人を信じる。
その期待感から裏切られたと感じる。
その通り。
期待しないのが良いわけ?
知らず知らずに期待する。
こんなに一生懸命しているのだから、、、と、見返りを期待する。
あるいは、笑顔が見たいから、と。
笑顔=ありがとう=感謝。
ボランティアは感謝を期待してはいけない。
自分を無にして自分を救うための奉仕。
しかし、どうすれば喜ばれるかを考える。
何をどうすれば?
おしきせや、押し売りはNG。
人を喜ばせるのは実は難しい。
喜ばせようとする気持ちが見えて、喜ぶこともあるし、喜ばせようとする気持ちに自然に応えることもあるし、無理に喜ばなければならないこともある。
やはり、見返りや感謝を求めると暑苦しい。
結果的に感謝された、という順番が望ましい。
とかなんとか、そんな理想論はよいので、人の役に立ちたいと考えるだけで素晴らしい!!
ただ、誠心誠意頑張っても自分が傷つくこともあるから注意が必要だ。
わたしは、小さい頃から醒めた子供だった。
父の日には、父を喜ばせようと見え見えの作文を書いて、父の前で読んでいた。
あれは子供らしいのか?
今、思えば、半分、子供らしい。
よくあんなことを恥ずかしげもなく行う自分が幼くてかわいい。
が、はっきり、喜ばせようという意図はあったと思う。
強く自覚しているかも知れないし、あんまり深く考えていないかも知れない。
人間不信がどこかにある、可愛げのなさをいつも引きずっていた。
高校生ぐらいになると、本を読もうが読まなかろうが、本質が見えると思う。
読書量が増えると知識が深まり理解力があるとみなされる。
が、ある一定量を過ぎると、あまり変わらないかも知れないし、読書効力が水面下で無尽蔵に溜まっていっているのかも知れない。
それを露出できる場にいると、自分の思いや考えは世間に広まるが、無名の一個人だと、自分の胸の中だけか、せいぜい自分の仲良しさんぐらいまでにしか広まらない。
有名な人は、言語行動が伝わるので、良い意味でも悪い意味でも発信広告塔になる能力を持っていることを意識しなければならない。
プロパガンダ的に利用される可能性もなきにしもあらず。
注目を浴びる苦悩というものもある。
その点、無名の凡人は可もなく不可もなく。
なんの影響力もない。
お気楽で快適。
身内でワイワイ言うだけ。
ちょっぴり盛り上がればそれでよい。
わたしは、大袈裟なものではなく、ちょっぴりの楽しみが、とても楽しい。
ではあるが、それはそうと、本質が見えない子もたくさんいるだろう。
大人さえも。
二つ目の目があるか、ないか。
二つ目、三つ目の目があると、一人につき、目を複数持ち、それが大勢集まると、目がいっぱい、目だらけで、ややこしい。
どれが適正な目か?
澄んだ目も必要だが、澄んでばかりいると目を傷めることがある。
見えすぎると、見なくてもよいものまで見える。
なんでもほどほどがよい。
なかなか、そんな都合が良いようには行かない。