今日も一日は、ほぼ終了。
次女母娘、実家暮らし、居たら居たで大変だけど、居なくなったら居なくなったで、寂しい。
感情なんて、じつに勝手なものだ。
ちょっとだけ居る、とか、たまに居るとか、時々顔を見るとか、自由度が高く、抜け感があるほうが、気持ち良い、心地よい距離感だと感じる。
べたっと一緒は、お互い疲れる。
夫婦も、親子も。
恋人も。
恋人なら、若い頃ならいっときも離れたくないだろうけれど。
今の年齢になると、時々、ドキドキで良い。
逢える日を待つのが長くて疲れる。
苦しくなるほど熱を入れると、苦しい。
呼吸困難は避けたいところだ。
相手よりも何よりも自分の身体が大事。
いいかげんなものだ。
だけど、いつまでもワクワクするこころは持ちたい。
などとムシの良いことを言う恥じらいの無さ、厚かましさ。
そうでもしないと繊細でナイーブでガラスのハートだと生きていけない。
生きるには、面の皮の厚さも必要である。
でも、可愛いくもありたい。
またまたムシの良いことを。
それにしても、夕飯、夫だけだと楽勝!
次女がいると、とりあえずいつも何かを用意しなければならない。
野菜だの、タンパク質だの、母乳の素になるものをせっせせっせと食べさせなければならない。
毎日毎日毎日毎日毎日。
わたしは自分1人だと、全く料理をしない。
家族や娘一家のためにしか料理をしない。
自分のために料理をするのは、手間がもったいない、惜しい、めんどくさい。
家族のために作った料理は、わたしは余った場合しか食べない。(まれに、好きなものだと、自分も食べるが)
せっかく作ったのに、自分で食べては何の意味もない。
そういうスタンスは、いったいどこから来るんだろう?
きっと料理が大嫌いなんだろう。
主婦の義務として作らなければならないから作っているのだと思う。
その割には、掃除は義務と感じていないようだ。
部屋が散らかっているからといって、死んだ人はいない。
が、ゴミ屋敷は嫌。
快適な生活をするほうが、快適だ。
不潔は不快だ。
当たり前だけど。
よくよく考えると、わたしは、あまり生活の快適な質を求めていないように思う。
自分の労力と快適をはかりにかけて、労力がかかる割に得るものが小さいと、手を抜く。
わたしが、どうしても手を抜かなかったことは何だろう?
ん〜〜〜?
思い当たるが、書かないことにしよう。
嫌な感じ、嫌味な人物と思われるかも知れないことをわざわざ自ら告白する気はない。
洗いざらい自己開示しない。
価値観、考え方の基準は、その、手を抜かない部分に存在する。
いわゆる核である。
その核はどんな人にも必ずあると思うが、自覚しているかしていないかで、違ってくることもある。
自覚していない人も多いかも知れない。
自覚するキッカケがないと、無意識なまま一生過ごす。
人に指摘されて気付くこともある。
無意識=無自覚=深層心理
こころの奥深くに眠っている場合もある。
知ったからといって、良かった、幸せとは限らない。
人として、多くの人と共通点を持つと考える。
良い面も悪い面も。
小説や映画、音楽、美術、、、なにかしら言葉に出来ないものを感じ取ることがある。
仕事や娯楽を通しても。
感覚をシェアする。
シェア出来ない場合も多々、多々ある。
いろんな人がいるから。
無意識のものを引き出されることもある。
わざわざ、わざと作為的に引き出すこともある。
なんだか、話しが抽象的、概念的になり、まとまらず、軟着陸できなくなってきた。
お読みになっていた方、途中でほってください。
迷宮話にお付き合いいただき、ありがとうごさいます、そして、すみません。