雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

歴史散策  女帝輝く世紀 ( 13 ) 

2017-02-22 08:42:18 | 歴史散策
          女帝輝く世紀 ( 13 )

皇極から斉明へ

先帝皇極に皇太子中大兄皇子、さらには皇后間人皇女にも去られた孝徳天皇は、失意のうちに崩御する。
群臣の多くも難波の地を離れたとされているから、孝謙天皇が行なおうとした「大化の改新」は多くの賛同を得ることが出来なかったのかもしれない。
しかし、日本書紀の記録からだけ判断すれば、これらの行動は中大兄皇子の天皇に対する謀反であり、先帝皇極の身柄は、皇族や群臣たちを抑えるための人質のように見ることも出来る。

孝徳天皇の崩御により、当然後継問題が起きたと考えられる。しかし日本書紀は、全くそのような事には触れておらず、孝徳天皇崩御の四十日後には皇祖母尊(スメミオヤノミコト)になっていた皇極天皇が、斉明天皇として即位したことをさらりと述べているのである。
この時点では、これまでの中大兄皇子を中心とした勢力による暗躍もあって、中大兄皇子に対抗する皇位継承者はいなかったと思われるが、そのような事も記されておらず、ごく当然のように斉明天皇が誕生している。一度退位した天皇が再び即位することを重祚(チョウソ)というが、わが国最初の重祚であり、譲位・重祚ともこの天皇が初めての例を作ったことになる。因みに、譲位される天皇はこの後多く登場するが、重祚された天皇はこの天皇以外には、この後述べることになる孝謙(称徳)天皇だけである。共に女性天皇である。( なお、後醍醐天皇も二度帝位についているので重祚だとする意見もあるが、これは南北朝の混乱の中のことで、意味合いが違うと考える。)

それはともあれ、皇極天皇は今度は斉明天皇として統治者となった。
この天皇の御代は、皇極朝が三年半、斉明朝が六年半ほどで、孝徳天皇の治世九年余を挟んで合計十年ほどである。結果論であるが、皇極天皇は、最大の支援者であった蘇我入鹿暗殺事件を受けて、「とてもやってられない。じゃあ、お前がやりなさい」とばかりに、事件の首謀者である息子の中大兄皇子に皇位を投げ出したのであるが、群臣はとても中大兄皇子の即位を認めることが出来ず、妥協の産物として孝徳天皇が誕生し皇極の意志を引き継いだと思われるが、政治手腕はともかく、皇族や群臣たちの信望はとても皇極天皇には及ばず、内乱状態となり失意のうちに崩御してしまった。
「仕方ありませんねぇ」とばかりに、前例のない斉明即位という重祚となったのは、内乱に近い状態に追い込んだ首謀者である中大兄皇子の即位は、全く容認されることではなかったのではないかと思われる。個人的な見解であるが。

さて、再び飛鳥の地に戻り、板蓋宮(イタブキノミヤ)で即位した斉明天皇の御代について、日本書紀の記述をもとに気になる事項を挙げてみよう。
まず、日本書紀の斉明天皇の巻は、『天皇は、初めに用明天皇の孫の高向王(タカムカオウ)に嫁ぎ、漢皇子(アヤノミコ)を生んだ。後に舒明天皇に嫁いで、二男一女を生んだ・・・』という書き出しになっている。
皇極天皇の巻にはこの記述はなく、どうして斉明天皇即位のところで記述した日本書紀編纂者の意図は何だったのだろうか。そして、この高向王とは、漢皇子とは歴史という舞台でどういう役柄を演じているのだろうか。何らかの意図で身を隠して大役を果たしているのか、それともこのまま消えてしまっているのか・・・。この天皇の最大の謎のように思われる。

斉明天皇の御代を通じて、朝鮮半島諸国との関係は厳しい時代が続いたようである。
古くから朝鮮半島の諸国を通じて、中国、あるいはさらに西方の世界との交流は、現代人が考えるより盛んであったようである。それは文献に残されているもの以上に、発掘される土器や器物が物語っているようである。さらには、人的な交流となれば、この天皇の御代には多くの帰化人がいたであろうし、すでに土着が進み有力な豪族や官人・貴族、皇族にもその血統は加わっていたと考えられる。大和朝廷が、執拗なまでに朝鮮半島諸国との交流や戦いを推し進めたのには、単なる利害ではなく人的な結びつきがあったと推定できる。そして、この頃には、勢力争いということでは大和朝廷が劣勢になりつつあったようだ。
当然それが、国内政治、皇族や豪族間の勢力バランスにも少なからぬ影響を与えていたはずである。

即位した板蓋宮は、その年の冬に火災に遭い、飛鳥川原宮(アスカノカワハラノミヤ)に遷られた。この宮は以前からあったもののようで、翌年、やはり飛鳥の岡本に新しい宮殿を建設して遷った。
これが切っ掛けになったのか、あるいは何らかの意図があったのか、あるいは誰かの進言によるものなのか分からないが、この後多くの事業を行ったようである。日本書紀には、「事を興すことを好みたまひ・・・」と記されていて、工夫三万人、石垣工夫七万人余を投入した溝を掘る工事を、「狂心の渠」と当時の人々が言ったと記している。

また、孫の建王(タケルノミコ)の死去に関して、哀歌を含め詳しく記されている。この御子は中大兄皇子と蘇我倉山田麻呂の娘の間に生まれ、中大兄皇子にとっては数少ない男子で、有力な後継者と考えられるが、口がきけず八歳で夭折したのである。斉明天皇はこの孫を溺愛していたようであるが、「万歳千秋の後(天皇の死後を指す言葉)に、必ず我が陵に合葬せよ」とまで言い残し、日本書紀も多くの紙面を割いている。天皇の悲しみの大きさは理解できるとしても、日本書紀を歴史書として考えるならば、単なる一王子死去の記事としては、何か裏があるように疑ってしまうのである。

そして今一つ、古代史上名高い悲劇の一つともいえる有間皇子が十八歳の若さで刑死させられたのもこの天皇の御代である。有間皇子は孝徳天皇の皇子であるが、謀反の罪による処罰というのは、この時代の謀殺の常套手段のようなものである。当然のように、その首謀者は中大兄皇子と考えられるが、こんな若い皇子さえも、自分の立場を侵す恐怖の対象者と考えていたのであろうか。この人物を理解することも難しい。

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歴史散策  女帝輝く世紀 ( 14 )

2017-02-22 08:41:28 | 歴史散策
          女帝輝く世紀 ( 14 )

中大兄皇子と大海人皇子

斉明天皇の最晩年、斉明天皇七年(661)一月、六十七歳の女帝は筑紫に出陣した。かねて支援していた百済が新羅・唐の連合軍により滅ぼされてしまったため、これを救援し復活させるためであった。軍勢には、中大兄皇子、大海人皇子(オオアマノミコ)らに加え、大海人皇子の妻である太田皇女・鸕野皇女(ウノノヒメミコ・後の持統天皇)等の女性も引き連れていた。当時は女性も先陣に加わることも珍しいことではなかったようである。かの有名な額田王(ヌカタノオオキミ)も加わっていたらしい。

この出陣の様子を見ると、幾つかのことが想像できる。
まず、天皇が出陣するからには、当然総大将は天皇であろうが、老女帝にそれだけの実力が備わっていたのであろうか。まさか武力が優れていたとは思えなかったが、欠かすことの出来ない霊力を有していたのかもしれない。
今一つは、おそらく中大兄皇子の思惑からであろうが、天皇を飛鳥に残しておくことに危険を感じたのではないだろうか。数多くの謀略を駆使してきただけに、自分に対する危険にも敏感であったと思われる。つまり、天皇の出陣は、中大兄皇子の身の安全のためであった可能性が高い。
斉明天皇は遥々筑紫に下向したが、さらに朝鮮半島にまで向かうつもりがあったのかどうかは分からないが、七月に崩御する。波乱多い天皇の崩御の地が九州であったことに哀れを感じる。

斉明天皇の崩御を受けて、「皇太子、素服(ソフク・白い喪服)して称制(ショウセイ・天子の後継者が即位せずに政務を執ること)したまふ」と日本書紀に記されている。
当時、天皇崩御から次期天皇即位まで数か月かかるのはふつうで、一年を越えることも珍しくなかった。しかし、中大兄皇子が天智天皇として即位するのまで、六年半を要しているのである。女帝を筑紫まで下向させるほど海外との関係は厳しい状態であったと考えられるが、即位が遅れたのはそのためとは考えにくい。また、次期皇位を狙うと考えられる人物は、すでに謀略に遭って世を去っており、中大兄皇子が即位するのに何の障害もないはずである。
考えられることとしては、皇位は、自分が就くと言って就けるものではなく、当時は群臣の推挙を必要としていたらしいことである。彼には、それが無かったと考えるのが妥当のように考えられる。

称制から五年余を経た(667)三月に中大兄皇子は近江大津宮に遷都を行なった。そして、その翌年一月、ついに即位する。天智天皇の誕生である。
遷都の時期の切っ掛けは、二月に斉明天皇と間人皇女(ハシヒトノヒメミコ・孝徳天皇の皇后で、中大兄皇子の妹に当たる)を、御陵に合葬したことのようである。しかし実際は、朝鮮半島における大和朝廷軍の敗戦を受けて、群臣たちの非難、不満が抑えきれなかったためと考えられる。日本書紀にも、「万民は遷都を願わなかった」と記している。
つまり、近江への遷都には、群臣のすべてが従わなかったと考えられ、近江の地においてはじめて群臣の推挙を受ける形が整ったと考えられる。
日本書紀は、天智天皇即位後について相当の紙数を割いている。また、皇極天皇の御代の頃から、まるで政権の中核にあったかの印象もあるが、正式の天皇としての治世期間は四年に過ぎないのである。

天智十年(称制も加えている。671)九月に天智天皇は病気になった。
十月十七日、病はいよいよ重くなり、大海人皇子を呼び寄せて言った。「自分の病は重い。後事をそなたに託したい」と。
大海人皇子は答えた。「どうぞ、天下のことは大后(オオキサキ・倭姫大后)に付託され、大友王(オオトモノオオキミ)にすべての政務を執り行うように申されてください。私は、天皇の為に出家して修業したいと願っています」と。
天皇が許可すると、大海人皇子は内裏の仏殿の南に出て髭や髪を剃り落とした。天皇は袈裟を贈った。
十九日に、大海人皇子は天皇と面会し、吉野に参って仏道修業をしたいと願い出た。天皇の許しが出ると、ただちに吉野に向かった。大臣たちは宇治まで見送って引き返した。

大海人皇子は天智天皇の皇太子の地位にあった。当然後継者の最有力者と目されていたと考えられる。しかし、天皇は実子の大友皇子を太政大臣に就かせており、この皇子に継がせたい気持ちを持っていることを大海人皇子は察していた。そして、天智天皇という人物が、目的のためには手段を選ばないことを数多く見てきていたはずである。
大海人皇子は、妻子や一族や舎人たちを供に連れて、近江脱出に成功したのである。その妻子の中には、天智天皇の娘であり正妃である、後の持統天皇も同道していた。

中大兄皇子と大海人皇子は、父母を同じくした兄弟とされている。父は舒明天皇、母は皇極天皇(斉明天皇)である。日本書紀には大海人皇子を「大皇弟(ヒツギノミコ)」と記されているので、中大兄皇子が兄、大海人皇子が弟ということになるが、これがどうも断定しがたい。
中大兄皇子の生年は、西暦626年で、定説と考えられている。一方の大海人皇子の生年は、文献にある死去の時の年齢等から推察して、622年、623年、631年という説があり、いずれも通説の域には達していない。つまり、二人の年齢は、どちらが上とは断定できないのである。
大海人皇子の幼少期の記録は少なく、どうも謎めいている。皇極天皇が最初に嫁いだ高向王との間の御子・漢皇子(アヤノミコ)こそ大海人皇子なのだという研究者があり、個人的には強く引かれる。もし、そうでないとしても、二人は異父兄弟であった可能性があり、大海人皇子には、飛鳥、あるいは尾張あたりの豪族に影響を持つ人物がいた可能性は高いと思われる。
皇極天皇(斉明天皇)が設けた二人の皇子は、やがて、壬申の乱へと突き進んでいくのである。

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歴史散策  女帝輝く世紀 ( 15 )

2017-02-22 08:40:36 | 歴史散策
          女帝輝く世紀 ( 15 )

壬申の乱

壬申の乱は、天智天皇崩御後、その跡を継いだ第一皇子の大友皇子率いる近江朝廷軍と、吉野に隠遁していた天智天皇の実弟とされる大海人皇子が率いる地方豪族を中心とした勢力とが激突した、古代における最大の内乱である。
動員された兵力は、双方共に二万とも三万ともいわれ、当時としてはとてつもない兵士が動員されたものであったらしい。

大友皇子は、この時二十四歳。天智天皇の第一皇子とされているが、天智天皇は数多くの子女を設けており、いわゆる長男という意味ではなく、身分的に最上位の皇子という意味であろう。ただ、当時の常識として、皇位は父から子へと自動的に相伝されるものではなく、兄弟あるいは皇后も有力候補者であった。それまでの即位時の天皇の年齢は、三十歳以下というのは少なく、兄弟への相伝というのが多いのである。
それに、大友皇子の母は皇女ではなく、いわゆる卑母と呼ばれる身分の女性であったから、簡単に皇位を継承できる立場ではなかった。現在、大友皇子は第三十九代弘文天皇として認知されているが、それは明治時代に入ってからのことである。正式に即位したという説もあるようだが、いくつかの条件を考えれば、事実とは考えにくい。

因みに、天智天皇には多くの妻に当たる女性がいるが、皇女が一人もいないというのも不思議であり、この天皇の本性が見えるような気もする。皇后の倭姫王の父は古人大兄皇子なので、舒明天皇の孫に当たる皇族の一員である。同時に、古人大兄皇子は天智天皇の義兄であり、謀反の罪で中大兄皇子(天智天皇)に討たれている。後の持統天皇らを儲けた遠智娘(オチノイラツメ)の父は蘇我山田石川麻呂で蘇我本宗家が滅亡した後は族長の地位にある有力者であった。この人物からは今一人姪娘(メイノイラツメ)が妻となっていて、後の元明天皇らを儲けている。
この後の、皇位継承者には天智天皇の血脈が伝えられていくが、母系でいえば、蘇我氏の色が強いともいえる。しかし、この石川麻呂も、乙巳の変で天智天皇に味方しながら、四年後には謀略にかかり自害に追い込まれているのである。
その他にも多くの妻がいたと考えられるが、大友皇子の母である伊賀采女宅子娘(イガノウネメヤカコノイラツメ)をはじめ、有力豪族の娘ではあるが皇族とは縁の薄い出自であったようだ。

さて、一方の大海人皇子であるが、一族と舎人などの供と共に近江を離れ吉野宮に入ったが、この時、左大臣蘇我赤兄(ソガノアカエ)らが見送ったが、これは、儀礼的なことよりも、間違いなく吉野に向かうのを確認するためであったと考えられる。近江の都近くで兵を挙げられる危険を感じていたのかもしれない。実際に日本書紀には、ある人は「虎に翼を着けて放った」と言ったとし、また吉野に着いた時には、大海人皇子は、諸々の舎人を集めて「自分はこれから仏道修行を行う。そこで、私に従って修業しようと思う者は留まれ。もし朝廷に仕えて名を成そうと思う者は引き返して宮廷に仕えよ」と言ったが、誰一人去る者はいなかったという。
この時、舎人がどれほどいたのか分からないが、皇太子付の舎人の定員は六百人とされていたので、おそらくそれに近い数百人はいたと考えられ、壬申の乱では舎人たちが活躍している。
つまり、近江朝廷は大海人皇子の謀反を心配し、大海人皇子自身もその気十分だっと考えられるが、重病の天智天皇は簡単に虎を野に放ってしまったのである。
数多くの謀略を重ねてきたと考えられる天智天皇は、最後の最後で判断を誤ったように思うのである。

壬申の乱は、当時しては広範囲、かつ大兵力の激突となったが、戦いの模様を詳述することは本稿の目的ではないので割愛するが、迅速な動きと美濃などの地方豪族を味方につけた大海人皇子方が勝利する。大海人皇子が吉野を出てから一か月余りで近江朝廷軍は壊滅、大友皇子も死に追い込まれている。
この結果、大海人皇子は天武天皇として即位することになるが、両親を同じくする兄弟とされる中大兄皇子と大海人皇子は、もっと穏やかな形で皇位継承を成すことが出来なかったのだろうか。壬申の乱に至った原因を少し探ってみよう。

まず、はっきりしていることは、他に様々な要因があるとしても、直接的な原因は、天智天皇の実子である大友皇子と大皇弟(ヒツギノミコ)あるいは皇太子とされていた大海人皇子との皇位争いという、ごくごく単純なものといえる。そして、当時の常識としては大友皇子に皇位を継がせるための群臣の推挙を受けられないことは承知していながら、天智天皇が大海寺皇子を謀殺することなく野に放ってしまったことが大友皇子を滅亡に追い込んでしまったのである。

あるいは、そもそも天智天皇の近江への遷都には不満をいだく豪族・群臣は多かったことが、皇族を含めた朝廷を二分させる要素を含んでいた可能性があったのかもしれない。さらに言えば、遷都だけでなく、それまでの天智天皇つまり中大兄皇子の謀略はあまりにもひどく、鬱屈した思いの勢力が大海人皇子支持に回っていた可能性もある。

そして、どうしても、中大兄皇子と大海人皇子の関係の謎が浮かび上がってくる。
日本書紀には、中大兄皇子は早くから登場してきているが、大海人皇子の消息は、中大兄皇子つまり天智天皇の最晩年までは極めて断片的である。中大兄皇子は、早くから敵対勢力、あるいは将来敵対勢力になり得る相手を主として謀略を以って滅亡させている。しかし、大海人皇子は一度もその対象になっていない。大海人皇子は献身的に兄に仕え続けていたのか、あるいは別の理由があるのか・・・。私に別の理由があるように思われてならない。何も立証できないが。

さらに、この二人の関係を語る時、必ず登場してくるのが、額田王(ヌカタノオオキミ)である。
この古代史のトップクラスのヒロインは、最初は大海人皇子に嫁ぎ十市皇女(トイチノヒメミコ)を儲けていたが、その後中大兄皇子の妃になっている。ただ、その後も額田王と大海人皇子の関係は微妙なものであったらしく、これが壬申の乱につながる下地になっているという説がある。これは単なる憶測ではなく、万葉集に残されている二人の歌は、それが恋愛歌を収めている「相聞」の部ではなく「雑歌」の部に乗せられているからといって、二人の関係にただならぬものを感じるのを否定することはできない。その歌を記しておこう。
『 あかねさす 紫野行き 標野(シメノ)行き 野守は見ずや 君が袖振る 』( 額田王 )
『 紫草(ムラサキ)の 匂へる妹(イモ・主に妻や恋人を指す)を 憎くあらば 人妻ゆえに われ恋ひめやも 』( 大海人皇子 )

この歌が詠まれたのは、天智天皇が即位した年のことで、狩猟の後の宴席の場で群臣居並ぶ中のことであったとされている。
額田王を廻る二人の皇子の恋心が、国家を二分する戦いを導いたのだとすればなかなかドラマチックではあるが出来過ぎのような気がする。しかし、同時に、歴史を大きく動かせるような大事も、その根幹に個人の業(ゴウ)のようなものがあるものだとすれば、この説を一笑に付することも出来まい。

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歴史散策  女帝輝く世紀 ( 16 )

2017-02-22 08:15:10 | 歴史散策
          女帝輝く世紀 ( 16 )

白鳳文化

白鳳文化という言葉がある。天武・持統朝を中心とした時代に興隆した文化を指すが、時には白鳳時代という言い方をすることもある。
その期間には、狭義のもの広義のものと捉え方に差はあるが、天武・持統朝を中心とした40~60年間を指す。都の位置を中心に考えれば、飛鳥時代の一部といえないこともない。
その文化の特徴は、記紀(古事記と日本書紀)の編纂開始や、万葉歌人の活躍、仏教文化の興隆などが挙げられようが、実は、天皇権威の確立、律令の制定などの政治的変化も大きな意味を占めているのである。

さて、壬申の乱に勝利した大海人皇子は飛鳥に凱旋し、母である斉明天皇(皇極天皇)の王宮・後飛鳥岡本宮に入った。そして、その南に新しい宮殿を造った。飛鳥浄御原宮(アスカキヨミハラノミヤ)である。
翌天武天皇二年(673)二月に即位する。天武天皇の誕生である。
天武天皇の御代は、崩御するまでの十三年半に及ぶ。その治世について詳述しないが、幾つかの大きな変化を生み出している。

まず、天皇の権威が高まったと考えられることである。万葉集の中に、壬申の乱の後の歌として、『 大王は 神にしませば 赤駒の 腹這ふ田居を 京師(ミヤコ)と成しつ 』というのがある。継体天皇以後の天皇を思い浮かべた場合、神の神託を得る云々ということはあるとしても、神そのものとした記録などは無いように思われる。壬申の乱という、これまで人々が体験したことのない大規模な内戦に勝利した事も起因していると考えられるが、もっと違う理由、あるいはもっと巧妙な仕掛けがなされていたのかもしれない。

次に、「天皇」という称号の出現である。天皇という称号の成立については、推古天皇の時代という説もあるが、前項を補佐する理由となるが、天武天皇を尊称する形で登場したという考え方が有力のようである。本稿では天皇という称号をすべての天皇に用いているが、天智以前はおそらく大王と呼ばれていたと考えられる。また、天皇名を漢風諡号で記しているが、生前に使われることはなく便宜上のことである。
また、ほぼ同時期に「日本」という表記も誕生したと考えられている。わが国の呼び名は、相当古くから「ヤマト」であったらしく、外国文献では「倭」の文字が当てられている。「大和」という表記もあるが、こちらはむしろ近代でも使うことがあったように思われる。その「倭」が「日本」に変わっていった背景には、太陽神、つまり天照大神を意識した部分があったかもしれない。それは、白鳳時代における天皇権威を高める手段に、天照大神の存在が見え隠れするように思われるからである。
いずれにしても、白鳳時代の政治的な変化は、後世のわが国に少なからぬ影響を与えていることは確かであろう。

それにしても、天武天皇について日本書紀はじめいくつかの研究書を読めば読むほど謎が深まる。
天武天皇とは、本当は何者であったのか。天武天皇と天智天皇の関係はどういうものであったのか。子供を相手とはいえ、壬申の乱という古代における最大の内乱を引き起こしてまで、正義がいずれにあるかはともかく、皇位を簒奪した天武天皇の天智天皇の御子たちに対する対応は、理解するのがなかなか難しい。 
天智天皇は多くの妻(正式の妻妃かどうかはともかく)を持ち多くの御子を得ているが、皇位を継承させる皇子の母になれる妻は少なく、子供も男児が少ない。この時代、乗り込んできた形の継体天皇はともかく、皇位に就く候補には生母の血統が重視されていた。生母は、皇族の出自以外では、葛城氏や蘇我氏など「臣」クラスの豪族に限られていた。

日本書紀に記されている天智天皇の妻子を列記してみよう。
* 皇后は、古人大兄皇子(天智天皇の異母兄)の娘・倭姫である。
* 蘇我山田石川麻呂大臣の娘・遠智娘(オチノイラツメ)。一男二女あり。大田皇女(オオタノヒメミコ・天武天皇の妃。大津皇子らの母)、鸕野皇女(ウノノヒメミコ・天武天皇の皇后。後の持統天皇)、建皇子(タケルノミコ・物が言えなかったが、斉明天皇に溺愛されるも夭折)。
* 遠智娘の妹で、姪娘(メイノイラツメ)。二人の皇女あり。御名部皇女(ミナベノヒメミコ・高市皇子の妃?)、阿閇皇女(アヘノヒメミコ・草壁皇子の妃。後の元明天皇で文武天皇の母)。
* 安倍倉梯麻呂大臣の娘・橘娘(タチバナノイラツメ)。二人の皇女あり。飛鳥皇女、新田部皇女(ニイタベノヒメミコ・天武天皇の妃)。
* 蘇我赤兄大臣の娘・常陸娘(ヒタチノイラツメ)。皇女一人あり。山辺皇女(ヤマベノヒメヒコ・大津皇子の妃)。
* 忍海造小竜(オシヌミノミヤツコオタツ・地方豪族?)の娘・色夫古娘(シコブコノイラツメ)。一男二女を生んだ。大江皇女(天武天皇の妃)、川島皇子(後に大津皇子の反逆を告発した)、泉皇女(後に伊勢斎宮)。
* 栗隈首徳万(クルクマノオビトトコマロ・山城国の豪族?)の娘・黒媛娘(クロヒメノイラツメ)。一女あり。水主皇女(モヒトリノヒメミコ・天平九年(737)没と長命であったようだが、他は未詳)。
* 越道君伊羅都売(コシノミチノキミイラツメ・豪族の娘か?)。一男あり。施基皇子(シキノミコ・芝基、志貴、志紀とも。著名な歌人で、光仁天皇の父となる)。
* 伊賀采女宅子娘(イガノウネメヤカコノイラツメ・伊賀の豪族の娘か)。一男あり。伊賀皇子(大友皇子)。

以上のように、皇后の他に、子を儲けた八人が載せられている。先の四人は「臣」格の豪族の娘であるが、後継となるべき皇子はいない。次の四人は、地方豪族の娘が采女として宮仕えしていて天皇のお召しがあったらしいが、当時の天皇や貴族たちの間ではごく日常のことのようである。但し、その女性が男子を生んでも、当時の常識としては皇位に就くことはなかった。大友皇子が即位していたとか、天智天皇が弟の大海人皇子より我が子の大友皇子を皇位につけたかったことが壬申の乱の原因とするのは、本当に正しいのかいささかの疑問を感じる。
それに、壬申の乱により、大友皇子や近江朝廷の群臣が多く処刑されたりしているが、ここに書かれている天智天皇の皇子・皇女たちはそのほとんどが、それなりの待遇を受けて、むしろ大切に遇されており、後々の皇統に重要な役割を担っているのである。

さらに言えば、天武天皇は、天智天皇の皇女のうち四人を妻に迎えているのである。大田皇女と鸕野皇女は天智天皇存命中のことで理解できるが、後の二人は壬申の乱後のことと思われる。天武天皇は、何ゆえ四人もの天智天皇の皇女を妻としたのだろうか。もしそれが、天智の血脈を求めてのことだとすれば、天武・天智が父母を同じくする兄弟というのに疑問が生じる。そして、天武天皇は、なぜそれほど天智天皇の血脈を必要としたのだろうか。
やはり天武天皇は、謎多き天皇である。

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歴史散策  女帝輝く世紀 ( 17 )

2017-02-22 08:14:19 | 歴史散策
          『 女帝輝く世紀( 17 ) 』

持統天皇の登場

壬申の乱を勝ち抜き、新しい王朝を築こうとしていたかにさえ見える大王、天武天皇が崩御した。朱鳥元年九月九日、西暦でいえば686年のことであった。
この朱鳥(アカミトリ、シュチョウ、スチョウ、と読み方は確定していない)という元号は、何かを物語っているように思われてならない。全く個人的見解であるが。

わが国の元号は、孝徳天皇の御代の「大化」に始まり、この後に「白雉」と改元されたが、孝徳天皇の崩御により消滅した形となり、再び、天皇年号に戻っているようである。
この「朱鳥」は、天武天皇十五年七月二十日に三十二年ぶりに制定されたものであるが、その目的は天武天皇の病気平癒を願ってのことである。
天武天皇は、この年の正月行事は自ら行ったとされているので、病気が重くなったのは、日本書紀に記されている五月の頃らしい。当然、宮中や神社仏閣で祈祷などが行われ、改元もその一環と考えられる。但し、天武天皇は改元の一か月余り後の九月九日に崩御しているので、この改元が天皇自らの意思であったかどうかは分からない。
そうだとしても、この翌年には「朱鳥」という元号は、少なくとも日本書紀では使われなくなり、天皇年号に戻っているのである。「朱鳥」という改元が天武天皇の意思でなかったとしても、その御代に制定された元号が早々に公式文書から消えているのは何故であろうか。伝えられているほど、天武天皇の存在意義は大きくなかったのではないかと推定するのは、極論過ぎるのだろうか。

もっとも、「万葉集」や「日本霊異記」には、「朱鳥」という元号が記録されているそうである。朱鳥四年、六年、七年、八年、という記録があることから、公式文書とされる日本書紀はともかく、民間など一部では使用されていた可能性がある。
次に元号が登場してくるのは、文武天皇の御代の「大宝」(701-704)であるが、もし、「朱鳥」が十五年まで続いていたとすれば、元号は継続されていたことになる。さらに言えば、「白雉」と「朱鳥」の間に、「白鳳」「朱雀」といった元号が存在していたらしい記録もあるようで、限られた地域かもしれないが、案外この間も元号が継続していたのかもしれない。
そのように考えだすと、日本書紀に、『戊午(ボゴ・ここでは七月二十日を指す)に、改元(ハジメノトシヲアラタ)めて朱鳥元年と曰(イ)ふ』とあるのも、別の元号から変更したようにも感じられてしまう。

それはさておき、天武天皇崩御により後継者問題が起こるのは当然のことである。
天智天皇崩御時には、後継者たる皇子は皆無と言える状態であった。おそらく、崩御の数年前までは、後継者は弟の大海人皇子(天武天皇)ということで群臣たちも周知していたと思われる。しかし、現実は、天智天皇が望んだことか、大友皇子が望んだことか、大海人皇子の疑心からか、あるいは群臣たちの勢力争いからかはともかく、壬申の乱という戦乱に至っている。
しかし、天武天皇の崩御時においては、後継者になり得る皇子は大勢いた。名目上は、ということになるが。

日本書紀の天武天皇八年五月の記事には、天武天皇は、皇后(持統天皇)と、草壁皇子、大津皇子、高市皇子、河島皇子、忍壁(オサカベ)皇子、芝基(シキ)皇子の六皇子を伴って吉野宮に行幸したことが記されている。
そこで、天皇は、「朕、今日、汝等とともに庭に盟(チカ)いて、千歳の後に、事無からしめむと欲す。いかに」と六皇子に呼びかけ、皇子たちも、「道理は、もっともです」と応じている。そして、草壁皇子が代表する形で、
「天神地祇(アマツカミクニツカミ)と天皇よ、どうぞお聞きください。私たち兄弟、長幼合わせて十人余りの王は、それぞれ異なった母から生まれました。しかし同母、異母に関わらず、共に天皇の勅(ミコトノリ)に従って、互いに助け合い、逆らうことは致しません。もし今より後、この盟(チカイ)に背くようなことがあれば、この身は滅び子孫は絶えましょう。決して忘れたり、過ったりは致しません」と誓い、他の五皇子も同様に誓った。
これに対して天皇は、「我が息子たちは、それぞれ異なった母から生まれた。しかし、今よりは、同母の兄弟のように慈しもう」と言い、さらに、「もしこの盟(チカイ)に背けば、即座にこの身は滅びるであろう」と、誓った。
『吉野の盟約』と伝えられるものである。
この六皇子のうち、河島皇子と芝基皇子は天智天皇の皇子である。この記事をそのまま受け取れば、この二人も含めて、すべて同母の、つまり同行していた皇后(持統天皇)の実子として遇するということになる。それは、六皇子はすべて皇位継承の資格があるということであるが、同時に、皇后の権威を高めることに役立つ盟約ともいえる。

ただ、天武天皇崩御が現実となれば、その後継がこの六皇子の中から選ばれるということにはならない。
天武天皇には、全部で十人の皇子がいた。それに六皇子に含まれている天智天皇の皇子を加えれば、十二人の後継候補者ということになるが、そこには、当然順位付けがされていたはずである。
生母の身分や政治的な思惑を一切排除して、これらの皇子の人格や実績のみで後継候補を考えるとすれば、幾つかの文献などから判定すれば、一位は高市皇子で二位は大津皇子ではないだろうか。現実的には皇后の実子ということで、草壁皇子が最有力であったと考えられるが、何分彼は病弱であったらしい。
また、壬申の乱において、天武天皇側が大義名分としたと想像できるものの一つは、大友皇子の生母がいわゆる卑母といわれる身分であり、天皇後継者に成りえないという主張であったと考えられる。高市皇子は、そういう事情を十分承知していたと考えられ、この皇子には皇位を望む野心はなかったらしい。
そうなれば、後継候補は草壁皇子と大津皇子に限られてくる。

大津皇子の生母は、皇后(持統天皇)と同母の姉である。大津皇子誕生の頃は、彼女が正妃であったと考えられるが、大津皇子誕生後間もなく亡くなっている。これが、現皇后を生母とする草壁皇子と致命的な差となっていたのである。
当然、皇后(持統天皇)の狙いは、草壁皇子を即位させることにあった。その布石として、天武天皇に「天下(アメノシタ)の事、大小を問わず、悉(コトゴト)くに皇后(キサキ)と皇太子(ヒツギノミコ・草壁皇子を指す)に啓(モウ)せ」との勅(ミコトノリ)を出させている。天武天皇崩御の五十数日前のことで、すでに病は重く、皇后の強い意志が働いていることは十分考えられる。
それに、年齢も草壁皇子の方が一歳上であったとされるので、草壁皇子後継で問題がないように思われる。

しかし、どうやら大津皇子という人物は相当有能であり、群臣の評価も高かったらしい。やや線が細かったともいわれる草壁皇子の母としては、天武天皇の勅程度では安心できなかったらしい。
天武天皇崩御とともに、「皇后、臨朝称制したまふ」と日本書紀には記されている。この臨朝称制(リンチョウショウセイ)というのは、臨時に政務を行うことで、即位する前にとりあえず「称制」という地位に就いたということではないと考えられる。皇后(持統天皇)は、壬申の乱においても、少なからぬ働きをしており、群臣たちを押さえるのに問題はなかったと思われる。おそらく、天武天皇に衰えが見え始めた頃から、政治の実権は皇后にあったのではないだろうか。
その朝廷内で天皇崩御以前から実権を握っていたと思われる皇后が、臨朝称制後最初に行った大事は、大津皇子を滅ぼすことであった。天武天皇崩御後二十日余り後のことで、謀反の罪に問われた大津皇子は、二十四歳にして自死に追い込まれたのである。
天武王朝においても、政敵を数多く葬っているが、大津皇子事件は、皇后の父天智天皇を彷彿させるようにも思われる。あるいは、これが当時の政争の常套手段であったのだろうか。

その後、皇后の称制時代は丸三年に及ぶ。
草壁皇子は二十五歳になっていたと考えられ、当時の即位年齢としてはやや若かったかもしれないが、それが即位にそれほど大きな障害になるとは思えない。むしろ、大津皇子の謀反事件は相当強引なもので、大津皇子に同情的な勢力の声なき声に配慮せざるを得なかったのではないか。そして、若干の冷却期間を置かざるを得なくなり、そうしてる間に、草壁皇子は二十八歳で没してしまった。持統称制三年四月のことである。
翌年一月、皇后は即位する。持統天皇の登場である。
おそらく、溺愛し、多くの犠牲を払って即位を願った草壁皇子の死去は、持統天皇といえども失意のどん底に落ちたと思われるが、その上での即位は、天皇家を護る決意とともに新たな目的に向かっての即位であったと考えられる。

     ☆   ☆   ☆



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歴史散策  女帝輝く世紀 ( 18 )

2017-02-22 08:13:20 | 歴史散策
          『 女帝輝く世紀 ( 18 ) 』

王朝の構図

持統天皇の即位は、三年を越える称制期間を経た持統天皇四年(690)一月のことであった。
天智天皇(実際は大友皇子)と天武天皇とが王権を争った壬申の乱は、古代最大規模の内戦であった。それに勝利したて天武天皇は天皇の権威・権力を高めることに注力した。そして、その目的は一定の成果を上げている。
同時に、天武・持統天皇の御代を白鳳時代と呼ぶことがあるように、継続した一つの王朝のように見える部分が有る。それは、持統天皇が天武天皇の忠実な後継者であったと見ることも出来るが、少し視点を変えて見れば、この両王朝は、そしてこれ以後の数代の天皇の御代さえも、持統天皇が描いた構想の中にあったように思われてならないのである。

まず一つは、天智天皇の病が重くなった時点で、身の危険を感じた天武天皇は近江から吉野に脱出したが、妻である持統も行動を共にしている。壬申の乱においても、吉野や伊勢などの勢力掌握に少なからぬ働きがあったかに思われる。うがった見方をすれば、戦乱の先頭に立ったのは天武天皇であるが、後方にあって陣営を引き締めていたのは持統であったように見えて仕方がないのである。
もう一つは、持統天皇には、珠玉ともいえる草壁皇子がいたが、それ以外に子供がいないことが気になる。もちろん、子供は天からの授かりものと考えれば、子供が一人だけだというのは不思議なことではないが、当時の皇族の女性は、一般的に多産である。御子の数が一族の繁栄に直結するからである。持統天皇の皇子が一人ということに不自然さを感じるのであるが、その理由の一つは、草壁皇子を溺愛するあまり皇位を争うような皇子の誕生を避けたのかもしれない。もっと大きな理由と推察されるのは、持統天皇の実姉であり、本来天武天皇の皇后となるべき立場にあった大田王女が大津皇子を産んだ直後に亡くなっていることにあるように思われるのである。当時の女性にとって、出産はまさに命を懸けた大事であった。草壁皇子を得た持統天皇は、草壁皇子を即位させるために命を懸ける危険を避けたのではないかと思われるのである。つまり、天武天皇との同衾を拒んだのではないだろうか。その代わりのように、壬申の乱の後に、天智天皇の皇女を二人も天武天皇の妃に受け入れているように思えてならないのである。

そして、これは定説から離れることになるが、天武天皇の出自に疑問が浮かんでくるのである。天智天皇と天武天皇は、父が舒明天皇、母が皇極(斉明)天皇の同父・同母の兄弟というのが一応の定説であるが、長幼を含め古くから異説もある。個人的な感覚であるが、やはり天武天皇は、皇極天皇が舒明天皇に嫁ぐ前の夫である高向王、あるいはそれ以外の人物を父とする出自ではないのだろうか。つまり、天武天皇の父には近しい天皇はいないのではないのではないか。
従って、持統天皇には、天武天皇の皇子といえども父系だけでは天皇位を望むことはできないという判断があったのではないだろうか。天武天皇の皇子が皇位に就くためには、后妃を通じて天皇の系譜に繋がる必要があると考えたのではないだろうか。そして、その繋がるべき系譜にある天皇とは天智天皇であったのではないだろうか。

「不改常典(フカイジョウテン)」と呼ばれるものがある。
これは、慶雲四年(707)、元明天皇即位の詔に初めて登場したとされるもので、「かけまくも かしこき近江大津宮に あめのしたしらしめしし 大倭根子天皇(オオヤマトネコノスメラミコト・天智天皇)の、天地(アメツチ)と共に長く 日月(ヒツキ)と共に遠く 改(カワ)るましじき 常の典(ツネノノリ)と 立て賜ひし敷き賜へる法(ノリ)」という言葉を指す。
この言葉の意図するところは、皇位継承法であるという考え方と、国家統治法とする見方があるようだ。個人的には、皇位継承の正統性を補強するものと受け取っている。

当時の皇位継承の条件の一つに、年齢の条件があったと考えられる。父や母の系譜はもちろん重視されたが、概ね三十歳程度が即位の条件と考えられていたようで、日本書紀などにも年齢を重視しているかの表現はいくつか見られる。
この「不改常典」というものが本当に天智天皇によって発せられたものとすれば、年齢が二十二、三歳であり、生母の系譜も条件に程遠い大友皇子を、直系相続が何より正しいのだと強引に詔したものと想像される。
しかし、皇位は、壬申の乱により天智から天武に移っており、「不改常典」が元明天皇の即位の時点で登場してきているのは、いかにも不自然である。そのような考え方が皇室周辺で醸成してきていたとすれば、詔を発するのは天武天皇となるのではないかと思われる。

つまり、「不改常典」は持統天皇から文武天皇に譲位する時点で生み出されたもののように感じられてならないのである。
文武天皇は、持統天皇が愛してやまなかった故草壁皇子の子供であり、母は天智天皇の皇女で後の元明天皇であるから、系譜においては非の打ち所はない。しかし、現天皇からいえば孫の世代であり、年齢も十五歳であった。かなり、強引な譲位であり、それを補強する伝家の宝刀として登場してきたのではないだろうか。
しかも、その発信者は天武天皇ではなく天智天皇であることは、実に興味深い。これは個人的な想像であるが、この詔が、皇位継続に大きな影響を与えるためには、天武天皇では容認されない何かが、持統天皇にも、当時の皇族や有力豪族たちの中に潜在していたように思われるのである。そして、その何かとは、天武天皇の出自に関する事と想像するのである。
この「不改常典」は、少なくとも、元明・元正、そして聖武天皇の誕生までは大きな働きをしたと考えられるのである。

持統天皇の御代は、称制時期を含めて十一年ほどである。
天武天皇の御代と合わせて白鳳時代と称せられるほどであるから、政治的、文化的にも業績は小さくないと考えるべきであるが、その在位中の足跡を調べてみると、あらゆる業績を圧倒するような事実が浮かび上がってくる。それは、吉野行幸である。吉野は、夫である天武天皇と共に、近江朝廷から脱出したあと身を寄せた地であり、古来神聖とされる地でもある。しかし、それにしても在位中の吉野行幸が三十回となれば、これを理解することはなかなか難しい。
これに関しては、多くの研究者により様々な説明がなされているが、完全に納得できる説明は見い出せない。この行動を理解できない限り、持統天皇を理解するのは難しいのかもしれない。

おそらく、持統天皇にとって吉野の地は、凡庸な推理では及ばない奇跡の地であったのではないか。
そして、孫である軽皇子が十五歳になるのは待ちかねていたかのように譲渡するのである。

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歴史散策  女帝輝く世紀 ( 19 )

2017-02-22 08:12:32 | 歴史散策
          『 女帝輝く世紀 ( 19 ) 』

女帝時代の全盛期

夫である天武天皇が崩御し、ほとんど同時にすべてを懸けていたたった一人の御子である草壁皇子を喪った持統天皇は、おそらく歯を食いしばるようにして草壁皇子の忘れ形見である軽皇子の成長を待った。
そして、執念ともいうべき十年を耐え抜いて軽皇子を皇位に付けることに成功した。文武天皇の誕生である。
持統天皇は、譲位後も太上天皇として政務を後見していたと考えられるが、五年後に崩御した。波乱万丈の五十七年の生涯であった。

文武天皇は、在位十年にして崩御した。まだ二十五歳という若さであった。
壬申の乱以前を考えれば、この若さでの天皇崩御があれば、後継者争いが激しくなっていたはずであるが、崩御と同時に母が践祚し、半月後には元明天皇として即位している。
元明天皇の御代は八年続き、娘であり文武天皇の実姉である氷高皇女に譲位した。元正天皇の誕生である。
二代続いての女帝であり、二人の御代は合わせて十七年に及び、藤原氏の台頭など政治的な変化も注目すべきであるが、少なくともこの二天皇に関しては、中継ぎ的な色合いが強い。文武天皇の皇子を皇位に就けるための時間が必要だったのである。

元正天皇は在位八年余りで譲位しているが、その時四十四歳くらいで、崩御したのは六十八歳であることを考えれば、健康面からの譲位ではなく、首皇子(聖武天皇)が二十四歳となり、即位可能な頃になったことが譲位の理由と思われる。
聖武天皇の生母は、藤原不比等の娘・宮子なので、藤原氏の強い働きかけもあったと推定されるが、持統・草壁・文武と続く一つの王朝という感が強い気がする。
その王朝は、天武天皇を始祖としたものというより、天智天皇を父に持つ持統天皇の王朝であると、個人的には考えている。そして、その持統王朝の絶頂期は、まさに聖武天皇の御代であったのではないだろうか。同時にそれは、女帝が輝いた時代の絶頂期ともいえるのである。

天平文化あるいは天平時代という言葉がある。天平年間(729-749)を中心とした時期を指すが、ほぼ聖武天皇の御代そのものである。
天平文化は、朝鮮半島諸国はもちろん、唐文化を介して、西域、インド、ペルシャ等の文化を受容した貴族文化といえる。その片鱗は、今日においても正倉院御物に伝えられている。
また、仏教の興隆も一つのピークを築いた時期でもある。国家の保護下に南都六宗が栄え、各地に国分寺が建立された。それに伴って、彫刻を中心に漢詩・文等の仏教文化、さらには万葉歌人も活躍した。
そして、何よりも東大寺の大仏建立は、わが国古代史上の最大規模の業績といえよう。
聖武天皇あるいは天平時代についての詳述は割愛させていただくが、政治体制でいえば、藤原氏の影響を強く受けているが、同時に天平末期まで生存していた元正天皇の影響も小さくなかったと推定されるのである。つまり、聖武天皇は、持統天皇の描く王朝構想の影響を強く受けていたと考えるのである。全く個人的な見解であるが。

聖武天皇は、在位二十五年余りで退位し、娘の安倍皇女に譲位した。孝謙天皇の誕生であり、再び女帝の時代が続くかに見えたが、実は、孝謙天皇は「女帝輝く世紀」の幕引きを担う天皇となったのである。
持統天皇が描いたと思われる朝廷の有力な支援者は、藤原不比等を筆頭にした藤原氏一族であった。聖武天皇の誕生には、持統天皇が懸命に実現させた文武天皇の皇子を皇位に就けるために、元明・元正と繋いだ女帝たちの努力の賜といえるが、それを支えたのは藤原不比等であった。
一方、孝謙天皇の誕生は、持統天皇が愛してやまなかった草壁皇子の系譜を真直ぐに引き継いでいる女帝とはいえ、この譲位には、いささか異質なものが感じられる。

聖武天皇は天平文化という仏教文化を中心とした繁栄を築いたが、その最大の業績ともいえる東大寺の大仏はまだ未完成であった。大仏の開眼供養が行われるのは、譲位から三年後のことである。もちろん、その式典には太上天皇として中心にいたが、おそらく天皇としてこの日を迎えたかったと考えられるのである。
聖武天皇に健康面での不安があったという説もあるようであるが、太上天皇となって隠然たる力を保持していた母の元正天皇の崩御を待ちかねていたかのような譲位に見える。当然考えられることは、強引に譲位を進めた勢力があったはずで、それは不比等の娘であり安倍皇女の生母である光明皇后と藤原氏一族であったことは推定するまでもあるまい。
つまり、聖武天皇の誕生には藤原氏が後見したが、孝謙天皇の誕生は藤原氏が主導したものと考えられるのである。

しかし、孝謙天皇は単なるお飾りの天皇ではなかったようである。
即位後の政治は、主として聖武太上天皇と光明皇太后が実権を握っていたものと思われる。やがて、聖武太上天皇が没し、光明皇太后が病がちになると、その看病に当たるため在位九年にして退位し、皇太子となっていた淳仁天皇に譲位した。この人物は、天武天皇を父に天智天皇の娘である新田部皇女を母に持つ出自である。
淳仁天皇の在位は六年余りで藤原仲麻呂らの支援を受けて治世を行った。

一方の孝謙天皇は、譲位の二年後には母の光明皇太后が亡くなった。その後、病となり、看病に当たった弓削氏の僧・道鏡と出会い、寵愛するようになる。
やがて、孝謙天皇は道鏡の知恵を味方にして太上天皇として政治に影響を与え始め、淳仁天皇・藤原仲麻呂勢力と衝突するようになり、ついにこの勢力を追放し、皇位に復帰する。重祚して称徳天皇が誕生する。
称徳天皇は道鏡を重用し、太政大臣禅師、法皇と、最高権力を与え、一説には、道鏡への譲位も画策されていたともされる。
このあたりのことは割愛するが、朝廷内は混乱し、その中で称徳天皇は崩御し、女帝の時代は幕を閉じるのである。

女性天皇が再び登場するのは、八百五十余年後の江戸時代初期のことである。
この時の女帝明正天皇は、後水尾天皇の皇女であるが、母は徳川家康の孫であり、この時代の女帝とは性格を異にするといえよう。

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歴史散策  女帝輝く世紀 ( 20 )

2017-02-22 08:11:43 | 歴史散策
          『 女帝輝く世紀 』

終わりに

『女帝輝く世紀』とは、我ながら大げさな表題をつけたものだという気持ちはある。
しかし、我が国歴代の天皇の足跡を、真偽はともかく伝えられている文献を尋ねてみれば、『飛鳥・白鳳・天平』と続く文化の興隆期は、他の時代と違う雰囲気を持っている気がするのである。
もちろん、伝えられている文献といっても、残念ながら私などが目にすることが出来る物はごくごく一部であり、実際に目を通すことが出来たのはさらにその一部であり、その解釈もほぼ全部が先人の研究成果を頂戴した物であり、それでいながら、所々では自分勝手な解釈や推定を加えているので、果たしてどの程度この時代の特徴を表現することが出来たのか、大いに心配ではある。

わが国の女帝は、推古天皇に始まる。
もっとも、日本書紀などの記録によれば、天照大御神はともかく、神功皇后などはまさしく女帝であったと思われ、推古天皇誕生は当時の人に取って格別特別な選択ではなかったのかもしれない。
そうとはいえ、推古天皇の誕生は、やはり、苦肉の策であったような気がする。ところがいざ即位してみると、立派な治世が行われ、長期政権となったことで、この後の女性天皇誕生のためのハードルを低くしたと思われる。

皇極天皇は、実に興味深い女帝である。
この時代を代表するともいえる天智・天武両天皇の生母であり、この後の天皇家の系譜に大きな影響を持つ女帝であったと言える。特に、舒明天皇に嫁ぐ前の姿、そして何よりも、天武天皇とは何者かを知っている女帝であることに限りない興味を感じる。

持統天皇は、自らの王朝を目指したかのように見えてならない。
天武天皇が本当はどういう出自であったのかは、持統天皇も承知していたはずである。その天武を支えて、自らの王朝確立を目指し、それは、少なくとも聖武天皇の御代までは健在であったと、個人的には考えている。さらに言えば、壬申の乱の本当の首謀者は、持統天皇だったのではないかとさえ思われるのである。

この女帝の時代は、仏教が精神面でも文化面でも大きく花開いた時代でもある。
その意味では、聖武天皇の御代は一つの頂点と考えられ、東大寺の大仏開眼供養は、女帝時代の最高点だったのかもしれない。
称徳(孝謙)天皇や弓削道鏡が、女帝の時代の幕を引いたかに見えるが、それも一つの流れと言えよう。称徳天皇は持統天皇の血を引くが、遥かに藤原氏の血が濃い天皇であり、一つの時代が終わるべくして終わったような気がするのである。

     ☆

長期間にわたって、個人的な見解の多い物語をお読みいただき感謝いたします。
これを機に、この時代について、さらに興味をお持ちいただければ幸甚でございます。
                                       
          ( 完 )

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歴史散策 『空白の時代』  表紙

2016-06-03 10:07:19 | 歴史散策
          歴史散策

               『 空白の時代 』


               「日本書紀」を基に、神功皇后の足跡を辿った作品です。
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歴史散策  空白の時代 ( 1 )

2016-06-03 10:04:37 | 歴史散策
          空白の時代 ( 1 )

時の記録

歴史を時の流れと考えるならば、それは刻々と一瞬一瞬を刻みながら、途絶えることのないものと考えられる。
しかし、私たちがある時代の歴史を知ろうとした場合、それは記録されているものに限られてくる。記録には、文字や絵によるものや、記憶や伝承によるものも含まれるが、時間の流れと共に紛乱や焼失、あるいは忘却などによって失われて行くものも多い。そう考えると、歴史とは、記録され、かつ伝承されているものに限られるということになる。

しかし、その一方で、例えば万葉といわれるような時代はもちろん、もっと新しい時代であっても、今日私たちが目にすることが出来る文献などが、正しい歴史、あるいは真実かということになれば、それはそれで判断が難しい。
それらの伝承の中には、誤って伝えられているものもあるだろうし、それも単なる誤記や記憶相違ばかりでなく、意識的な改ざんも決して少なくないだろう。第一、正史として伝えられている文献は、時の勝者によるものがほぼ全てであるから、勝者イコール正義という観点から書き残されていると考えるべきであろう。

     ☆   ☆   ☆

空白の時代

本稿で記そうとしている神功皇后(ジングウコウゴウ)と呼ばれる女性が活躍した時代は、まさにそのような時代の一つと言えよう。
この時代について、多くの先人や研究者が真実を求めて努力されその結果が発表されているが、その道の素人である者にとっては、当時を伝える文献としては、『古事記』と『日本書紀』にほぼ限られ、万葉集などの文献、あるいは中国などの海外の史書を参考にすることは、なかなか困難である。
従って、本稿は、『日本書紀』に記されていることをそのまま伝えることを主眼としていて、その時代の真実を探求することを目的としているものではないことをご承知いただきたい。『古事記』ではなく『日本書紀』を中心としたのは、真否を考慮したものではなく、『日本書紀』の方が伝承の量が圧倒的に多いが故である。

『古事記』は、神代の時代から推古天皇までの記録を収めている。『日本書紀』も、神代の時代から持統天皇までの記録を収めたもので、ほぼ同時代の文献と言える。
古来、この二つの文献は、『記紀』と呼ばれて、公式歴史書的な地位を占めてきたが、同時に双方の食い違う点について様々な研究がなされてきたようである。そして近年では、双方の記事の多くについて、真実性を否定し、その存在さえも軽んじる意見もあるようだが、わが国の古代史を考える時、どれほど高邁な意見の持ち主であれ、『記紀』の存在は無視できないはずである。

さて、本題となる神功皇后であるが、両書ともに相当の記事を掲載しており、特に『日本書紀』においては、天皇並に「巻第九」全部を使って一代記を記載しているが、天皇とはしていない。第十四代仲哀天皇の次は第十五代応神天皇としていて、『古事記』も同様である。
また、神武天皇を初代として、第百二十五代である今上天皇に至るまでのそれぞれの継承に要する期間は、即時あるいは、せいぜい数年間の期間しか空いていないが、ただ一つ例外なのが、第十四代から第十五代への継承に要する期間なのである。
記されている年度の正否はともかく、一応通説となっているものに従えば、第十四代仲哀天皇が崩御なされたのは西暦200年であり、第十五代応神天皇の即位は西暦270年とされている。この間、実に70年という天皇不在の期間があったのである。

この天皇不在の期間、つまり「空白の時代」と呼びたいような期間は、わが国の古代史上大きな謎と意味合いが秘められていると思われるが、その期間を担った王家の重要人物の一人が神功皇后であったことは間違いないと考えられる。その存在さえ否定する説を考慮したとしてもである。
本稿は、この期間の疑義を追うことが目的ではなく、『日本書紀』の記事を中心に淡々と「空白の時代」を見ようとするものである。

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