蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

普通

2013-11-14 | 人生
ホンモノに触れさせて育てる。
芸術家にさせるには、3代かかる。

・・・

パリの郊外にある美術館では、モネの大作がここ狭しと、ずらり並ぶ。
幼稚園か小学校低学年の子供たちは、課外授業でフロアーに座り込んで、写生したり、感想を書いたり、なにやら描いたり。
まさに、小さい時からホンモノを見る。

去年、神戸市立博物館「マウリッツハイス美術館展」で、フェルメールの絵を見た。
一つの部屋に、知らない人はいないと思われる、超有名な小さな絵、「真珠の耳飾りの少女」。
その絵を見るために、絵の前段階から列をぞろぞろ作る。
その中に、小さな子供もいた。
ご両親は子供にホンモノを見せたくて熱心なのだろうが、子供は、大人たちの腰、ウエスト周辺しか見えない。
列に並んでも、少し進んでも、進んでも進んでも、見えるのはずっと大人の腰ばかり。
むっと蒸せるような人、人、人。
絵の前に来ても、絵がちゃんと見えたのか、心配。
あれで、子供は、美術館嫌いになり、絵が嫌いになったかも。

日本では、美術館に子供が足を向け、ひろびろと鑑賞できる環境は、まだまだ整ってないように思う。
(各地の美術博物館では、子供たちが美に触れられる、様々な企画はされているようだが)
休日の都市、大人がいっぱい、長蛇の列、超人気の特別展に連れてきたからかも知れないが。

・・・

わたしが、美術館に初めて足を運んだのは、中学生の時。
当時の親友(のちに、絶交)に連れられて、神戸の美術館に何回か行った。
ユトリロや、ムンクなどを観た記憶がある。
中学生で、絵を観たい? 
わたしには、まったく興味がなかったが、彼女にはあったようで、そのほうが驚きだった。
(でも、のこのこ着いて行く、わたし)
同じ年齢でも、感性や興味は違うものだと感じた。
観ても、ぴんと来なかった。
だが、同じ絵を、年齢を重ねて観た時、
受け取り方、感受性の違いを発見して楽しむのも、またアジなものかも知れない。

・・・

音楽に関しても、似たようなことが言えそうだ。
わたしは、幼稚園の時からピアノを習っていたが、普通のアップライト・ピアノだった。
よその、音のいいグランドピアノから流れる、響きのよい音には、驚いたものだ。
だからといって、どうってこともなく、普通のピアノを弾き続けていたが。
良いものとの違いを知ってはいるが、普通のものを使っていた。べつに、なんの不満もなかった。
おそらく、音楽に関しては、さほど関心がなかったのだろう。
ただ、違いがわかるに過ぎない。

食もそう。
美味しいものは知っているが、食べるものは、普通のもの、あるいは、手抜きのもの。
まずいものも、食べる。
美味しいものも、食べる。

上質と、普通と、低品質のもの、その違いがわかるには、ある程度、基礎がなければ、わからないと思う。
「普通」のところの基礎があれば、「上質」に感激し、低品質のもの接すると、普通のものに対する喜びが生まれる。
自分は普通の感覚を持っているからこそ、幅の広い喜びを感じることができて、幸せである。

低品質のものだけに長く接していると、他のすべてのものが高品質に感じられて、幅はもっと広いのでは?とも思うが。
そうなると、品質を見極めるベースが確立されていないような気もする。


ただし、その「普通」が、厄介なこともある。
普通にもランクがあるからだ。
自分は普通と思っていても、普通でない場合がある。
これは、「常識」の感覚と同じ。
自分では常識と思っていても、人はそう思っていない場合がある。
地域差や文化の違いなど、複雑な要素も、からみあっている。

・・・

わたしは、服装に関しては、うるさい。
べつにたいしたものを着ているわけでも、凝ったもの、高品質なものを着ているわけでもない。
自分の感性、その時の気持ち、行動・用途、天候・気温に合ったものを、
どんぴしゃり的をはずさず選ぶのが、面倒くさい。
気持ちが乗らなければ、TPOを平気で踏み外すこともしかねない。
場違いな服装をしている自分に、その場での気まずさをひしひしと感じて、自分で落とし前をつけるしかない。
自己責任。

暑さ寒さを無視することは、この年齢になると、しなくなった。
機能性、快適性を重視するようになった。
高価なものを普段着に着る(着つぶす)勇気がない、貧乏性でもある。


平素の、当たり前の、ルーチンワーク的に、眠ったように時を過ごす感覚だけなく、
同時に非日常感も持ち合わせているので、いろんなタイプのものも手にしてしまう。
服装だけではなく、ジャンルは問わない。

人間に関しても、それは言える。
が、ジャンルを問わないだけであって、善悪は問う。
素晴らしい人に対しては絶賛するが、悪人は遠慮する。
ただ、問題は、素晴らしい人は、悪の部分も持っていることである。
(凡人の場合、本人が、そのことに気づいていないことが、最も厄介であったりする)
社会をドロップアウトしてしまったような人に関しては、ここでは言及を避ける。

・・・

「ホンモノに囲まれて暮らしたい」という究極ではなく、「ホンモノの良さが、わかるようになりたい」。
その段階をクリアーすると、今度は、「ホンモノの良さを満喫したい、楽しみたい」になる。
そして、欲が張っているので、
「いつまでも、できる限り、ホンモノの良さを味わっていたい」となる。
さらに、ドあつかましく、「ホンモノを自分流に造りたい」になる。
こうなると、基準は、自分。他人の価値観など、どうでもよくなる。
で・・・「普通」の良いものから離れていったりして、
途中、道を踏みはずなさなければ、一般的な感性の持ち主だったのに、・・・となるのだろうか。

一般的って? 自分流って?
自分なりの「こだわり」ってことだろう。
なあんだ、普通のよくあることか。

・・・

他人に評価されなくても、自分のこだわりの人生を歩けたらいい。

と、ここで、〆れたら楽なのだが・・・
自分のこだわりの人生は、「他人にそこそこ評価され、そして自分も納得がいく」人生なので、ややこしい。
二兎を追う者は、一兎をも得ず。
他人か、自分か。

各人、その配合、比率を調整して、頑張って楽しい人生を送ってください。

(と、いつの間にか、他人事になっている・・・)



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