ひょっとして、わたしの母は幸せかも知れない。
けっこう高齢であるにもかかわらず、致命的な病気にもならず、日常生活を送っている。
最近、足が痛いようだが、それ以外はまあ大丈夫。
時間もお金も人も、そこそこ自由に使える。
先日、母の手術に関する説明が、主治医から行われた。
狭い診察室に、ぞろぞろぞろと、大の大人が何人も詰め掛ける。
母の子供たち(=わたしたち、きょうだい)と、その配偶者。
隣の隣の遠い県から、はるばる駆けつけた子供夫婦(=わたしたち)もいる。
たかが、手術の説明にである。
それも、心臓とか、脳とか、カラダの中心、要(かなめ)となる部位ではなく、末端である足。(片足)
整形外科系。
一瞬、葬式か? はたまた危篤の知らせに駆けつけたのか?
というぐらいの、一同集合の息の合いっぷり。
これは、なにパワー? 求心力は、なに?
人徳??とも違う、一種のカリスマ性? それとも違うような・・・??
みんな心配して、口先だけでなく、行動に移すところが偉いと思う。
(というか、知らないうちに重症になってから、慌てて困るのは、世話をする側の我々だから?)
ひょっとして、親孝行の一種なのかも知れない。
と言いつつ、大人がいっぱいで、診察室からはみ出そうになると、
自分が最前列に座っていた母が、「どうぞ、どうぞ」と家族たちに席を譲ろうとする。
「なに言ってんの。自分のことでしょ。
おかあさんが一番前にいて、一番よく聞いてないとダメじゃないの」
と、姉に、たしなめられる。
・・・
母は、お花を活けるのが、とても上手である。
そこらへんの庭の花や、畑の花をちょいちょいと切って、すいすいと、手際よく活ける。
義理姉もキレイに花を活けるが、時間がかかるらしい。が、母はスピーディ。
いつも花が活けてある。
先日、宿泊した大きな旅館は、温泉も素晴らしく、気持ちよい時間を過ごした。
旅館のあちこちに、花が活けてある。
部屋にもメインの床の間に、大きな花瓶に花が活けてあった。
廊下や、浴場の休憩室、コーナー、その他、目に見えるところどころに、花を見た。
が、センスがまるでよくない。
すべての花のセンスが悪いと感じたのは、あの時が始めてだった。
若女将が、美しい笑顔でご挨拶してくれた。
彼女が旅館の顔、広告塔、広報トップということだろう。
・・・端正な顔立ちの上品な笑顔からあふれる気品はさておいて、
残念なことに、お花を活けるセンスのある人物が、あの旅館には、いないようだ。
「センスがない」ということに気づいていないのか、
人材を補う余裕がないので、目をつぶっているのか、
あるいは、花のボリューム、花への経費が限られているのか。
はたまた、わたしのセンスがおかしいのか。
しかしながら、今回、はじめて思った。
今までなら、ちょくちょく滞在するホテルや旅館、ホール、店舗では、
「まあ、お花が美しいこと」と、、、豪華なお花や、さりげないお花に、こころ惹かれていた。
・・・
で、思った。
あ、そうだ。
今まで見てきたお花が、素晴らしいものばかりだったのだ、と。
特に、母のお花。
大作も小作も、わたしのこころに響いていた。
目をなごませてくれた。
素材によっては、凛とした佇まいを見せ、部屋の雰囲気をきりりと引き締めてくれたり、
柔和になごませてくれたり、華やかにしてくれたり。
空間に華をもたせる、とは、まさにこのこと。
どうも、母のおばさんもお花が上手だったらしく、遺伝かも知れない。
こういう遺伝なら、とても嬉しい。
が、その遺伝、今のところ、誰もまだ表面に現れていない。
わたしたちの甥や姪に現れるのだろうか。
ひょっとして、わたしが・・・???
ありえない。へた。
見るのは好き。感動もする。
せっかく活けてある花が、おかしいと感じたのは、今回が初めてだが、
たいがいは、美しさにうっとりしたり、こころ癒される。
ああ、めんどくさいことになった。
わたしは、お花を見る目が確立されてしまったようだ。
どれを見ても無条件に素晴らしい、と感動できなくなってしまったようだ。
一種の知りすぎた故の弊害かも知れない。
なにごとも、小さなことでも感謝し、幸せを感じるためには、経験は、ほどほどがよいのだろうか。
幸せの感受性ハードルを、自分で低くしなければいけないこともあるようだ。
けっこう高齢であるにもかかわらず、致命的な病気にもならず、日常生活を送っている。
最近、足が痛いようだが、それ以外はまあ大丈夫。
時間もお金も人も、そこそこ自由に使える。
先日、母の手術に関する説明が、主治医から行われた。
狭い診察室に、ぞろぞろぞろと、大の大人が何人も詰め掛ける。
母の子供たち(=わたしたち、きょうだい)と、その配偶者。
隣の隣の遠い県から、はるばる駆けつけた子供夫婦(=わたしたち)もいる。
たかが、手術の説明にである。
それも、心臓とか、脳とか、カラダの中心、要(かなめ)となる部位ではなく、末端である足。(片足)
整形外科系。
一瞬、葬式か? はたまた危篤の知らせに駆けつけたのか?
というぐらいの、一同集合の息の合いっぷり。
これは、なにパワー? 求心力は、なに?
人徳??とも違う、一種のカリスマ性? それとも違うような・・・??
みんな心配して、口先だけでなく、行動に移すところが偉いと思う。
(というか、知らないうちに重症になってから、慌てて困るのは、世話をする側の我々だから?)
ひょっとして、親孝行の一種なのかも知れない。
と言いつつ、大人がいっぱいで、診察室からはみ出そうになると、
自分が最前列に座っていた母が、「どうぞ、どうぞ」と家族たちに席を譲ろうとする。
「なに言ってんの。自分のことでしょ。
おかあさんが一番前にいて、一番よく聞いてないとダメじゃないの」
と、姉に、たしなめられる。
・・・
母は、お花を活けるのが、とても上手である。
そこらへんの庭の花や、畑の花をちょいちょいと切って、すいすいと、手際よく活ける。
義理姉もキレイに花を活けるが、時間がかかるらしい。が、母はスピーディ。
いつも花が活けてある。
先日、宿泊した大きな旅館は、温泉も素晴らしく、気持ちよい時間を過ごした。
旅館のあちこちに、花が活けてある。
部屋にもメインの床の間に、大きな花瓶に花が活けてあった。
廊下や、浴場の休憩室、コーナー、その他、目に見えるところどころに、花を見た。
が、センスがまるでよくない。
すべての花のセンスが悪いと感じたのは、あの時が始めてだった。
若女将が、美しい笑顔でご挨拶してくれた。
彼女が旅館の顔、広告塔、広報トップということだろう。
・・・端正な顔立ちの上品な笑顔からあふれる気品はさておいて、
残念なことに、お花を活けるセンスのある人物が、あの旅館には、いないようだ。
「センスがない」ということに気づいていないのか、
人材を補う余裕がないので、目をつぶっているのか、
あるいは、花のボリューム、花への経費が限られているのか。
はたまた、わたしのセンスがおかしいのか。
しかしながら、今回、はじめて思った。
今までなら、ちょくちょく滞在するホテルや旅館、ホール、店舗では、
「まあ、お花が美しいこと」と、、、豪華なお花や、さりげないお花に、こころ惹かれていた。
・・・
で、思った。
あ、そうだ。
今まで見てきたお花が、素晴らしいものばかりだったのだ、と。
特に、母のお花。
大作も小作も、わたしのこころに響いていた。
目をなごませてくれた。
素材によっては、凛とした佇まいを見せ、部屋の雰囲気をきりりと引き締めてくれたり、
柔和になごませてくれたり、華やかにしてくれたり。
空間に華をもたせる、とは、まさにこのこと。
どうも、母のおばさんもお花が上手だったらしく、遺伝かも知れない。
こういう遺伝なら、とても嬉しい。
が、その遺伝、今のところ、誰もまだ表面に現れていない。
わたしたちの甥や姪に現れるのだろうか。
ひょっとして、わたしが・・・???
ありえない。へた。
見るのは好き。感動もする。
せっかく活けてある花が、おかしいと感じたのは、今回が初めてだが、
たいがいは、美しさにうっとりしたり、こころ癒される。
ああ、めんどくさいことになった。
わたしは、お花を見る目が確立されてしまったようだ。
どれを見ても無条件に素晴らしい、と感動できなくなってしまったようだ。
一種の知りすぎた故の弊害かも知れない。
なにごとも、小さなことでも感謝し、幸せを感じるためには、経験は、ほどほどがよいのだろうか。
幸せの感受性ハードルを、自分で低くしなければいけないこともあるようだ。