女帝輝く世紀 ( 13 )
皇極から斉明へ
先帝皇極に皇太子中大兄皇子、さらには皇后間人皇女にも去られた孝徳天皇は、失意のうちに崩御する。
群臣の多くも難波の地を離れたとされているから、孝謙天皇が行なおうとした「大化の改新」は多くの賛同を得ることが出来なかったのかもしれない。
しかし、日本書紀の記録からだけ判断すれば、これらの行動は中大兄皇子の天皇に対する謀反であり、先帝皇極の身柄は、皇族や群臣たちを抑えるための人質のように見ることも出来る。
孝徳天皇の崩御により、当然後継問題が起きたと考えられる。しかし日本書紀は、全くそのような事には触れておらず、孝徳天皇崩御の四十日後には皇祖母尊(スメミオヤノミコト)になっていた皇極天皇が、斉明天皇として即位したことをさらりと述べているのである。
この時点では、これまでの中大兄皇子を中心とした勢力による暗躍もあって、中大兄皇子に対抗する皇位継承者はいなかったと思われるが、そのような事も記されておらず、ごく当然のように斉明天皇が誕生している。一度退位した天皇が再び即位することを重祚(チョウソ)というが、わが国最初の重祚であり、譲位・重祚ともこの天皇が初めての例を作ったことになる。因みに、譲位される天皇はこの後多く登場するが、重祚された天皇はこの天皇以外には、この後述べることになる孝謙(称徳)天皇だけである。共に女性天皇である。( なお、後醍醐天皇も二度帝位についているので重祚だとする意見もあるが、これは南北朝の混乱の中のことで、意味合いが違うと考える。)
それはともあれ、皇極天皇は今度は斉明天皇として統治者となった。
この天皇の御代は、皇極朝が三年半、斉明朝が六年半ほどで、孝徳天皇の治世九年余を挟んで合計十年ほどである。結果論であるが、皇極天皇は、最大の支援者であった蘇我入鹿暗殺事件を受けて、「とてもやってられない。じゃあ、お前がやりなさい」とばかりに、事件の首謀者である息子の中大兄皇子に皇位を投げ出したのであるが、群臣はとても中大兄皇子の即位を認めることが出来ず、妥協の産物として孝徳天皇が誕生し皇極の意志を引き継いだと思われるが、政治手腕はともかく、皇族や群臣たちの信望はとても皇極天皇には及ばず、内乱状態となり失意のうちに崩御してしまった。
「仕方ありませんねぇ」とばかりに、前例のない斉明即位という重祚となったのは、内乱に近い状態に追い込んだ首謀者である中大兄皇子の即位は、全く容認されることではなかったのではないかと思われる。個人的な見解であるが。
さて、再び飛鳥の地に戻り、板蓋宮(イタブキノミヤ)で即位した斉明天皇の御代について、日本書紀の記述をもとに気になる事項を挙げてみよう。
まず、日本書紀の斉明天皇の巻は、『天皇は、初めに用明天皇の孫の高向王(タカムカオウ)に嫁ぎ、漢皇子(アヤノミコ)を生んだ。後に舒明天皇に嫁いで、二男一女を生んだ・・・』という書き出しになっている。
皇極天皇の巻にはこの記述はなく、どうして斉明天皇即位のところで記述した日本書紀編纂者の意図は何だったのだろうか。そして、この高向王とは、漢皇子とは歴史という舞台でどういう役柄を演じているのだろうか。何らかの意図で身を隠して大役を果たしているのか、それともこのまま消えてしまっているのか・・・。この天皇の最大の謎のように思われる。
斉明天皇の御代を通じて、朝鮮半島諸国との関係は厳しい時代が続いたようである。
古くから朝鮮半島の諸国を通じて、中国、あるいはさらに西方の世界との交流は、現代人が考えるより盛んであったようである。それは文献に残されているもの以上に、発掘される土器や器物が物語っているようである。さらには、人的な交流となれば、この天皇の御代には多くの帰化人がいたであろうし、すでに土着が進み有力な豪族や官人・貴族、皇族にもその血統は加わっていたと考えられる。大和朝廷が、執拗なまでに朝鮮半島諸国との交流や戦いを推し進めたのには、単なる利害ではなく人的な結びつきがあったと推定できる。そして、この頃には、勢力争いということでは大和朝廷が劣勢になりつつあったようだ。
当然それが、国内政治、皇族や豪族間の勢力バランスにも少なからぬ影響を与えていたはずである。
即位した板蓋宮は、その年の冬に火災に遭い、飛鳥川原宮(アスカノカワハラノミヤ)に遷られた。この宮は以前からあったもののようで、翌年、やはり飛鳥の岡本に新しい宮殿を建設して遷った。
これが切っ掛けになったのか、あるいは何らかの意図があったのか、あるいは誰かの進言によるものなのか分からないが、この後多くの事業を行ったようである。日本書紀には、「事を興すことを好みたまひ・・・」と記されていて、工夫三万人、石垣工夫七万人余を投入した溝を掘る工事を、「狂心の渠」と当時の人々が言ったと記している。
また、孫の建王(タケルノミコ)の死去に関して、哀歌を含め詳しく記されている。この御子は中大兄皇子と蘇我倉山田麻呂の娘の間に生まれ、中大兄皇子にとっては数少ない男子で、有力な後継者と考えられるが、口がきけず八歳で夭折したのである。斉明天皇はこの孫を溺愛していたようであるが、「万歳千秋の後(天皇の死後を指す言葉)に、必ず我が陵に合葬せよ」とまで言い残し、日本書紀も多くの紙面を割いている。天皇の悲しみの大きさは理解できるとしても、日本書紀を歴史書として考えるならば、単なる一王子死去の記事としては、何か裏があるように疑ってしまうのである。
そして今一つ、古代史上名高い悲劇の一つともいえる有間皇子が十八歳の若さで刑死させられたのもこの天皇の御代である。有間皇子は孝徳天皇の皇子であるが、謀反の罪による処罰というのは、この時代の謀殺の常套手段のようなものである。当然のように、その首謀者は中大兄皇子と考えられるが、こんな若い皇子さえも、自分の立場を侵す恐怖の対象者と考えていたのであろうか。この人物を理解することも難しい。
☆ ☆ ☆
皇極から斉明へ
先帝皇極に皇太子中大兄皇子、さらには皇后間人皇女にも去られた孝徳天皇は、失意のうちに崩御する。
群臣の多くも難波の地を離れたとされているから、孝謙天皇が行なおうとした「大化の改新」は多くの賛同を得ることが出来なかったのかもしれない。
しかし、日本書紀の記録からだけ判断すれば、これらの行動は中大兄皇子の天皇に対する謀反であり、先帝皇極の身柄は、皇族や群臣たちを抑えるための人質のように見ることも出来る。
孝徳天皇の崩御により、当然後継問題が起きたと考えられる。しかし日本書紀は、全くそのような事には触れておらず、孝徳天皇崩御の四十日後には皇祖母尊(スメミオヤノミコト)になっていた皇極天皇が、斉明天皇として即位したことをさらりと述べているのである。
この時点では、これまでの中大兄皇子を中心とした勢力による暗躍もあって、中大兄皇子に対抗する皇位継承者はいなかったと思われるが、そのような事も記されておらず、ごく当然のように斉明天皇が誕生している。一度退位した天皇が再び即位することを重祚(チョウソ)というが、わが国最初の重祚であり、譲位・重祚ともこの天皇が初めての例を作ったことになる。因みに、譲位される天皇はこの後多く登場するが、重祚された天皇はこの天皇以外には、この後述べることになる孝謙(称徳)天皇だけである。共に女性天皇である。( なお、後醍醐天皇も二度帝位についているので重祚だとする意見もあるが、これは南北朝の混乱の中のことで、意味合いが違うと考える。)
それはともあれ、皇極天皇は今度は斉明天皇として統治者となった。
この天皇の御代は、皇極朝が三年半、斉明朝が六年半ほどで、孝徳天皇の治世九年余を挟んで合計十年ほどである。結果論であるが、皇極天皇は、最大の支援者であった蘇我入鹿暗殺事件を受けて、「とてもやってられない。じゃあ、お前がやりなさい」とばかりに、事件の首謀者である息子の中大兄皇子に皇位を投げ出したのであるが、群臣はとても中大兄皇子の即位を認めることが出来ず、妥協の産物として孝徳天皇が誕生し皇極の意志を引き継いだと思われるが、政治手腕はともかく、皇族や群臣たちの信望はとても皇極天皇には及ばず、内乱状態となり失意のうちに崩御してしまった。
「仕方ありませんねぇ」とばかりに、前例のない斉明即位という重祚となったのは、内乱に近い状態に追い込んだ首謀者である中大兄皇子の即位は、全く容認されることではなかったのではないかと思われる。個人的な見解であるが。
さて、再び飛鳥の地に戻り、板蓋宮(イタブキノミヤ)で即位した斉明天皇の御代について、日本書紀の記述をもとに気になる事項を挙げてみよう。
まず、日本書紀の斉明天皇の巻は、『天皇は、初めに用明天皇の孫の高向王(タカムカオウ)に嫁ぎ、漢皇子(アヤノミコ)を生んだ。後に舒明天皇に嫁いで、二男一女を生んだ・・・』という書き出しになっている。
皇極天皇の巻にはこの記述はなく、どうして斉明天皇即位のところで記述した日本書紀編纂者の意図は何だったのだろうか。そして、この高向王とは、漢皇子とは歴史という舞台でどういう役柄を演じているのだろうか。何らかの意図で身を隠して大役を果たしているのか、それともこのまま消えてしまっているのか・・・。この天皇の最大の謎のように思われる。
斉明天皇の御代を通じて、朝鮮半島諸国との関係は厳しい時代が続いたようである。
古くから朝鮮半島の諸国を通じて、中国、あるいはさらに西方の世界との交流は、現代人が考えるより盛んであったようである。それは文献に残されているもの以上に、発掘される土器や器物が物語っているようである。さらには、人的な交流となれば、この天皇の御代には多くの帰化人がいたであろうし、すでに土着が進み有力な豪族や官人・貴族、皇族にもその血統は加わっていたと考えられる。大和朝廷が、執拗なまでに朝鮮半島諸国との交流や戦いを推し進めたのには、単なる利害ではなく人的な結びつきがあったと推定できる。そして、この頃には、勢力争いということでは大和朝廷が劣勢になりつつあったようだ。
当然それが、国内政治、皇族や豪族間の勢力バランスにも少なからぬ影響を与えていたはずである。
即位した板蓋宮は、その年の冬に火災に遭い、飛鳥川原宮(アスカノカワハラノミヤ)に遷られた。この宮は以前からあったもののようで、翌年、やはり飛鳥の岡本に新しい宮殿を建設して遷った。
これが切っ掛けになったのか、あるいは何らかの意図があったのか、あるいは誰かの進言によるものなのか分からないが、この後多くの事業を行ったようである。日本書紀には、「事を興すことを好みたまひ・・・」と記されていて、工夫三万人、石垣工夫七万人余を投入した溝を掘る工事を、「狂心の渠」と当時の人々が言ったと記している。
また、孫の建王(タケルノミコ)の死去に関して、哀歌を含め詳しく記されている。この御子は中大兄皇子と蘇我倉山田麻呂の娘の間に生まれ、中大兄皇子にとっては数少ない男子で、有力な後継者と考えられるが、口がきけず八歳で夭折したのである。斉明天皇はこの孫を溺愛していたようであるが、「万歳千秋の後(天皇の死後を指す言葉)に、必ず我が陵に合葬せよ」とまで言い残し、日本書紀も多くの紙面を割いている。天皇の悲しみの大きさは理解できるとしても、日本書紀を歴史書として考えるならば、単なる一王子死去の記事としては、何か裏があるように疑ってしまうのである。
そして今一つ、古代史上名高い悲劇の一つともいえる有間皇子が十八歳の若さで刑死させられたのもこの天皇の御代である。有間皇子は孝徳天皇の皇子であるが、謀反の罪による処罰というのは、この時代の謀殺の常套手段のようなものである。当然のように、その首謀者は中大兄皇子と考えられるが、こんな若い皇子さえも、自分の立場を侵す恐怖の対象者と考えていたのであろうか。この人物を理解することも難しい。
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