます驚いた)
小さい頃は不幸続きでも、大人になってから充実した人や、
自分の手で幸せをつかんだ人もいる。
晩年運の人もいる。
親が生きている間は御曹司でも、自分の代で、親の築いたものを潰してしまう人もいる。
癌で余命宣告され、延命治療をせずに、62歳で自宅で家族に見守られて亡くなった人がテレビで放映されていたが、
亡くなった時が幸せのピークだったという。
90歳の詩人、彼女は、今が人生のピーク。ピークは、ますます、どんどん続く。
人によって、どこにピークがあるのか、人それぞれ違う。
年を取っていても、まだピークを迎えていない人も、ピークを迎え続けている人も、
今後、ずっとピークである可能性もある。
もう過ぎてしまった人は、その「ピークの幸せ体験」をおかずに、ごはんを食べるとよいのでは。
これから迎える人は、楽しみにしているといいだろう。
あるいは、日替わり定食のように、おかずが、ころころ変るのも楽しい。
楽しむ方向に、こころを持っていくと、自然と笑顔が出るから不思議だ。
・・・
と、キレイごとを連ねてみた。
しかし、これも真実。キレイごとではすまないことがあるのも、事実。
ものごとには、明暗、清濁が必ずある。
それをひっくるめて、皆、生きていくわけであります。
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