雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

運命紀行  万葉の時代を拓く

2014-01-09 08:00:54 | 運命紀行
          運命紀行
               万葉の時代を拓く

『 大和には 群山(ムラヤマ)あれど とりよろふ 天の香具山 
  登り立ち 国見をすれば 国原は 煙(ケブリ)立つ立つ 
  海原は かまめ立つ立つ うまし國そ あきづ島 大和の国は 』

これは、万葉集の(第2番)に載せられている歌である。
作者は第三十四代舒明(ジョメイ)天皇である。
歌意は、「大和にはたくさんの山があるが、とりわけ立派なのは天の家具山(アマノカグヤマ)である。登り立って国見をすれば、国土には一面にかまどの煙が立ち昇り、海原にはカモメがいっぱい飛んでいる。豊かな国だ、あきづ島と呼ばれる大和の国は」
なお、「とりよろふ」は、「とりわけ立派」としたが、語義は未詳である。
「国見(クニミ)」は、高所から領土全体を見渡すことであるが、もともとは、支配者がおこなう儀礼の一つであったらしい。
「海原」は、当時、そうとう奥地まで海が入り組んでいて、湿地も多くカモメもいたらしい。あるいは、大きな池を海に見立てたともされる。

万葉時代という歴史区分があるわけではないが、万葉の時代といえば、舒明天皇の時代(西暦629~641)から、万葉集の最終句である大伴家持の『 新しき 年の始めの 初春の 今日降る雪の いやしけ吉事(ヨゴト) 』という歌が詠まれた年である西暦759年までのおよそ百三十年間を指すのがふつうである。
つまり、この舒明天皇こそが、飛鳥時代から奈良時代半ばまでの間に「万葉の時代」と呼ばせるに相応しい時代を拓いた帝なのである。

ただ、万葉集を主題としてこの天皇の歌を調べてみると、何とも難しい人物なのである。
その代表として次の二首を挙げてみる。

  「崗本天皇(ヲカモトノスメラミコト)の御製歌一首」 (第1511番)
『 夕されば 小倉の山に 鳴く鹿は 今夜(コヨヒ)は鳴かず い寝(ネ)にけらしも 』

  「泊瀬朝倉宮(ハツセノアサクラノミヤ)に天の下(アメノシタ)知らしめしし大泊瀬幼武天皇(オホハツセ ワカタケノ スメラミコト)の御製歌一首」  (第1664番)
『 夕されば 小倉の山に 臥(フ)す鹿の 今夜(コヨヒ)は鳴かず 寝(イ)ねにけらしも 』
  「右は、或る本に伝(イ)はく『崗本天皇の御製なり』といへり。正指(セイシ)を審(ツバヒ)らかにせず。これに因(ヨ)りて以ちて累(カサ)ねて載す。

歌意は、「夕方になれば、小倉の山で鳴く(小倉の山にひそんでいる)鹿は、今夜は鳴かない、もう寝てしまったのだろうか」という感じであろうか。
なお、「小倉の山」は京都のものとは別である。

この二首の歌について、作者を確定することがとても難しいのである。
「崗本天皇」というのは、崗本宮で政務を行った天皇のことを指していて、舒明天皇がそれにあたるが、彼の妻であり後継者である斉明天皇(皇極と重祚)も同様に崗本宮を造営し、崗本天皇にあたるのである。
そして、「大泊瀬幼武天皇」というのは、第二十一代雄略天皇のことなのである。
実は、万葉集の(第1番)歌はこの天皇の歌であるから、(第1664番)程度の歌を詠んでいても、何の不思議もないのである。

それにしても、二つの歌はあまりにも似ているのである。
当時すでに「本歌取り」という手法があったのかどうか知らないが、模倣するということは当然あったと思われる。記録するということが現在より遥かに難しい時代にあって、故意ではなくても、よく似た作品が残されてしまうことはあり得ることであろう。

それにしても、同一といってもよいような二つの作品、しかもそれらが、雄略天皇はともかく、舒明天皇と斉明天皇の区別を付けることが難しいというのには、当時の激しい時代の動きがあったように思われるのである。


     * * *

舒明天皇の即位の頃をもって万葉時代の幕開けとみることはすでに述べたが、万葉の時代という何とものどやかな印象を受ける言葉とは裏腹に、この時代は王権をめぐる激しい時代であった。
本稿は、万葉集に収められている歌を中心に進めることが狙いであるが、その時代背景を無視することは出来ないので、概略を見てみよう。

激しい王権の移動があったと推定される第二十六代継体天皇が崩御したのは、西暦531年のことである。
舒明天皇は、継体天皇の四代後の子孫で直系にあたる。舒明天皇の即位は、西暦629年であるから継体天皇の没後およそ百年後に登場してきた天皇ということが出来る。

舒明天皇の先代は女帝である推古天皇であるが、その在位期間は三十六年に及び、政治の実権者が誰であったかはともかく、長期安定の王権時代を保っていた。
しかし、七十五歳で崩御した時、女帝は後継者を定めていなかったのである。
その時に後嗣としての有力候補は、田村皇子と山背大兄皇子であったが、豪族たちの支持は別れていた。田村皇子は、継体天皇の孫にあたる第三十代敏達天皇の孫にあたる直系であった。父は、敏達天皇の第一皇子の押坂彦人大兄皇子であるが天皇位には就いていない。
山背大兄皇子は、同じく継体天皇の孫にあたる第三十一代用明天皇の孫にあたる。父は、聖徳太子と呼ばれている人物である。

当時の政権の中心にいたとされる蘇我蝦夷は、群臣に計った上で田村皇子を後継者として、舒明天皇が誕生するのである。
もっともこの後継者決定にはさまざまな要因が考えられ、諸説も少なくない。
まず考えられることは、蘇我氏にとって、より御しやすい人物として田村皇子を擁立したということが考えられる。次には、用明天皇・推古天皇は共に生母は蘇我氏の堅塩媛であり、蘇我氏系統の天皇が続くことによる他の豪族の反発を避けようとしたと考えることも出来る。

いずれにしても、舒明天皇は蘇我氏の後ろ盾を得て即位したのである。
皇后には、宝姫王を迎えたが、用明・推古と繋がっている姫で順当な人選といえる。夫人には、蘇我馬子の娘の法提郎女(ホテイノイラツメ)がおり、第一皇子となる古人大兄皇子を生んでいる。
宝姫王は、舒明天皇の崩御後に皇極天皇として即位し、一代置いて再び斉明天皇として皇位についているのである。
宝姫王は、歴史上大きな意味を持つ人物を儲けている。列記してみると、天智天皇、間人皇女(皇極と斉明の間に位置する天皇である孝徳天皇の皇后)、天武天皇などである。
激しい時代を描くのは本稿の目的ではないが、舒明天皇の子供たちがかの有名な乙巳の変(大化の改新)や壬申の乱の主役を演じているのである。
また、山背大兄皇子は後に王権をめぐり蘇我入鹿により亡ぼされており、これにより聖徳太子とされる一族は滅亡しているのである。

さて、話を万葉集に戻そう。
舒明天皇あるいは斉明天皇の御製の可能性のある歌は併せて十一首ある。但しその中には、先にあるように雄略天皇の可能性のある歌や、額田王の作品も含まれていて、どうにも確定できない。
『 夕されば・・・』の二首の歌に限ったとしても、いろいろなことが想像できる。
どちらの歌も、名句と思われるが、一首を雄略天皇の作品だとすれば、舒明天皇にしろ斉明天皇にしろ、何故これほど酷似した歌を残したのだろうか。両者の間には百五十年ほどの隔たりがあるのである。
また、これらの歌が鹿の鳴く声を借りた夫を偲ぶ歌なので、作者は女性だという意見も根強いが、さて、妻を偲ぶ歌として男性の作品であっても何の矛盾もないようにも思われる。

ただ、舒明天皇も斉明天皇も崗本宮を造営したことから後世の人に混乱を与えたのであるが、その間に二十年余りの隔たりがあり、宮殿も幾つか変わっている。
万葉集の編纂に大きく関わった大友家持が生存したのは、西暦718年から785年の間である。斉明天皇が崩御してから六十年後には誕生しているのである。
つまり、万葉集や古事記や日本書紀に代表されるように、多くの歴史的事実を記録していた当時の人々にとっても、僅か数十年前の崗本天皇が、舒明天皇の方なのか斉明天皇の方なのか判別できないほど激しい時代であった証左ではないだろうか。

今となっては私たちは、
『 夕されば 小倉の山に 鳴く鹿は 今夜は鳴かず い寝にけらしも 』
という名句を、時には女性が夫を偲ぶ歌として、時には男性が妻を偲ぶ歌として、味わうのがよいのかもしれないと思うのである。

                                  ( 完 )
  
コメント
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