運命紀行
七度生まれ変わって
『 正季からからと打ち笑ひて、
「ただ七生までも同じ人間に生まれて、朝敵を亡ぼさばやとこそ存じ候へ」
と申しければ、正成よにも心よげなる気色にて、
「罪業深き悪念なれども、我も左様に思ふなり。いざさらば、同じく生を替へて、この本懐を遂げん」
と契って、兄弟ともに指し違へて、同じ枕に伏しければ、橋本八郎正員・宇佐美・神宮司を始めとして、宗徒(ムネト・主だった者)の一族十六人、相随ふ兵五十余人、思ひ思ひに並居て、一度に腹を切ったりける・・・ 』
これは、「太平記」の楠木正成の最期の部分から抜粋したものである。
足利尊氏の大軍に対して、勝つあてのない戦いを挑み、ここ兵庫の湊川を死に場所と定めた楠木正成・生季(マサシゲ・マサスエ)兄弟の壮絶な最期が描かれている。
「太平記」は歴史書として位置付けられることは少なく、南北朝という争乱の時代を舞台とした壮大な軍記物語として読まれることが一般的である。
しかし、天皇が二つの朝廷に立てられたというわが国歴史上他に例を見ない混乱の時代を、およそ四十年間に渡って時代の流れと極めて近い目線で描かれた物語は、例えそのすべてが創作であったとしても、その行間から溢れでるような息吹は、それぞれの人物の生きざまの一端を伝えてくれている。
そして、この壮大な物語が生み出した最大の英雄が、楠木正成なのである。
冒頭の抜粋部分は、太平記が描く名場面の一つといえる楠木正成が自刃する場面であるが、その戦いに至る過程は、尊王一筋の無骨の英雄らしい潔さと、あまりにも不器用な生き方とが交錯していて、読む人の涙を誘う。
建武の新政を実現するために足利尊氏らと共に活躍した楠木正成であったが、勝利の喜びも消えぬうちに、正成が頼りと思う護良親王(モリナガシンノウ/モリヨシシンノウ・後醍醐天皇の皇子)が謀反の疑いで捕らわれてしまう。
この事件をきっかけとしてか、後醍醐の政治に疑問を感じ始めたようである。武家が台頭してきた社会を天皇親政だけで治められることなど不可能で、武家の第一人者である足利尊氏との連携こそが重要と考えていたがその意見は入れられず、次善の策としての、九州より上ってくる足利の大軍を迎え撃つ場所は京都以外にないと献策するも退けられ、新田義貞の麾下として湊川に出陣を命じられたのである。
その人物の大きさを認めている尊氏率いる足利勢は大軍であり、対する味方はあまりにも少数であり、万に一つも勝てる戦いではなかった。
しかし、楠木正成という武将には、尊氏のもとに走るとか、戦線を離脱するといった選択肢は全くなかったのである。
現在、兵庫県神戸市に湊川神社という荘厳な神社がある。地元では「楠公(ナンコウ)さん」と親しまれている神社である。
七百年ほども昔、「七たび生まれ変わって朝敵を討つ」と誓い合って、正成・正季兄弟や一族郎党が自刃したのはこの近くであったという。
* * *
楠木正成(楠とも)は、河内国石川郡赤坂村の出生とされる。永仁二年(1294)の誕生とされるが、実は、出生地・生年・父の名前とも確定されていない。
南朝の英雄として、かつては多くの物語などが作られているが、その前半生はほとんど不明というのが正しいようである。
まるで彗星のごとく歴史の表舞台で活躍を見せているが、それは、元弘元年(1331)から建武三年(1336)の自刃までの六年ほどの期間に過ぎない。
この元弘元年の挙兵については、後醍醐は神のお告げにより正成の存在を知ったとあるが、すでに河内・吉野辺りでは一定の勢力を持った豪族であったらしい。
このお告げの部分を再び「太平記」から引用してみる。
『 されば、かやうにては皇居の警固いかがあるべきと、主上思しめし煩ひ給ひて、すこしまどろみおはしける御夢に、所は紫宸殿の庭前かと覚えたる地に、大いなる常葉木(トキハギ)ありて、緑陰茂りて南へ指したる枝ことに栄えはびこれり。その下に三公九卿位によって列座す。
南へ向きたる上座に御座の畳を高く布きて、いまだ座したる人もなし。
主上夢心治に、
「誰を設けんための座席やらん」
と怪しみ思しめして、立たせ給ひたるところに、びんづら(みずら・古代男子の髪型)結ふたる童子二人忽然として来たつて、主上の御前にひざまづき、泪を袖に懸けて申しけるは、
「一天下の間に、しばらくも御身を蔵すべき所候はず。ただしあの木陰に南に栄えたる枝の下に座席あり、これ御為に設けたる玉扆(ギョクイ・玉座)にて候ふ。しばらくこれに御座候へ」
と奏して、童子は遥かの天に登り去りにけり・・・ 』
この後目覚めた後醍醐は、「木に南」で「楠」と夢のお告げを解くが、まるで謎々遊びに見えないこともないが、「太平記」の作者が楠木正成を特別の人物として登場させようとしている苦心が伝わってくる。
こうして召し出された正成は、天下統一の業には武略と智謀の二つが必要だと申し上げ、もしどのような状況になろうとも、「正成一人いまだ生きてありと聞こしめし候はば、聖運はつひに開くべしと思し召し候へ」と、何とも頼もしい言葉を残して河内へと帰っていった。
本拠地に戻った正成は挙兵するも、後醍醐の笠置城は幕府軍の猛攻を受けて落城し、後醍醐も捕らえられ、やがて隠岐へ流される。
正成の赤坂城も大軍に攻められるが得意のゲリラ戦で対抗、幕府軍を翻弄するも抗しきれずに陥落し、正成は自害を装って脱出した。
元弘二年(1332)夏、後醍醐の皇子護良親王は紀州熊野において決起した。
これに呼応して、正成も河内で挙兵し、摂津に進出して幕府軍を討ち払った。
十一月になると、幕府は大軍を京都に送り込む。「太平記」によれば五十万の大軍となっているが、当時の鎌倉幕府にそれだけの力があったとは考えにくいが、大軍であったことは確からしい。
熊野から吉野に移って城郭を構えた護良親王は、たちまち幕府軍に攻め立てられ、村上義光父子が身代わりとなって討死する間に、辛くも逃げ延びたのである。
次に幕府軍は、千早城の楠木軍を取り囲んだ。
千早城は、先に陥落した赤坂城よりさらに奥深くにあり、金剛山地の中腹にあたる支脈の頂上に構えられた山城で、用水や食料武器なども備えた要害となっていた。
十重二十重と取り囲んだ幕府軍は、「太平記」には二百万騎と記されているが、さすがに少々誇大過ぎる。
迎える楠木軍は千人に足らない少勢であったが、雲霞のごとき大軍を奇襲作戦で翻弄し膠着状態となる。
幕府の大軍が千早城に釘付けされている間に、後醍醐は隠岐島を脱出し、伯耆国の名和長年に迎えられる。さらに播磨の赤松円心も挙兵し、京都に向けて進軍を始めた。
幕府方も京都に大軍を集め、後醍醐方の鎮圧を計るが、幕府方の大将の一人足利尊氏(この頃は高氏)が後醍醐方と通じ、京都の六波羅探題を攻撃した。これにより戦況は大きく動き、六波羅軍は敗走し、幕府方により擁立されていた光厳天皇・後伏見上皇は鎌倉を目指して脱出した。敗走した主力部隊は、翌日には全滅してしまう。
後醍醐方は、光厳・後伏見らを捕らえ近江の国分寺に幽閉し、三種の神器を奪い取った。
一方関東では、上野国で新田義貞が挙兵し鎌倉を攻撃、苦戦しながらも稲村ケ崎での奇跡的な出来事にも助けられて鎌倉を落とす。北条高時以下一門の諸将は自刃し、鎌倉幕府は滅亡する。
元弘三年(1333)五月のことである。
京都に戻った後醍醐は、政治の実権を握る。いわゆる建武の新政である。
楠木正成は、記録所寄人・雑訴決断奉行人という政権の要職に加え、河内・和泉の守護職となった。
しかし、各豪族に担がれての後醍醐政権は極めて脆弱であった。
政権奪取の一番の功労者ともいえる護良親王は後醍醐に強請して征夷大将軍となるが、足利尊氏には納得できない就任であった。
二人の対立は深刻化を増し、後醍醐の寵妃阿野廉子を通しての尊氏の讒言もあって、護良親王は謀反の疑いで捕らえられ、鎌倉に送られてしまう。正成が北条氏残党を討つために京都を離れている間のことであった。
この後、正成は朝廷の役職の多くを辞している。連座したわけではないようであるが、護良親王が正成の有力な後見者であったことは確かであろう。
さらに、ほどなく起こった北条高時の遺児時行が中先代の乱と呼ばれる騒乱で鎌倉が攻撃され、守っていた尊氏の弟足利直義は鎌倉脱出に際して、部下に命じて護良親王を殺害してしまったのである。
一時は北条残党に鎌倉を奪われたが、尊氏率いる軍勢によって乱は鎮圧された。
足利尊氏が、後醍醐の諱(イミナ)である「尊治」の一字を与えられ高氏から尊氏へと改名したのは、この頃のことである。
しかし、護良親王が殺害されたことが京都に伝わると後醍醐は激怒し、朝廷は新田義貞を大将とする足利討伐軍を鎌倉に向かわせる。新田軍は東海道の足利勢を撃破し箱根に迫った。
足利直義は、後醍醐と敵対することに躊躇する兄尊氏を説得し、出陣させることに成功した。
箱根・竹下の合戦に勝利した足利軍は、朝廷方を追って京都に入った。
後醍醐は素早く比叡山に逃れ、北畠顕家の支援を得て逆襲し、ついに足利勢を京都から追い払うことに成功した。
九州に下った尊氏は、菊池氏との戦いに勝利して態勢を立て直し、再び京都に向かって進軍を始めた。尊氏の人望は厚く、足利軍は大軍に膨れ上がっていった。
楠木正成が、望まぬままに僅かな兵を率いて湊川へと向かうのはこの頃のことである。
正成が、歴史上活躍したとされる六年ばかりを「太平記」をベースに略記してきたが、朝廷や政権をめぐる争いは、まことに目まぐるしい。
そして、その決着の場として湊川で自刃して果てた楠木正成という人物には、やはり、強く魅せられる。
「七度生まれ変わってまで朝敵を討ちたい」と誓い合った楠木兄弟の真意は那辺にあったのか。少なくとも、朝敵とは足利尊氏を指しているとは思われないのである。
( 完 )
七度生まれ変わって
『 正季からからと打ち笑ひて、
「ただ七生までも同じ人間に生まれて、朝敵を亡ぼさばやとこそ存じ候へ」
と申しければ、正成よにも心よげなる気色にて、
「罪業深き悪念なれども、我も左様に思ふなり。いざさらば、同じく生を替へて、この本懐を遂げん」
と契って、兄弟ともに指し違へて、同じ枕に伏しければ、橋本八郎正員・宇佐美・神宮司を始めとして、宗徒(ムネト・主だった者)の一族十六人、相随ふ兵五十余人、思ひ思ひに並居て、一度に腹を切ったりける・・・ 』
これは、「太平記」の楠木正成の最期の部分から抜粋したものである。
足利尊氏の大軍に対して、勝つあてのない戦いを挑み、ここ兵庫の湊川を死に場所と定めた楠木正成・生季(マサシゲ・マサスエ)兄弟の壮絶な最期が描かれている。
「太平記」は歴史書として位置付けられることは少なく、南北朝という争乱の時代を舞台とした壮大な軍記物語として読まれることが一般的である。
しかし、天皇が二つの朝廷に立てられたというわが国歴史上他に例を見ない混乱の時代を、およそ四十年間に渡って時代の流れと極めて近い目線で描かれた物語は、例えそのすべてが創作であったとしても、その行間から溢れでるような息吹は、それぞれの人物の生きざまの一端を伝えてくれている。
そして、この壮大な物語が生み出した最大の英雄が、楠木正成なのである。
冒頭の抜粋部分は、太平記が描く名場面の一つといえる楠木正成が自刃する場面であるが、その戦いに至る過程は、尊王一筋の無骨の英雄らしい潔さと、あまりにも不器用な生き方とが交錯していて、読む人の涙を誘う。
建武の新政を実現するために足利尊氏らと共に活躍した楠木正成であったが、勝利の喜びも消えぬうちに、正成が頼りと思う護良親王(モリナガシンノウ/モリヨシシンノウ・後醍醐天皇の皇子)が謀反の疑いで捕らわれてしまう。
この事件をきっかけとしてか、後醍醐の政治に疑問を感じ始めたようである。武家が台頭してきた社会を天皇親政だけで治められることなど不可能で、武家の第一人者である足利尊氏との連携こそが重要と考えていたがその意見は入れられず、次善の策としての、九州より上ってくる足利の大軍を迎え撃つ場所は京都以外にないと献策するも退けられ、新田義貞の麾下として湊川に出陣を命じられたのである。
その人物の大きさを認めている尊氏率いる足利勢は大軍であり、対する味方はあまりにも少数であり、万に一つも勝てる戦いではなかった。
しかし、楠木正成という武将には、尊氏のもとに走るとか、戦線を離脱するといった選択肢は全くなかったのである。
現在、兵庫県神戸市に湊川神社という荘厳な神社がある。地元では「楠公(ナンコウ)さん」と親しまれている神社である。
七百年ほども昔、「七たび生まれ変わって朝敵を討つ」と誓い合って、正成・正季兄弟や一族郎党が自刃したのはこの近くであったという。
* * *
楠木正成(楠とも)は、河内国石川郡赤坂村の出生とされる。永仁二年(1294)の誕生とされるが、実は、出生地・生年・父の名前とも確定されていない。
南朝の英雄として、かつては多くの物語などが作られているが、その前半生はほとんど不明というのが正しいようである。
まるで彗星のごとく歴史の表舞台で活躍を見せているが、それは、元弘元年(1331)から建武三年(1336)の自刃までの六年ほどの期間に過ぎない。
この元弘元年の挙兵については、後醍醐は神のお告げにより正成の存在を知ったとあるが、すでに河内・吉野辺りでは一定の勢力を持った豪族であったらしい。
このお告げの部分を再び「太平記」から引用してみる。
『 されば、かやうにては皇居の警固いかがあるべきと、主上思しめし煩ひ給ひて、すこしまどろみおはしける御夢に、所は紫宸殿の庭前かと覚えたる地に、大いなる常葉木(トキハギ)ありて、緑陰茂りて南へ指したる枝ことに栄えはびこれり。その下に三公九卿位によって列座す。
南へ向きたる上座に御座の畳を高く布きて、いまだ座したる人もなし。
主上夢心治に、
「誰を設けんための座席やらん」
と怪しみ思しめして、立たせ給ひたるところに、びんづら(みずら・古代男子の髪型)結ふたる童子二人忽然として来たつて、主上の御前にひざまづき、泪を袖に懸けて申しけるは、
「一天下の間に、しばらくも御身を蔵すべき所候はず。ただしあの木陰に南に栄えたる枝の下に座席あり、これ御為に設けたる玉扆(ギョクイ・玉座)にて候ふ。しばらくこれに御座候へ」
と奏して、童子は遥かの天に登り去りにけり・・・ 』
この後目覚めた後醍醐は、「木に南」で「楠」と夢のお告げを解くが、まるで謎々遊びに見えないこともないが、「太平記」の作者が楠木正成を特別の人物として登場させようとしている苦心が伝わってくる。
こうして召し出された正成は、天下統一の業には武略と智謀の二つが必要だと申し上げ、もしどのような状況になろうとも、「正成一人いまだ生きてありと聞こしめし候はば、聖運はつひに開くべしと思し召し候へ」と、何とも頼もしい言葉を残して河内へと帰っていった。
本拠地に戻った正成は挙兵するも、後醍醐の笠置城は幕府軍の猛攻を受けて落城し、後醍醐も捕らえられ、やがて隠岐へ流される。
正成の赤坂城も大軍に攻められるが得意のゲリラ戦で対抗、幕府軍を翻弄するも抗しきれずに陥落し、正成は自害を装って脱出した。
元弘二年(1332)夏、後醍醐の皇子護良親王は紀州熊野において決起した。
これに呼応して、正成も河内で挙兵し、摂津に進出して幕府軍を討ち払った。
十一月になると、幕府は大軍を京都に送り込む。「太平記」によれば五十万の大軍となっているが、当時の鎌倉幕府にそれだけの力があったとは考えにくいが、大軍であったことは確からしい。
熊野から吉野に移って城郭を構えた護良親王は、たちまち幕府軍に攻め立てられ、村上義光父子が身代わりとなって討死する間に、辛くも逃げ延びたのである。
次に幕府軍は、千早城の楠木軍を取り囲んだ。
千早城は、先に陥落した赤坂城よりさらに奥深くにあり、金剛山地の中腹にあたる支脈の頂上に構えられた山城で、用水や食料武器なども備えた要害となっていた。
十重二十重と取り囲んだ幕府軍は、「太平記」には二百万騎と記されているが、さすがに少々誇大過ぎる。
迎える楠木軍は千人に足らない少勢であったが、雲霞のごとき大軍を奇襲作戦で翻弄し膠着状態となる。
幕府の大軍が千早城に釘付けされている間に、後醍醐は隠岐島を脱出し、伯耆国の名和長年に迎えられる。さらに播磨の赤松円心も挙兵し、京都に向けて進軍を始めた。
幕府方も京都に大軍を集め、後醍醐方の鎮圧を計るが、幕府方の大将の一人足利尊氏(この頃は高氏)が後醍醐方と通じ、京都の六波羅探題を攻撃した。これにより戦況は大きく動き、六波羅軍は敗走し、幕府方により擁立されていた光厳天皇・後伏見上皇は鎌倉を目指して脱出した。敗走した主力部隊は、翌日には全滅してしまう。
後醍醐方は、光厳・後伏見らを捕らえ近江の国分寺に幽閉し、三種の神器を奪い取った。
一方関東では、上野国で新田義貞が挙兵し鎌倉を攻撃、苦戦しながらも稲村ケ崎での奇跡的な出来事にも助けられて鎌倉を落とす。北条高時以下一門の諸将は自刃し、鎌倉幕府は滅亡する。
元弘三年(1333)五月のことである。
京都に戻った後醍醐は、政治の実権を握る。いわゆる建武の新政である。
楠木正成は、記録所寄人・雑訴決断奉行人という政権の要職に加え、河内・和泉の守護職となった。
しかし、各豪族に担がれての後醍醐政権は極めて脆弱であった。
政権奪取の一番の功労者ともいえる護良親王は後醍醐に強請して征夷大将軍となるが、足利尊氏には納得できない就任であった。
二人の対立は深刻化を増し、後醍醐の寵妃阿野廉子を通しての尊氏の讒言もあって、護良親王は謀反の疑いで捕らえられ、鎌倉に送られてしまう。正成が北条氏残党を討つために京都を離れている間のことであった。
この後、正成は朝廷の役職の多くを辞している。連座したわけではないようであるが、護良親王が正成の有力な後見者であったことは確かであろう。
さらに、ほどなく起こった北条高時の遺児時行が中先代の乱と呼ばれる騒乱で鎌倉が攻撃され、守っていた尊氏の弟足利直義は鎌倉脱出に際して、部下に命じて護良親王を殺害してしまったのである。
一時は北条残党に鎌倉を奪われたが、尊氏率いる軍勢によって乱は鎮圧された。
足利尊氏が、後醍醐の諱(イミナ)である「尊治」の一字を与えられ高氏から尊氏へと改名したのは、この頃のことである。
しかし、護良親王が殺害されたことが京都に伝わると後醍醐は激怒し、朝廷は新田義貞を大将とする足利討伐軍を鎌倉に向かわせる。新田軍は東海道の足利勢を撃破し箱根に迫った。
足利直義は、後醍醐と敵対することに躊躇する兄尊氏を説得し、出陣させることに成功した。
箱根・竹下の合戦に勝利した足利軍は、朝廷方を追って京都に入った。
後醍醐は素早く比叡山に逃れ、北畠顕家の支援を得て逆襲し、ついに足利勢を京都から追い払うことに成功した。
九州に下った尊氏は、菊池氏との戦いに勝利して態勢を立て直し、再び京都に向かって進軍を始めた。尊氏の人望は厚く、足利軍は大軍に膨れ上がっていった。
楠木正成が、望まぬままに僅かな兵を率いて湊川へと向かうのはこの頃のことである。
正成が、歴史上活躍したとされる六年ばかりを「太平記」をベースに略記してきたが、朝廷や政権をめぐる争いは、まことに目まぐるしい。
そして、その決着の場として湊川で自刃して果てた楠木正成という人物には、やはり、強く魅せられる。
「七度生まれ変わってまで朝敵を討ちたい」と誓い合った楠木兄弟の真意は那辺にあったのか。少なくとも、朝敵とは足利尊氏を指しているとは思われないのである。
( 完 )