雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

バイデン新大統領就任 ・ 小さな小さな物語 ( 1389 )

2021-07-06 13:34:46 | 小さな小さな物語 第二十四部

現地時間の1月20日正午、ジョー・バイデン氏が第46代大統領に就任しました。
新型コロナウイルスの感染者拡大中のための参加人員制限、先日の議事堂乱入事件を受けての厳重な警戒態勢、前大統領の不参加等々、異例ずくめの就任式と紹介されていました。
しかし、寒そうな曇り空の式場に集まった人の中には、歴代大統領など私などでもなじみのある人物が何人も見受けられ、その人たちがマスク越しながら楽しげに談笑している映像を見ますと、やはりアメリカという国歌のたくましさが伝わってきました。
そして何よりも、レデイー・ガガさんが国歌を朗々と歌い上げる姿は実に感動的で、この国の未来に期待を抱かせてくれました。

バイデン大統領は、多くの課題を背負っての船出だと多くの方々が論評されておりました。
大統領の就任演説にも、米国の結束を強く呼びかけ、大統領選挙で浮き彫りにされた国民の分断を修復させることの重要性を訴えました。さらに、新型コロナウイルス対策、景気対策、人種間格差、気候変動などを重大課題として挙げておられました。
そして、私たちに関係深いものとしては、国際関係への関与、同盟関係の修復、といった表明があります。すでにパリ協定復帰への手続きは開始されましたから、「脱炭素」に関する菅首相の大見得は、後戻りできない課題としてわが国の経済運営に大きな影響を与えることになるでしょう。また、同盟関係の修復は、大いに歓迎したい表明ですが、今後の日米関係は、防衛問題、経済問題を中心に、わが国に対しても真剣な取り組みを求めてくることでしょう。

また、就任演説の中には、「民主主義がいかに貴重でもろいものかと学んだ」というくだりがありました。
ここ数ヶ月のアメリカの混乱ぶりは、まさにその感がありました。しかし、もしかすると、私たちには「混乱ぶり」と見えたものも、民主主義が民主主義であり続けるために必要な試練だったのかもしれず、単にアメリカだけの問題ではなく、民主主義の先進国家とされている国々においても、少なからず混乱があるように見えます。そうした危機に、アメリカという偉大な国家は、その対処方法をきっと示してくれるのではないでしょうか。
バイデン大統領の演説は、先の言葉に続けて、「しかし、この瞬間、民主主義は勝利したのだ」と述べられていますから、大いに期待を持って見守りたいものです。

民主主義国家とされる国は、とかく面倒なことが多く、コストがかかり、決断に時間がかかり、一握りの反対意見に右往左往しがちです。なんとも非効率で不愉快な面を多く持っているように見えます。
しかし、残念ながら、私たちは、民主主義制度を超える制度を生み出すことが出来ておりません。わが国が民主主義国家として生きていくとするならば、「この制度がいかにもろいものか」ということをしっかりと肝に銘じて、絶えず見守り、犯すものと戦うことを決意してこそ可能であることを私たちは覚悟する必要があると思うのです。
アメリカの新大統領の活躍に注目し、学ぶべきことは学びたいものだと思うのです。

( 2021.01.22 )

 

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二大政党制に学ぶ ・ 小さな小さな物語 ( 1390 )

2021-07-06 13:33:11 | 小さな小さな物語 第二十四部

新大統領の就任式も無事に終わり、米国の政策は大きく変化しようとしています。
バイデン大統領は、就任初日に15件の大統領令に署名したと報じられていますが、その中には、パリ協定への復帰やWHOからの脱退取り止め等も入っています。コロナ対策も変化が見られるようですが、国際関係は協調路線に大きく舵が切られるようです。
ただ、トランプ大統領の対外政策は、わが国にとってはプラスに働いた面も多かったようですから、手放しで歓迎するのも楽観過ぎるような気がします。

それにしても、今回の米大統領選挙は、国家の政治形態について考えさせていただくことがたくさんあったように思います。
民主主義国家とか、民主主義政治といった言葉を安易に使うことがありますが、政治形態というものは、そうそう簡単に分別できるものでもなく、いわんや、理想の政治体制ということになれば、人類は模索のごく初期段階なのではないかと思ったりしてしまいます。
米国の政治形態は二大政党制として語られることが多く、かつて、わが国もそれに学ぶかのように、二大政党制を目指したようで、小選挙区制というのはそれを後押しする面があるとされています。

二大政党制というのは、政権担当能力のある二つの政党が存在することが条件となりますが、その他の政党の存在を認めないということではありません。そういう意味では、多党制といわれる政治形態とも同じ複数政党制であるといえます。
現在二大政党制の国家としては、イギリス、カナダ、オーストラリアなどが知られており、ドイツ、フランス、イタリアなどは多党制の国家とされますが、長らく二大政党制を敷いている国家においても、小政党が支持を広げている傾向があり、多党制の国家であっても、政権担当のためには連立が必要になり、その連立形態が固定化してくると実質的な二大政党制になるという気もします。
さて、私たちは、どのような政治形態を求め、どのような政府を作り上げようとしているのでしょうか。

国家となれば、政治形態もさることながら、一国として存在を続けることもそうそう簡単なことではありません。
国家どころか、一つの家庭であっても、十年、二十年を無風で過ごせる所は少数でしょうし、有事の時には、決断手段の優劣が明確になるのかもしれません。
大勢をまとめることは難しいことですが、少数だと易しいということでもなく、究極の団体といえる二人の関係は、哲学者でさえ頭を抱えるほど微妙で複雑なのだそうですよ。
さて、国家の心配も絶えませんが、まずは、わが家のさざ波に備えることとしますか。

( 2021.01.25 )

 

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環境の変化 ・ 小さな小さな物語 ( 1391 )

2021-07-06 13:31:03 | 小さな小さな物語 第二十四部

数日前、わが家の家族にニャンコ君が加わりました。
ただ、この加わり方には少々問題がありまして、さて、ニャンコ君はどう思っているのか気がかりになっています。
このニャンコ君は、六歳ぐらいですが、もともと野良猫だったのを二年ほど前にボランティアの方が捕獲して、手術後に地域猫として放した猫です。当市は、猫や犬の殺処分0を目指しており、野良猫に対してこのような対策をボランティアの方々も協力しているようです。
このニャンコ君も、半年ほど前からわが家の庭を中心にエサとトイレを世話させていただいていました。むしろ、楽しませていただいていたという方が正しいのでしょうが。
もちろん、他の猫とけんかした後などは数日来なくなってしまったりしていたのですが、今年の初めから十日ばかり姿を見せなくなって心配していたところ、ボランティアの人が別の場所でエサを与えていることが分かりました。ただ、その場所とわが家あたりの間には四車線の道があり、その間を行き来しているようです。これまでも、何匹かの猫が交通事故に遭っています。
そこで、わが家で飼わないかという話になったのです。

これまでに、わが家では五匹の猫を飼ってきました。一匹は二十二年生きてくれましたが、四年ほどで病気で死なせてしまったことがあり、交通事故に遭ってしまったのも一匹います。猫とはいえ、死別するときの辛さはたまりませんので、もう絶対に猫は飼わないと家族間で固く決めていたのですが、交通事故に遭いそうだということと、新しい所で苛められているらしいという話を聞くと、その猫と顔なじみになっているだけに、お世話させていただくことになりました。
しかし、ボランティアの方が罠のゲージを仕掛けても、どうしても入らず、満足に食事をもらえないままに三日が経ち、四日目の早朝にわが家にエサを求めてやってきました。そこで、警戒しているニャンコ君をなんとか屋内に誘い込んで閉じ込めたのですが、怒るは、大暴れするは、なんとも悲しげな声で鳴くはで、大騒ぎです。家具の隙間に潜り込んでいましたが、まあ、向こうも少しは顔を覚えているらしく、エサは食べ、四日経った今は、こたつの中をホームグランドにして、エサをねだり、トイレも上手に使ってくれています。しかし、まだ、絶対に身体を触らせようとしません。
ニャンコ君にすれば、だまし討ちのようにして閉じ込められたのですから、突然の環境変化に戸惑ったり、怒りを感じるのは当然なのでしょう。

私たちも、ほんの少しでも環境が変わると、緊張もし、精神的な重荷を感じるものです。
例えば、転居しかり、職場が変わったり、転勤や転校でも同様に、かなりのプレッシャーがかかるものです。
そのほとんどは人間関係ですが、周辺の環境の変化も大きな影響を与えます。騒音振動の激しい場所や、日当たりといったものも関係あるでしょうし、国内であっても、温暖な地域から豪雪地帯への転居などは、なかなか一冬では順応できないのではないでしょうか。

これが、個人の努力で解決可能な場合はともかく、地球温暖化などということになれば、対処の仕方がありません。
よく言われているように、地球温暖化に私たちの生活ぶりが本当に影響を与えているとすれば、対処の仕方が無いというのは、実に無責任な話になってきます。同時に、地球の歴史といいますか、数万年、数億年単位の循環の中に私たちが生きていると考えれば、昨今の温暖化傾向など、どうこう言うほどの問題ではないような気もします。
ただ、短期的な視点で見れば、折からバイデン大統領が誕生したこともあって、気候変動、主として二酸化炭素排出に関する問題は、政治的・経済的に大きな問題になるはずで、これらの国際合意に追いつけない企業や国家は、厳しい状態になる予感があります。
まあ、私の喫緊の課題といたしましては、二酸化炭素問題もさることながら、新しい仲間のニャンコ君が気に入ってくれる環境をどうすれば作れるのかが、より重要と考えています。申し訳ないことですが・・・。

( 2021.01.28 )

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一月の終わりに ・ 小さな小さな物語 ( 1392 )

2021-07-06 13:28:27 | 小さな小さな物語 第二十四部

早いもので、令和三年一月という年も今日で終わることになります。
当ブログでも何度か書かせていただいたと思うのですが、その昔、母が言っていた、「一月行って、二月は逃げて、三月去って・・・」という言葉を、この頃になると必ずといっていいほど思い出します。
年月の流れということになれば、年末頃の方が思いが強いような気がするのですが、一月という一年の最初の月が行ってしまうという感覚は、母の言葉とともにある種の感傷のようなものが私にはあります。「今年も、あと十一ヶ月しかない」というのは戯れ言に過ぎませんが、一年には十二の月しかなく、そのひと月は案外に短いものだとの思いが、年々強くなっているような気がします。

個人的には、誕生月でもあることから、「一年の計」というほど大げさなものではありませんが、それなりの計画を立てます。
私にとって一月は、単なる一年の始まりということだけではなく、生涯の中の一年の始まりという感覚をいつの頃から抱くようになりました。もちろん、そこそこ年齢を重ねてからのことですが。
そして、そのような感覚を持つようになってから、今思い返してみますと、ほぼ毎年というほど「ああ、何も出来なかったな」といった、ごくごく小さな反省の気持ちが起こり、母の言葉を思い出すのです。

一月が、何とはなく早く過ぎ去るような感覚を持つ一つの要因は、阪神淡路大震災の経験があるように思われます。もうずいぶんと時が流れ、直接的にはそれほど大きな被害を受けたわけではないのですが、今もなお考えさせられているような気がします。
そして今年は、新型コロナウイルスというなんとも厄介な存在が、私たちに試練を与えてくれています。

「あと十一ヶ月しかない」ということは、少し前向きになれば、「まだ十一ヶ月あるということになります。
まあ、この段階でこんなことを言えば、言葉遊びか冗談になってしまいますが、昨年の今頃、「新型コロナウイルス」という存在に私などは関心がありませんでした。三月、四月の厳しい状況下にあっても、次の年の正月をこのような状況で迎えるとは思いませんでした。
今、私たちは、ようやくワクチンが実用化され、わが国においても間もなく投与が始まります。その効用については、まだ意見が分かれるところがありますし、ワクチンだけでコロナに対抗しきれるはずはなく、特効薬の登場なども必要なはずです。そして、このウイルスとそこそこ付き合いきれるようになるには、残された十一ヶ月が十分な時間なのかどうか、微妙なところではないでしょぅか。
先端科学の研究者や、医療の現場の方々におんぶに抱っこされるしか仕方がないような気もしますが、私たちの地道な感染防止対策も無視できるものではないはずです。
テレビなので、何とも不愉快な行動を取る人などが数多く報道されていますが、残念ながら一定数はそういう人たちは存在するものです。社会全体が影響を受けないことを祈るばかりです。
そして、来年の一月には、穏やかな日々をぜひとも取り戻したいものです。

( 2021.01.31 )



 

 

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春たちぬ ・ 小さな小さな物語 ( 1393 )

2021-07-06 13:26:43 | 小さな小さな物語 第二十四部

今日は立春です。
『春は名のみ・・・』というのは、私の大好きな言葉の一つです。「春というのは言葉だけのことで、寒さはまだまだ厳しい」といった意味ともいえますが、「例え名前だけであっても立春だから、春の始まりであることは確かだ」といった意味にも、受け取っています。
「立春」は二十四節気の第一番目です。かつては、立春を新年の始まりとしたようで、今も年賀状の挨拶で、「新春のお祝いを申し上げます」といったものが受け継がれていることを考えますと、私たちの文化に根付いているのかもしれません。

今年の節分が2月2日であったことが話題になっていたようですが、それは、「節分は2月3日」というのが私たちの常識のようになっていたからだと思われます。それも無理からぬことで、2日が節分になったのは124年ぶりだというのですから、わが国には「2月2日節分」を体験した人はいないということになります。
ところが、「2月2日節分」を体験することはもうないのかといいますと、どうもそうではないようで、次に登場するのは 2025 年だそうで、しばらくの間は閏年の翌年は「2月2日節分」となるようですから、若い人たちにとっては、別に珍しいことでもない現象になりそうです。

古くからある二十四節気ですが、太陰暦が用いられている中でも二十四節気は太陽の運行をもとに定められたものです。 
因みに、立春は、「太陽黄経が315度になった瞬間が属する日」とされていて、国立天文台の観測によって定められるそうです。今年の「瞬間」は23時59分だそうですから、きわどく124年の壁を越えたということでしょうか。
残念ながら、私には、太陽黄経が315度云々ということが、どういう意味を持っているのか今ひとつ理解できていないのですが、「春は名のみ・・・」といった文学的な表現の向こうには、太陽の存在、地球が動いているという事実、大きくいえば、宇宙の摂理というものが存在しているということにもなります。

私たちの日常は、まずは手の触れる範囲、それから見えたり聞こえたりする範囲、あるいは痛みや危険を感じる範囲といった部分に注意力や価値観の大半がつぎ込まれているのではないでしょうか。その先には、もっとグローバルなものが存在していることは、知ってはいても、出来ることなら見ないふり聞かないふりをしているのかもしれません。例えば、気候変動や、食糧問題、貧困問題なども入るかもしれません。
そして、それらのどの一つをとっても、宇宙の摂理といったものから逃れられるものなど一つもないということも厳然たる事実だと思うのです。
今、私たちは、新型コロナウイルスへの対応で右往左往しています。全世界に甚大な被害をもたらしたスペイン風邪は100年前のことです。前回の「2月2日節分」より最近のことなのです。私たちは、私たちが考えている以上に、過去の経験を生かすことが苦手なのかもしれないと思うのです。

( 2021.02.03 )

 

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何が足りないのか ・ 小さな小さな物語 ( 1394 )

2021-07-06 13:25:24 | 小さな小さな物語 第二十四部

「三高」などという言葉は、すでに死語になっているのかもしれませんが、かつて、彼氏の条件として、「高学歴・高収入・高身長」という言葉が使われることがありました。
まあ、言うのは勝手ですから、好きなように条件をつけるのに文句は言えませんが、この言葉は、私たちにいくつかの問題提起をしてくれるように思うのです。
まず一つは、この言葉は、主として女性が男性に望む条件だと思うのですが、これ、男女差別の色合いを感じませんか。もちろん、「女尊男卑」です。
そしてもう一つは、この「三高」を満たしていても、どうも魅力を感じないという男性は少なくないようです。今少し何かがほしい、どうも何かが欠けている、と感じるようなのです。

折から、五輪組織委員会会長の発言を巡っては、海外からも厳しい意見が寄せられています。それは、ごく当然のことでしょうから甘んじて受けざるを得ませんが、その中には、「世界経済フォーラムの2020年の男女平等指数で、日本が153カ国中の121位である」ことが紹介されていました。つまり、会長の発言は話にならないが、そもそも日本という国がそういう土壌の国なのだという意見が、何となく説得力を持っているように感じてしまうのが、辛いところです。
わが国は、神代の昔はむしろ女性上位の一面が強かったような記録も伝えられていますが、その後の歴史において、宗教、道徳、社会構造なども関係してか、確かに近世以来「男尊女卑」的な社会が続いてきたことは確かです。
しかし、現在の社会においては、相当高齢の人も含めて、総合的な能力面で、男性が女性より勝っていると考える人は、よほどの世間知らずか無知な人なのではないでしょうか。
しかし、世界が見るわが国は、「女性の活躍を押さえている国」で、それも相当極端な国として評価されている可能性があります。この評価を誤解だと思いたいのですが、五輪組織委員会のメンバー構成をはじめ、政界や経済界、公的な機関のほとんどで女性の登用が極端に少ないのは厳然たる事実です。経済フォーラムの評価は、正しいのかもしれません。
現在の私たちの多くは、女性蔑視などといった感情は全く抱いておりません。それにも関わらず、この状態なのは、何が足りないのでしょうか。

一年前から私たちを苦しめているコロナウイルスによる感染症は、ほぼすべての国で、大変な状態になってしまいました。ようやく、いくつかの国でワクチン投与が始まっており、劇的な効果が表れることを祈るばかりです。
そうした中で、わが国は、欧米諸国に比べて、感染者数、死亡者数ともに遙かに低い状態に押さえられています。また、医療体制は、施設面でも技術面でも、どの国にも引けを取らないものだと教えられてきました。ところが、欧米諸国より遙かに感染者数が少ない中で、すでに、医療体制は混乱しており、一部では崩壊状態にあります。一体、何が足らないのでしょうか。
同じような現象が、経済面でも見られます。コロナ対策でかなりの資金が投入されていますが、「わが国の財政は壊滅状態だ」とか、「後の世代に借金を残すのか」とか、「国民一人あたりの借金が幾ら幾らになった」といった言葉やニュースを目にします。でも、本当にわが国はそれほど貧しいのでしょうか。政府の財政が貧しいことは確かでしょうが、わが国は、29年連続で世界最大の債権国だそうなのです。これ、舵取りがまずいのか、無駄遣いが多すぎるのか、必要なところには資金を投入しないことにしているのか、いったい何が足らないのでしょうか。

コロナ禍の中で、生存していくのさえ厳しい状況の人が増えていると報じられています。わが国全体の経済状況も悪化しています。
そうした中で、その対策に、政府ばかりでなく、この一年は、地方自治体の首長の活躍も目立ちます。しかし、国民の多くは、漠然とした不安を抱え、もっと現実に収入源や家庭環境の激変に悩まされている人も少なくないようです。
データーからだけ見れば、コロナ禍のこの一、二年を別にすれば、その気になれば働く場所はあるはずですし、住む場所も地域を問わなければ空き家があふれています。ユニセフのCMを見ていますと、もっと質素な生活が出来るはずだと思うことは思います。
ただ、仕事であれ、住む場所であれ、生活水準であれ、現状に不満は抱いても、大胆に低下させる勇気は出せません。
そして、私たちは、漠然とした不安や不満をなかなか拭い去ることが出来ません。あと一つ、それが何なのかが分からないのですが、足らないように思えてならないのです。

( 2021.02.06 )

 

 

 




 

 

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歴史のロマン ・ 小さな小さな物語 ( 1395 )

2021-07-06 13:24:05 | 小さな小さな物語 第二十四部

コロナ禍の制約を受けながら、NHKの大河ドラマが無事完結しました。
明智光秀を主人公にした作品ですが、所々に新味を感じさせる傑作だったのではないでしょうか。
好き嫌いはともかく、明智光秀が主人公という戦国時代作品となれば、小説であれドラマであれ、若干斜に構えなくてはならない部分があるような気がします。
私自身も、明智光秀が登場する小説や映画やテレビドラマ、あるいは歴史書のような物は相当数接してきています。専門性は全くありませんが、興味本位の知識としては、ある程度持っているつもりで、このドラマが始まって以来、楽しく見させていただきました。
この種の作品の常として、架空の人物を登場させて、その人物にどれだけの役割を持たせるかということが重要なポイントの一つのようです。それともう一つは、主人公をどう描くかということはもちろん重要でしょうが、定番の人物、例えば、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康をどのような性格の人物として描くのか、そのほかにもよく知られた武将が大勢いますが、それぞれの人物の描き方が作品のレベルを決めるように思うのです。

戦国時代あたりの資料となれば、いわゆる「ネタ本」にあたる物はごく限られていますので、取捨選択の仕方が大きな意味を持つのでしょう。それら「ネタ本」とされる文献は、学問的にはとても一級資料とはいいがたいものでしょうから、ごくごく小さな資料でも、一級資料的な物が発見された場合には、その小さな資料が一つの作品の立ち位置を大きく動かせることがあるようです。
明智光秀に関しても、つい最近に、光秀の妻女の死亡日に関する新資料が発見されたようですが、果たして、今回のNHKの作品に影響を与えたのでしょうか。

NHKの作品の明智光秀は、秀吉との合戦で死去しなかったのではないかと匂わせる形で終えていますが、思い切った形を取ったものだと感心しました。
光秀生存説というのは、個人的には大好きな「想定」の一つです。特に、江戸幕府で重用された天海和尚こそ光秀の復活した姿だというのは、実に楽しい物です。
天海和尚は家康に重用され、1643年に死去していますが、行年は108歳という説があります。ただ、その前半生は全くというほど謎に包まれています。光秀の誕生年も未詳であり、若い頃の足跡も正確な物は分からないようです。二人の推定される誕生年には10年ほどの差があるようですが、怪僧天海が実は百二十歳だったとしても、驚くほどのことではないはずです。
天海 = 光秀という説は、古くからあるものですが、その根拠にされるものは、天海が創建に関わった日光東照宮の地に「明智平」がありますが、これは天海が命名したものであること。また、三代将軍家光の乳母である春日局は、光秀の重臣の娘であり、四代将軍の乳母も光秀の別の重臣の孫であることなど、光秀と徳川家が極めて近い関係のような気がすること、など幾つもあるようです。

天海 = 光秀 とよく似たスケールの大きな話としては、源義経 = チンギスハンというものもあります。こちらも、著名な作家の作品もあります。
歴史において、「もし、彼が死去しなければ」「もし、あの時こうしていたら」と言った空想が、よくわいてきます。詮無いことではありますが、悲劇的な生涯をたどった大好きな人物に対しては、そうしたことを思い描いてしまいます。それもまた、アマチュア歴史ファンにとっては、切なくも楽しいロマンです。
ただ、これが今現在の生活の中となれば、「もし、あの発言がなかったら」「もし、あんな行動を取らなければ」という反省は、ご本人以外には、切なさよりも腹立たしさが先立つように思うのですが。

( 2021.02.09 )

 

 

 

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余人を以て代え難し ・ 小さな小さな物語 ( 1396 )

2021-07-06 13:22:34 | 小さな小さな物語 第二十四部

『余人を以て代え難し』という言葉、なかなか複雑な雰囲気を持っている言葉だと思いませんか。
本来この言葉は、「その地位や職務について、他の人では務まらないほど大切な人物」といった意味を、少々オーバーに、少々格好をつけて言う場合に使うものだと思うのです。
しかし、最近も時々お目にかかることがありますが、ほとんどの場合、素直に受け取れないような気がしてならないのです。
例えば、「無理を通そうとしているとき」「適当な表現能力を持っていない場合」「自分の立場を守るため」「見え見えの忖度」「ベタベタのヨイショ」等々で、対象の人物を心から尊敬して使われている場面に出合ったことがないような気がします。

古来、およそ『余人を以て代え難し』という人物は存在しなかったようです。もちろん、そう表現された人物や、それらしい人物は数多く存在したようですが、その人物が亡くなったり、去って行ったからといって、歴史が消滅したということはないようです。
ある人物を失ったため、一つの団体が消滅したり、国家さえ形を変えてしまったという歴史は存在しています。しかし、だからといって、その「ある人物」が、本当に『余人を以て代え難し』だったのかといえば、どうやらそうではなく、団体や国家が消滅したことによって、辛い思いをした人はたくさんいるのでしょうが、反対に解放されたと感じる人も存在しているはずです。

わが国は、第二次世界大戦で壊滅的な状況に陥ったあと、奇跡といわれるほどの復活を遂げました。その要因は幾つもの理由が挙げられるのでしょうが、その中の一つは、焼け野原のような状態から復活を果たしていった企業群だと考えられます。
その理由も、社員や経営者の頑張りや、他国の支援、朝鮮動乱などの外部要因も大きかったと思われますが、そうした要因の一つに、占領軍による大企業を中心とした多くの企業経営者が追放されたことだという考え方があります。つまり、『余人を以て代え難し』と考えられていたような経営者が、数多くその地位から追放されたのです。それによって、一時的な混乱はあったとしても、その後のめざましい発展を遂げることが出来たのには、『余人を以て代え難し』とされてきたような人物が除かれたことが多くの企業の躍進につながった面があるのです。もちろん、追放されたあと復活した人物もたくさんいますが、動き出した組織を押さえ込むことが出来る人物は限られていたようです。

とはいえ、『余人を以て代え難し』という人物は存在しております。子供にとっての母親などはその典型的な例でしょう。
しかし、多くの場合は、特にそれが組織などにおける人間関係である場合、自らの役割に対して滅私奉公的な努力を否定するつもりなど全くありませんが、チームワークとか、組織のためであるとか、伝統であるとか、慣例であるとか、そうしたものに守られた環境は、一見力強く、自分も居心地がよいものですが、時には、自らの周囲を冷静に見渡すだけの知恵も持ちたいものです。
そして、『余人を以て代え難し』という言葉を用いる場合にはよほど注意しなければ、自らの未熟さをさらけ出すことになる可能性があるように思うのです。

( 2021.02.12 )

 

 

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「人の振り」はよく見えるが ・ 小さな小さな物語 ( 1397 )

2021-07-06 13:21:19 | 小さな小さな物語 第二十四部

世界中を巻き込んで、と言えば少々オーバーかもしれませんが、五輪組織委員会前会長の発言を巡る騒動は、わが国内のお決まりの騒動という段階を遙かに超えてしまって、広く世界に、わが国の未熟な面をさらけ出してしまいました。
前会長の辞職表明は遅すぎたといえますが、それ以上に、後継者を主導できると考えていたらしいことに驚きを感じました。かつて、首相就任に至る経緯の不明朗さをあれだけ叩かれたことを、すっかり忘れてしまっていたのでしょうか。

それにしても、今回の騒動は、私たちに幾つかの問題を提起してくれているように思われます。
まず一つは、ジェンダーに関する問題については、わが国は最後進国に位置しているらしいことが明確になりました。私たちの多くは、女性差別といった認識を抱いている人は極めて少数派だと思うのですが、「男と女は違うところがあり、それぞれが適性に応じた分野を担うべきだ」といった考えの持ち主は極めて多く、それがしばしば性差別につながることが理解できていない人が少なくないというのも事実なのでしょう。
もう一つは、今回の騒動に限ったことではないのですが、「君子は豹変する」というのは、つくづく本当だと思わせてくれました。某会長は、いったん今回の問題となった騒動は解決したと表明していながら、状況が深刻なことを感じると、見事なまでに立場を変えています。某知事も、いったんは前会長を励ましていたが、これも世論の流れを読んでか、見事に立場を変えてたと報道されています。

いずれにしても、誘致経緯や国立競技場建設に関してのトラブルなど、今回のオリンピック開催には、余りにもトラブルが多すぎる感があります。新型コロナウイルスの世界的な感染はわが国だけの責任ではないとしても、様々なトラブルの原因には、会長の発言に対して、当初は内部から何の発言もなかったことなどを考えますと、そのあたりにもいくばくかの問題が潜んでいるような気がしてなりません。
ただ、こうまでトラブルが続き、全世界にわが国の未熟さをさらけ出してしまった以上は、何とかして、このオリンピックは開催させるべきだという気がしてきています。私は、どちらかと言えば開催に消極的な考えを持っていましたが、今回の騒動を目の当たりにした上は、どういう形であれば東京大会を開催することが出来るのかを、次の組織委員会会長を中心に尽力してほしいと願っています。

わが国の政界や企業、スポーツ界や文化団体などにおいて、その役員などの女性の占める比率が余りに低すぎることが問題になっています。実際に厳然たる事実ですが、一部の組織を除けば、一朝一夕に改善させることは困難でしょう。
それは、この問題は、データーに出ている部分の修正を図れば解決するということではなく、社会構造、人権に関する教育など、わが国の民度の向上がベースになければ、改善できることではないはずだからです。
そして、少し冷静になって考えてみますと、前会長の発言を、鬼の首を取ったように言えるほどの民度が私たちの社会は持っているのでしょうか。もちろん、然るべき立場の人が人前で恥ずかしげもなくあのような言葉を発することは容認できませんが、私個人には、酒の場などで似たような発言をしたこともありました。
とかく、「人の振り」はよく見えるものです。ところが、「我が身」となればあれほどの経験を重ねた人でさえよく見えないようです。使い古された言葉のようですが、「人の振り見て我が振り直せ」の意味するところを噛みしめたいものです。

( 2012.02.15 )

 

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コロナですか? オリンピックですか? ・ 小さな小さな物語 ( 1398 )

2021-07-06 13:19:21 | 小さな小さな物語 第二十四部

「いよいよ」と表現するべきなのか、「ようやく」と表現するべきなのかは迷うところでが、わが国でも新型コロナウイルスワクチンの接種が始まりました。
世界全体では、すでに70ケ国以上で接種が行われているというのですから、何とも複雑な気持ちです。わが国は、感染者数が相当少ない方なので、『ワクチン、ワクチンと騒ぎなさんな』ということなのか、『必死に頑張ったが、ワクチン争奪戦に負けました』というのか、どちらなのでしょうか。もしかすると、『ワクチン接種を急いで、副反応で責任を問われるのは割に合わない』という考えの方々が主導権を握っているのかもしれない、などと思うのは、性格が悪すぎるのでしょうか。

それはともかく、医療従事者4万人に対して第一弾の接種が始まりました。そのうちの2万人の方々については、接種28日後までの副反応などの状況を追跡調査してくださるそうですから、少なくとも一般の人たちの接種が始まるまでには、このワクチンに対する、わが国としての相当のデーターが整うのではないでしょうか。
放送局のアンケート調査では、現時点でも、「ワクチン接種を受けるか」という質問に対して、様子を見て問題がなければ受けたいという人が半数を占めているそうですから、この調査の結果は多くの人に役立つことでしょう。
ただ、少し気になるところと言えば、「他の人の犠牲を伴う実験の結果をみてみたい」と言うのは、若干ずるさを感じますし、他国に大きく遅れての接種開始に対して、それほど大きな不満が出ていないのも、そうした考えの人が多いからなのかもしれません。まあ、私もその一人に近いのですが。

折から、五輪組織委員会の後任会長選出が注目を浴びています。その選考方法が透明性に欠けるなどという声も聞こえてきますが、何もかもさらけ出して、新会長候補が浮上した段階で『アラ探し』が始まると、引き受けてくださる方の質がどんどん下がってしまうような気もします。
それに、組織委員会の体質にも問題がある、などと言い出しますと、さらに混乱に拍車をかけてしまうような気がするのです。
現に、先の会長発言以来、多くのボランティアの方が辞退されたという報道もありますし、某県知事は、組織委員会や東京都などのコロナ対策が不満だとして、県内の聖火リレーの中止を考えている、といった意見も出てきています。オリンピック開催が、この感染症を軽視したような状態で前のめりになっていることに不愉快さを感じている人も少なくないのかもしれません。

そうした意見の善し悪しや、比率はともかくとして、ここに来て、『コロナですか? オリンピックですか?』ということが、再び問われているのかもしれません。
おそらく、多くの意見は、『コロナも、オリンピックも』と言うことなのかもしれませんが、さすがに現時点では、通常の形でオリンピック開催が出来ると考えている人はごくごく少数派でしょうが、実施するとなれば、従来の形から、ここを切ってここを縮小させてといった小手先の対策ではない、思い切った、史上初と言った思い切った発想による開催を考える必要があると思うのです。
おそらく、結論を出すまでに残されている時間は、一ヶ月あるかないかと思われますが、組織委員会の新会長には、そうした発想を主導していただきたいし、もしかすれば、「開催断念」というさらに大きな勇気が必要となる可能性も捨て去ることは出来ないでしょう。
新会長の責務は極めて大きいだけに、選ばれたときには、何として世論を挙げて支援したいものと思うのです。

( 2021.02.18 )

 

    

 

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