運命紀行
この盃に付けて
『 ・・・御遊の次(ツイデ)に中将を召して、御酒玉(タマ)はせけるに、
「勾当内侍をば、この盃に付けて」
とぞ仰せ出だされける。
義貞限りなく忝(カタジケナ)しと思ひて、次の夜やがて(早速)牛車さはやかに仕立てて、かくと案内せさせたるに、内侍は玉楼金殿の棲(スマヒ)を捨てて、雲の上の月を外に見ん事の悲しきのみならず、女の身のあるまじき行(フルマヒ)なれば、いたく恨み沈み泣き臥して、物も覚え玉はざりけれども、勅命なれば力なく、海人(アマ)の塩焼く煙だに思はぬ風になびくらん心地して、車に扶け乗せられて、深け過ぐるほどに、車きしる音して、中門に轅(ナガエ・牛車の前部の柄)をさし廻せば、おもとの人独り二り妻戸を立てかくして、つつめきあへり・・・ 』
「太平記」の、勾当内侍(コウトウノナイシ)が後醍醐より新田義貞に下げ渡されるくだりである。
その時代の風習や、やむごとなき方の振舞いではあるが、遊宴の席で、恩賞としてであろうが、盃に付けて愛妾を部下に与えたというのである。
こうしたことは、これより以前にも、もっと後の時代にも例が見られるが、何とも腹立たしく、切ない。
勾当内侍について、「太平記」の記述を今少し見てみよう。
「 この女房は頭大夫行房のむすめで、立派な御殿の奥深く、絢爛たる帳の陰で美しく装い大切に育てられてきたが、十六歳の春の頃に内侍として召されて君主の側に侍り、薄絹の重さにさえ堪えられないようななよやかな容姿は、春の風が一片の花びらを吹き残していたのかと疑うほどで、紅や白粉を必要としない容貌は、秋の雲から川の半ばを照らし出す月が出たような風情に似ている。
それゆえに、後宮の数多くの女性たちは、帝の寵愛が勾当内侍に独占され、帝の訪れが絶え一夜の長さを恨んだという。 」
この絶世の美女に、新田義貞は一目惚れをしたのである。
「 内裏の警固にあたっていた義貞は、ある夜、月が冴え渡り風が冷たく感じられる時に、この内侍が半ばまで御簾を巻き上げて琴を弾いておられたのに出会ったのである。
義貞は、その哀愁に満ちた音色に魅せられて、月光に照らされた宮中の庭をさまよった。分別を失ってしまうほどに心魅かれた義貞は、御簾近くの陰に身を隠して聞いていると、内侍は見ている人がいることに気付いて当惑し、琴を弾くのをやめてしまった・・・ 」
義貞は、この時微かに見た内侍の姿を忘れられず、恋焦がれてしまう。仲立ちしてくれそうに人を見つけ、たびたび手紙を送るが、「帝がお聞きになることを畏れ多いと思って、手紙を手に取ることもしない」という、つれない仲立ちした人の言葉に、義貞はますます落ち込んでしまう。
このことが宮廷あたりで噂となって、やがて後醍醐の耳にも入る。その結果、冒頭のくだりとなるのである。
貴族の家に生まれ育ち、若くして天皇の妾妃となった勾当内侍にすれば、東国から下って来た武者は、あまりにも荒々しく粗野な人物にしか見えなかったことであろう。それが、いくら勅命とはいえ、まるで戯言の褒美のように与えられ、翌日には粗末な武家の屋敷に連れて行かれたのである。
内侍の心境を、現代人の常識で推し量ることなど無駄な試みではあるが、哀れを感じざるを得ない。
* * *
勾当内侍という女性の生没年は不明である。
「太平記」の中では行房のむすめと記されているが、世尊寺(一条)経尹あるいは行尹の娘とも、行房の妹とも娘とも伝えられている。今一つはっきりしないが、行房と行尹は兄弟であり経尹は二人の父であるので、世尊寺家の姫であったことは確からしい。
世尊寺家は、三蹟として名高い能書家藤原行成を祖とする堂上家であり、第十代当主が経尹、第十一代が行房、第十二代が行尹という関係である。
勾当内侍と新田義貞が出会ったのは、「太平記」によれば建武の始めということであるから、義貞が三十四歳頃のことである。内侍の年齢は不明であるが、おそらくまだ二十歳にもなっていなかったのではないだろうか。因みに後醍醐は、四十七歳の頃のことである。
勾当内侍の出自には不明な点が多いため、架空の人物ではないかという研究者もあるようだ。
しかし、「太平記」により相当の脚色がなされているとしても、後醍醐の数多い妻妾の中に内侍のような悲運に見舞われている女性も少なからずあったようにも考えられる。
さて、涙にくれながら新田義貞のもとに引き取られた勾当内侍であったが、二人の仲は睦まじいものであったらしい。恋焦がれていた義貞の想いは真剣なものであったらしく、内侍も次第に惹かれていったと思われる。
新田義貞の人物について述べるのは割愛するが、足利尊氏が歴史上長らくゆえなき迫害を受けていたのとは反対に、義貞は過大な評価がなされていたように思われる。
しかし、武将としてはともかく、女性に対しては優しい人物であったように思われる。
足利尊氏が京都から九州へと落ちていく状況に追い込まれた時、新田義貞は勾当内侍との別れがつらくて追撃の機会を逃している。また、後醍醐が比叡山に逃れた時にも、京都の足利勢を討ち破る好機をつかみながら、やはり内侍の側を離れがたく、みすみす勝利の機会を失している。
『 ひとたび笑ひて能(ヨ)く国を傾く 』と、「太平記」は美人の笑顔が国を滅ぼすとの故事を引いて、建武新政権の敗因の一つが勾当内侍にあるやに記している。
建武新政の瓦解に勾当内侍の存在が影響しているとは思われないが、もしそうだとすれば、後醍醐政権はそれほど脆いものであったという証左にもなる。
そして、新田義貞という人物は、武将としては決して一流の人物とは考えにくいが、女性にとっては好ましい人物だったのかもしれない。
そうだとすれば、まるで玩具でも与えるように新田義貞のもとに送り出された勾当内侍であったが、案外、心やすまる数年間を得ることが出来たのかもしれない。
義貞が北陸へ落ちていった時には、さすがに内侍を今堅田という所に残して行った。寂しい日々を送る内侍に、父の行房朝臣が越前金崎で戦死という悲しみが加わり、涙の日々を送っていたが、ようやく戦況が落ち着いたということで義貞から迎えの人が来て、内侍は越前に向かった。
だが、その途中で義貞討死の報に接し、落胆のうちに京都に戻る。
そして、獄門に懸けられている義貞の首に対面すると、近くの築地の陰に泣き伏して息絶えたかのようになってしまう。
日が暮れた頃、近くの寺の聖(ヒジリ)が哀れな内侍の姿を見つけ、お堂に招じ入れさまざまと慰めた。
内侍は、その夜のうちに御髪をおろし、若い身空を墨染の衣に包みながらも、義貞を想い浮かべて泣き悲しんだという。
その後は、嵯峨のあたりに草庵を結び、朝夕義貞の菩提を弔いながら過ごしたと、「太平記」は記している。
一方で、琵琶湖琴ヶ浜に身を投じたという伝説もあり、野神神社では慰霊のための野神祭りが今なお行われているという。
今となっては、いずれが真実かをさぐることに意味があるとも思えないが、激動の時代、一部の権力者の欲望の波間にもてあそばれたかに見える勾当内侍の生涯であるが、新田義貞と過ごした数年間は、薄幸の麗人にとって生きた証ともいうべき日々だったのかもしれない。
( 完 )
この盃に付けて
『 ・・・御遊の次(ツイデ)に中将を召して、御酒玉(タマ)はせけるに、
「勾当内侍をば、この盃に付けて」
とぞ仰せ出だされける。
義貞限りなく忝(カタジケナ)しと思ひて、次の夜やがて(早速)牛車さはやかに仕立てて、かくと案内せさせたるに、内侍は玉楼金殿の棲(スマヒ)を捨てて、雲の上の月を外に見ん事の悲しきのみならず、女の身のあるまじき行(フルマヒ)なれば、いたく恨み沈み泣き臥して、物も覚え玉はざりけれども、勅命なれば力なく、海人(アマ)の塩焼く煙だに思はぬ風になびくらん心地して、車に扶け乗せられて、深け過ぐるほどに、車きしる音して、中門に轅(ナガエ・牛車の前部の柄)をさし廻せば、おもとの人独り二り妻戸を立てかくして、つつめきあへり・・・ 』
「太平記」の、勾当内侍(コウトウノナイシ)が後醍醐より新田義貞に下げ渡されるくだりである。
その時代の風習や、やむごとなき方の振舞いではあるが、遊宴の席で、恩賞としてであろうが、盃に付けて愛妾を部下に与えたというのである。
こうしたことは、これより以前にも、もっと後の時代にも例が見られるが、何とも腹立たしく、切ない。
勾当内侍について、「太平記」の記述を今少し見てみよう。
「 この女房は頭大夫行房のむすめで、立派な御殿の奥深く、絢爛たる帳の陰で美しく装い大切に育てられてきたが、十六歳の春の頃に内侍として召されて君主の側に侍り、薄絹の重さにさえ堪えられないようななよやかな容姿は、春の風が一片の花びらを吹き残していたのかと疑うほどで、紅や白粉を必要としない容貌は、秋の雲から川の半ばを照らし出す月が出たような風情に似ている。
それゆえに、後宮の数多くの女性たちは、帝の寵愛が勾当内侍に独占され、帝の訪れが絶え一夜の長さを恨んだという。 」
この絶世の美女に、新田義貞は一目惚れをしたのである。
「 内裏の警固にあたっていた義貞は、ある夜、月が冴え渡り風が冷たく感じられる時に、この内侍が半ばまで御簾を巻き上げて琴を弾いておられたのに出会ったのである。
義貞は、その哀愁に満ちた音色に魅せられて、月光に照らされた宮中の庭をさまよった。分別を失ってしまうほどに心魅かれた義貞は、御簾近くの陰に身を隠して聞いていると、内侍は見ている人がいることに気付いて当惑し、琴を弾くのをやめてしまった・・・ 」
義貞は、この時微かに見た内侍の姿を忘れられず、恋焦がれてしまう。仲立ちしてくれそうに人を見つけ、たびたび手紙を送るが、「帝がお聞きになることを畏れ多いと思って、手紙を手に取ることもしない」という、つれない仲立ちした人の言葉に、義貞はますます落ち込んでしまう。
このことが宮廷あたりで噂となって、やがて後醍醐の耳にも入る。その結果、冒頭のくだりとなるのである。
貴族の家に生まれ育ち、若くして天皇の妾妃となった勾当内侍にすれば、東国から下って来た武者は、あまりにも荒々しく粗野な人物にしか見えなかったことであろう。それが、いくら勅命とはいえ、まるで戯言の褒美のように与えられ、翌日には粗末な武家の屋敷に連れて行かれたのである。
内侍の心境を、現代人の常識で推し量ることなど無駄な試みではあるが、哀れを感じざるを得ない。
* * *
勾当内侍という女性の生没年は不明である。
「太平記」の中では行房のむすめと記されているが、世尊寺(一条)経尹あるいは行尹の娘とも、行房の妹とも娘とも伝えられている。今一つはっきりしないが、行房と行尹は兄弟であり経尹は二人の父であるので、世尊寺家の姫であったことは確からしい。
世尊寺家は、三蹟として名高い能書家藤原行成を祖とする堂上家であり、第十代当主が経尹、第十一代が行房、第十二代が行尹という関係である。
勾当内侍と新田義貞が出会ったのは、「太平記」によれば建武の始めということであるから、義貞が三十四歳頃のことである。内侍の年齢は不明であるが、おそらくまだ二十歳にもなっていなかったのではないだろうか。因みに後醍醐は、四十七歳の頃のことである。
勾当内侍の出自には不明な点が多いため、架空の人物ではないかという研究者もあるようだ。
しかし、「太平記」により相当の脚色がなされているとしても、後醍醐の数多い妻妾の中に内侍のような悲運に見舞われている女性も少なからずあったようにも考えられる。
さて、涙にくれながら新田義貞のもとに引き取られた勾当内侍であったが、二人の仲は睦まじいものであったらしい。恋焦がれていた義貞の想いは真剣なものであったらしく、内侍も次第に惹かれていったと思われる。
新田義貞の人物について述べるのは割愛するが、足利尊氏が歴史上長らくゆえなき迫害を受けていたのとは反対に、義貞は過大な評価がなされていたように思われる。
しかし、武将としてはともかく、女性に対しては優しい人物であったように思われる。
足利尊氏が京都から九州へと落ちていく状況に追い込まれた時、新田義貞は勾当内侍との別れがつらくて追撃の機会を逃している。また、後醍醐が比叡山に逃れた時にも、京都の足利勢を討ち破る好機をつかみながら、やはり内侍の側を離れがたく、みすみす勝利の機会を失している。
『 ひとたび笑ひて能(ヨ)く国を傾く 』と、「太平記」は美人の笑顔が国を滅ぼすとの故事を引いて、建武新政権の敗因の一つが勾当内侍にあるやに記している。
建武新政の瓦解に勾当内侍の存在が影響しているとは思われないが、もしそうだとすれば、後醍醐政権はそれほど脆いものであったという証左にもなる。
そして、新田義貞という人物は、武将としては決して一流の人物とは考えにくいが、女性にとっては好ましい人物だったのかもしれない。
そうだとすれば、まるで玩具でも与えるように新田義貞のもとに送り出された勾当内侍であったが、案外、心やすまる数年間を得ることが出来たのかもしれない。
義貞が北陸へ落ちていった時には、さすがに内侍を今堅田という所に残して行った。寂しい日々を送る内侍に、父の行房朝臣が越前金崎で戦死という悲しみが加わり、涙の日々を送っていたが、ようやく戦況が落ち着いたということで義貞から迎えの人が来て、内侍は越前に向かった。
だが、その途中で義貞討死の報に接し、落胆のうちに京都に戻る。
そして、獄門に懸けられている義貞の首に対面すると、近くの築地の陰に泣き伏して息絶えたかのようになってしまう。
日が暮れた頃、近くの寺の聖(ヒジリ)が哀れな内侍の姿を見つけ、お堂に招じ入れさまざまと慰めた。
内侍は、その夜のうちに御髪をおろし、若い身空を墨染の衣に包みながらも、義貞を想い浮かべて泣き悲しんだという。
その後は、嵯峨のあたりに草庵を結び、朝夕義貞の菩提を弔いながら過ごしたと、「太平記」は記している。
一方で、琵琶湖琴ヶ浜に身を投じたという伝説もあり、野神神社では慰霊のための野神祭りが今なお行われているという。
今となっては、いずれが真実かをさぐることに意味があるとも思えないが、激動の時代、一部の権力者の欲望の波間にもてあそばれたかに見える勾当内侍の生涯であるが、新田義貞と過ごした数年間は、薄幸の麗人にとって生きた証ともいうべき日々だったのかもしれない。
( 完 )