九色の鹿 ・ 今昔物語 ( 5 - 18 )
今は昔、
天竺に一つの山があった。その山の中に、体の色が九色で、角の色が白い鹿が住んでいた。
その国の人は、その山にこの鹿が住んでいるということを知らなかった。
その山の麓には、大きな河があった。その山には一羽の烏がいた。この鹿と仲良く長年過ごしてきた。
ある時のこと、この河を一人の男が渡ろうとしたが、水に溺れて沈んだり浮いたりしながら流され下って行った。危く死にかけていた。
男は木の枝に取り付いて流されながら大声で叫んだ。「山神・樹神・諸天・竜神よ、どうして私を助けようとしないのだ」と。
大声で叫んだが、その時はどこにも人がおらず助けられることがなかった。ところが、この山に住んでいるあの鹿が、河のほとりに来ていた。鹿はこの声を聞いて男に、「そこの人、恐れることはない。我が背中に乗って二つの角を掴まえよ。我はあなたを背に乗せて岸に着けてやろう」と言って、河の中を泳いでこの男を助けて岸に上がった。
男は命が助かったことを喜んで、鹿に向かって手を合わせて泣きながら言った。「今日我が命が助かったのは、あなたのお陰です。何を以って、この恩に報えばよいのでしょうか」と。
鹿は、「あなたは何かで以って我に報いることなどありません。ただ、我がこの山に住んでいるということを決して人に話さないでください。我が体の色は九色です。この世に二つとないものです。角の白いことは雪の如くです。人が我のことを知ったならば、毛皮や角を利用しようとして、きっと殺されてしまうでしょう。このことを恐れているゆえに、深き山に隠れていて住む所を決して人に知られないようにしています。ところが、あなたが叫ぶ声を微かに聞きましたので、同情してしまって出て行ってお助けしたのです」と言う。
男は鹿とその約束をして、泣きながら、人には話さないことを繰り返し承諾して別れた。
男は無事郷に帰り、月日を過ごすもこの事を人に話すことはなかった。
ところが、その国の后が夢の中に、大きな鹿が現れ、体の色は九色で、角の色は真っ白であった。夢から覚めた後、その色の鹿を得たいとの思いが募り、后は病になり寝込んでしまった。
国王が「どうして起きないのか」と仰せられると、后は国王に申し上げた。「わたくしの夢の中で、然々の鹿を見ました。あの鹿は、きっとどこかにいるはずです。その鹿を捕まえて、皮をはぎ角を取りたいと思います。大王、必ずあの鹿を探し出してわたくしにお与えください」と。
王は直ちに宣旨を発せられた。「もし然々の鹿を探し出して献上する者には、金銀等の財宝を与え、望みのものを授けよう」と。
すると、あの鹿に助けらた男は、この宣旨の内容を聞くと、欲望を抑えきれず、たちまち鹿の恩を忘れてしまった。
そして国王に、「どこそこの国のどこそこの山に、探し求められています九色の鹿がおります。私はその場所を知っております。早速軍平を給わりまして、捕らえて献上させていただきます」と申し上げた。
大王はこの申し出を聞いて喜ばれ、「わしが軍平を率いてその山に向かおう」と仰せられた。
すぐに大軍を引き連れて彼の山に行幸なさった。あの男は御輿に付き従い、道案内をした。やがてその山に入られた。
九色の鹿は全くこの事を知らずに、住処の洞穴でぐっすりと寝入っていた。
その時、あの仲よくしている烏がこの行幸を見て、驚きあわてふためいて鹿のもとに飛んで行き、声高く鳴いて起こそうとした。しかし、鹿は全く目覚めない。烏は木から下りて近寄り、鹿の耳に喰いついて引っ張ると、鹿は目覚めた。
烏は鹿に、「国の大王が、鹿の色を珍重されて、大軍を引き連れてこの谷を包囲された。もはや逃げるとしても、とても生きのびることは難しい」と伝えると、鳴きながら飛び去った。
鹿が目覚めて見てみると、確かに大王が大軍を引き連れて来ていた。とても逃れる術がない。そこで、鹿は大王の御輿の前に歩み寄った。兵士共は、それぞれが矢をつがえて射ようとした。
その時大王は、「皆の者、しばらくこの鹿を射てはならない。鹿の体を見るにつけ、ただの鹿ではない。軍勢に恐れることもなくわしの輿の前にやって来た。しばらくは自由にさせて、鹿がすることを見ていよう」と仰せられた。
そこで兵士共は、矢を外して見守った。鹿は大王の前にひざまづいて申し上げた。「我はこの体の色を求められることを恐れて、長年深き山に隠れています。決して知っている人はおりません。大王は、如何にして我が棲み処をお知りになられたのか」と。
大王は、「わしはお前の棲み処は知らなかった。ところが、この輿のそばにいる顔にあざのある男の申し出によりやって来たのである」と仰せられた。
鹿は王の仰せを聞いて、御輿のそばにいる男を見てみると、顔にあざがあり、自分が助けた男であった。鹿は、その男に向かって言った。「あなたの命を助けた時、それを喜んで、我が所在を人には告げないと、繰り返し約束してきた人でしょう。それなのに、その恩を忘れて、今、大王に申し上げて我を殺させようとするのはどういうわけですか。あなたが水に溺れて死のうとしていた時、我は命を顧みず泳いで行って、岸に辿り着かせました。それなのに、恩を知らないとは、この上なく恨みます」と言って、涙を流して激しく泣いた。男は、鹿の言う事を聞いて、一言も答えることができなかった。
その時、大王は、「今日より後、国内で鹿を殺してはならない。もしこの宣旨にそむき、鹿一頭でも殺す者があれば、その者は死刑、その家は断絶させる」と仰せになって、軍勢を引き上げて、宮殿にお還りになった。
この後、国に適量の雨が降り、大風は吹かなかった。国内に病(疫病を指すか?)はなく、五穀豊穣にして貧しい人はなかった。
されば、恩を忘れる者は人の中にいる。人を助ける者は獣の中にいる。これは、今も昔も有ることである。あの九色の鹿は、今の釈迦仏であられる。仲の良い烏は、今の阿難(アナン・釈迦の高弟で、従兄弟にあたる。)である。后というのは、今の孫陀利(ソンダリ・釈迦の弟の難陀の妻。)である。水に溺れた男は、今の提婆達多(ダイバダッタ・釈迦の従弟で阿難と兄弟ともされる。途中から教団を離脱し、仏敵視されることが多い。)である、
となむ語り伝へたるとや。
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