昨日はクリスマス、年末には除夜の鐘を聞き、年が改まると神社に初詣・・・。
篤い信仰をお持ちのお方には申し訳ないのですが、私などは、除夜の鐘を聞く時には(最近はテレビ中継ばかりですが)、それなりの感慨や、思い起こすこともあるにはあるのですが、御仏の教えや、感謝の心などほとんど抱いておりません。神社へのお参りも、神妙に首を垂れ、「その賽銭でそれだけ頼むか」と言われるほどの願いも懸けますが、さて、どれほどの期待を描いているのかと言われますと、むしろ、一種の習慣のようなもので、お参りしないことには何となく落ち着かないといった面の方が強いように思います。
クリスマスに至っては、私に限らず、おそらくごく限られた方々を除けば、忘年会を兼ねるような行事になっていたり、子供たちにとってはプレゼントが楽しみで、親にすればめったに出来ない保護者面が出来るチャンスであったりと、ある意味では大切な場を提供してくれているのかもしれません。
世界の各地では、多くの紛争が発生しており、この時点でもまったく収束の糸口さえ見えないものが数多くあります。
その原因をたどれば、人種対立であったり、宗教対立であったり、利害の対立であったり、本当は何が原因か分らないが先祖伝来の敵対関係というのもあるようです。
どれが原因だとしても、人間同士が、これほど激しく憎みあい、幾千幾万という人命が失われている紛争が行われている現実を見ますと、その環境に置かれると、人間はそのような行動を取るのだと悲しく、そして怖ろしくなってしまいます。
人間の持つそうした一面を鎮める知恵を、私たちは未だもって手にすることが出来ていないのでしょうか。
昨年のクリスマス時期に、高島屋が販売したクリスマスケーキが、多くの物が崩れた状態で配達されるという事件がありました。ほとんどが家庭に送られたものでしょうから、楽しみにしていたクリスマスパーティが台無しになったとか、子供たちが泣き出してしまったとか、大きなトラブルとなりました。
高島屋では、材料の仕入れから製造過程、配達に至るまでトレースしたようですが、その原因を見つけることが出来ず、「すべて弊社(高島屋)の責任です」と頭を下げる姿が実に痛々しく感じたのを覚えています。
昨日、某テレビ番組で、この問題を取り上げていました。
高島屋では、今年のクリスマスケーキの販売にあたって、昨年問題が発生した制作者や配送業者など全く同じメンバーでチャレンジしたそうです。さすがに老舗の力だと感じましたが、顧客も同様に感じたのでしょう、予定数は完売し、昨日の放送段階では無事に製品が届けられているようでした。
制作にあたった方はインタビューの中で、昨年のトラブルのあとに、当然クレームもあったのでしょうが、「崩れていたが、美味しく頂きました。負けずに来年も作ってください」などといった励ましの手紙などがたくさんあったそうです。
これほど優しい人々がいることも、同じ人間の社会なのだと感動しました。
私たちは、日頃は神も仏も全く関心がない人でも、ある刹那には、神にも仏にも祈り、助けを求めてしまいます。
つい先日まで隣人同士であったはずの人々が、何の躊躇もないかのように刃を振るい鉄砲の引き金を引きます。
傷だらけの人たちが、がれきの中から幼子を救い出している映像を見たことがあります。氷の割れ目に落ち込んでいる鹿の子を、凍てつく水に首まで使って助け出している映像を見たこともあります。
人はこれほど猛々しく残酷な行動が出来、これほど優しく力強い行動を取ることが出来るのですねぇ・・・。
幸か不幸か、その両極端の立場に立つことがないままに生きてきましたが、残された日々は、ほんの少しでも、優しい方に向かいたいと願っています。
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