雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

運命紀行  陰の功労者

2014-01-15 08:00:36 | 運命紀行
          運命紀行
                陰の功労者

万葉集はわが国最古の和歌集である。
概ね、舒明天皇(在位西暦629~641)の頃から、大伴家持の巻末歌(西暦759の作)までの百三十年間の和歌が集められている。この期間は、飛鳥時代から奈良時代の中頃までにあたるが、万葉の時代と呼ばれるのは、この期間を指す。

中国から文字が伝えられる以前、わが国には文字がなかったとされている。もちろん言葉はあったわけで、集落やあるいはもっと大きな集団生活をしていたと考えられる中で、日頃話されることが全く記録されることがなかったというのは、むしろ不自然なような気がする。何らかの表記はされていたように思えてならないが、少なくとも系統だった文字はなかったらしい。
日本語の音を表記する「ひらがな」が発明されるのは平安時代のことである。

従って、万葉集の時代には、まだ「ひらがな」は登場しておらず、中国文字の音を借りて、わが国独自の歌、つまり「和歌」を表記していったのである。いわゆる「万葉仮名」と呼ばれるものがそれである。
万葉集には、四千五百余首の和歌が収録されているが、その形式は、長歌、短歌(反歌)、施頭歌などで、まさしく日本の歌、すなわち「和歌」を「万葉仮名」という苦心の産物により記録していったのである。
この後、短歌が「和歌」を代表するようになっていくのはご承知の通りである。

万葉集の原本は現存していない。幸い多くの写本が伝えられているが、最も古いものでも十一世紀に書き移されたものらしい。従って、写本により、少々の誤差があることはどうすることも出来ないし、消失しているものや、紛れ込んだり故意に加えられたものがないとは言い切れない。
しかし、それらのことを加味したとしても、万葉集が伝えてくれる文学的な価値や歴史的資料としての価値は計りきれないほど大きい。
古来、万葉集については、多くの学者たちが研究を重ねてきていて、「万葉仮名」を全く読めない私などでも、簡単に親しむことが出来る。
天皇や貴族たちから下級の官人たち、あるいは庶民や防人など収録されている人たちの社会的な層は広く、女性の作品も少なくない。
万葉集は、万葉の時代の人々の喜怒哀楽や、あるいは文学的な価値を十分理解することは無理だとしても、古の人々の息吹の一端に触れることが出来たような気にしてくれる貴重な先人からの贈り物であることは確かである。

すでに述べたように、万葉集については、文学的な観点ばかりでなく、歴史上の資料や民俗的な観点などからも幅広く研究がなされてきている。
読解や作者の推定、あるいは成立の過程などでも研究は進められてきているが、それでもなお、多くの疑問を残している。また、それこそが万葉集の魅力の一つなのかもしれない。
その中で、この膨大な和歌集の編纂の中心人物であったのが、大伴家持という人物であったことは、すでに定説となっている。

大伴氏は、大和朝廷屈指の豪族で、物部氏と共に軍事面を担う名門氏族である。しかし、蘇我氏や藤原氏の台頭により、物部氏は著しく衰退し、大伴氏も幾度も政争に巻き込まれ、勢力を次第に失いつつあった。
祖父の安麻呂、父の旅人は共に大納言にまで上ったが、家持はついに中納言で終わっている。
しかし、養老二年(718)に誕生し、延暦四年(785)に没した家持の場合、藤原氏の台頭が激しく、王権をめぐる謀反事件が多発する中で、むしろ政争を生き抜き家門を守ったという方が正しいのかもしれない。
また、大伴氏は、安麻呂・旅人共に名高い歌人であり、家持もその家柄ゆえに万葉集編纂に多大な影響を与えることが出来たと考えられる。

しかし、当然のことではあるが、あの膨大な万葉集の編纂にあたっては、家持一人の仕事であるはずはない。むしろ、長期に渡って、何次かに渡って作り上げられてきたという説の方が定説ともいえる。おそらくそうだと考えられるが、家持が最後の仕上げに大きく関わっており、場合によっては、すでに出来上がっている部分にも修正を加えることが出来る立場にあったはずである。
そう考えた場合、同時代で家持を支援した有力な人物がいた可能性がある。当然父の旅人もその一人であるが、旅人は家持が十四歳の頃に亡くなっているから、資料や資産を受け継ぐことが出来たとしても、直接的な指導は出来なかった。

そう考えてきた時、精神的な面でも、さらには文学的な知識や、資料や資金面においてさえ、大きな支援と影響を与えることが出来た人物が浮かび上がってくるのである。
それが、大伴坂上郎女である。


     * * *

大伴坂上郎女(オオトモノサカノウエノイラツメ)の生没年はよく分からない。
父は大納言大伴安麻呂で、母は石川内命婦である。
家持の父である旅人は、異母兄にあたる。従って、家持とは甥・叔母の関係にあたる。

十三歳の頃、穂積皇子と結婚。穂積皇子は、天武天皇の第五皇子である。この事だけでも、当時の大伴氏の朝廷内の存在感が分かる。
穂積皇子の幼年期の記録が少なく誕生年も不明である。ただ、天武天皇の第三皇子である大津皇子が663年の生まれであり、第六皇子の舎人皇子が676年の生まれであることを考えれば、この間であることは確かである。
二人が結婚したとされる年も分からないが、坂上郎女のその後の資料などから、誕生を695年前後と推定することにすれば、穂積皇子は二十数歳年上であったことになる。

和銅八年(715)に穂積皇子が没する。坂上郎女が二十歳の頃だとすれば、婚姻期間は七年前後となる。二人の間に子供はいない。
その後どれほど経ってからか分からないが、藤原麻呂と親しい関係になり、一時は婚姻関係にあったとみられる。
万葉集には、二人の間の相聞歌が坂上郎女からのものが四首、麻呂からのものが三首収録されている。

  「大伴郎女の和(コタ)へたる歌四首」
 『 佐保河の 小石ふみわたり ぬばたまの 黒馬(クロマ/コマ)の来る夜は 年にもあらぬか 』
歌意は、「天の河ならぬ佐保河の小石を踏みながら渡って来るあなたを乗せた黒馬は、せめて年に一度でも来て欲しい」
なお、佐保河は、春日山に発し大和川に合流する川で、坂上郎女の屋敷(父の屋敷か)がそのほとりにあったらしい。 「ぬばたま」は「黒にかかる枕詞」
この歌は、麻呂の『 よく渡る 人は年にも ありとふも いつの間にそも わが恋ひにける 』という、「まめに渡る牽牛は一年に一度恋人に逢うというが、自分はどれだけの日も経たないのに、これほど恋しいのだろう」七夕にかけた贈答歌に対して、同じく七夕を意識した返歌を、皮肉まじりに詠んだものらしい。
 『 千鳥鳴く 佐保の河瀬の さざれ波 止む時も無し わが恋ふらくは 』
歌意は、「千鳥が鳴く佐保河の河瀬のさざ波のように、止む時などありません、私の恋心は」
 『 来むといふも 来ぬ時あるを 来じといふを 来むとは待たじ 来じといふものを 』
歌意は、「あなたは、来ると言っていても来ない時があるのに、ましてや、来ないと言っているものを、来るかしらと待ちますまい、来ないと言っているのですから」
まるで早口言葉のような歌だが、女心の切なさを表しているともいえる。万葉集には、このような言葉遊びのような歌がいくつか見える。  
 『 千鳥鳴く 佐保の河門(カワト)の 瀬を広み 打橋(ウチハシ)渡す 汝(ナ)が来(ク)とおもへば 』
歌意は、「千鳥の鳴く佐保河の渡りの瀬は、幅が広いので、板の橋を渡しておきましょう、あなたが来て下さると思いますので」
なお、「河門」は、「浅くなっていて渡る場所となっている所」

これらの歌の後ろには、「郎女は佐保大納言の女(ムスメ)なり」とあり、穂積皇子薨(ミマカリ)し後に藤原麻呂大夫、この郎女を娉(ヨバ)へり」とある。
また、「郎女は、坂上の里に住む。よって坂上郎女といへり」と記されている。
従って、二人の関係は坂上郎女の一方的な想いではなく、麻呂にも次のような情熱的な歌が収録されている。
 『 むしぶすま 柔(ナゴ)やが下に 臥(フ)せれども 妹(イモ)とし寝ねば 肌し寒しも 』

しかし、やがて二人は離別する。どうやら二人の蜜月期間はそれほど長い期間ではなかったらしい。
そして、どのくらいの期間をおいてかは分からないが、養老年間の終り頃、坂上郎女は異母兄である大伴宿奈麻呂(オオトモノスクナマロ)と結ばれる。西暦でいえば、723年前後であろうか。
坂上郎女が三十歳に近い頃と推定するが、宿名麻呂の年齢は不明である。二人の間には、田村大嬢(タムラノオオオトメ)・坂上大嬢の二人の姫が生まれたともいわれるが、万葉集によれば、二人は異母姉妹で、田村大嬢は田村屋敷に住み、坂上大嬢は坂上屋敷に住んでいたとされるから、坂上郎女が生んだのは坂上大嬢一人のようである。ただ、この姉妹は仲が良かったらしく互いに歌を贈りあっている。

宿奈麻呂は、坂上郎女を妻に迎えた頃には、すでに備後守などを歴任しており、すでに正五位上の歴とした貴族であった。その後従四位下となっているが、西暦727年頃までには亡くなったらしい。
二人の結婚期間は、せいぜい五年に満たなかったのではないだろうか。

宿奈麻呂を見送った坂上郎女は、九州の太宰府に赴いた。
異母兄にあたる大伴旅人は、太宰帥(ダザイノソチ・大宰府長官)として赴任していたが、妻を亡くしたため、あるいは本人の健康上の問題もあったのか、旅人の世話を目的とした九州行きであった。
旅人は、天平二年(730)十一月に帰京し、大納言に就いているが、翌年七月に没している。
旅人の太宰府での生活期間もはっきりしないが、歌人としては目覚ましい活動を見せており、万葉集に収められている和歌七十二首の内の多くがこの期間のものである。

大宰府歌壇ともいうべき集まりの中には、坂上郎女も重要な役割を果たしていたかもしれないが、それ以上に、九州下向により大伴氏全般の刀自(トジ・主婦。家事全般を司る女性)の地位につく形となり、同時に旅人の息子である家持・書持の養育にあたったという。
帰京後は、坂上邸に留まり、大伴氏全体の資産管理や一族の結束に大きな役割を果たし、旅人が没した後はさらにその存在感は増していったと考えられる。
坂上郎女の没年は不明であるが、かなり長命であったらしく、長く大伴一族を支え続けたと思われる。

坂上郎女は、一人娘である坂上大嬢を家持に嫁がせる。
これにより家持との関係は、叔母・甥の関係に加え、育ての親であり、さらには姑という立場にもなったのである。しかも、大伴氏全体の財務・人事などでも実権を握っていたと考えられ、それらを家持に惜しみなく与えていったのではないだろうか。
万葉集編纂という大事業には、もちろん大伴家持という類稀なる才能が大きな役割を果たしたことに疑問の余地はないが、その背景には、激しい政争を切り抜ける人脈や情報、編纂に関わる膨大な資金、さらには、旅人だけではなく、穂積皇子にさえ遡る資料などが家持のもとに集まる手助けをしたと考えられる、坂上郎女の存在なくして万葉集の集大成は叶わなかったと考えるのは、極端に過ぎるのだろうか。

万葉集には、四千五百首以上の歌が集められていることはすでに述べたが、これを作者別に収録されている歌の数を見てみると、第一位は家持の四百七十四首、第二位が柿本人麻呂の参百七十首、そして第三位が坂上郎女の八十四首となる。
万葉集は全二十巻から成っているが、巻十七以降は家持の私家集の感がある。そのため家持の歌の収録数は全体の一割を超え、あの額田王の歌の収録数が十三首であることを考えると、坂上郎女の八十四首はいかにも多過ぎる感がある。
つまり、収録されている歌の数と歌人としての認知度や巧拙とは比例しないという欠点を生み出してしまっていると思われる。

坂上郎女の和歌について、必ずしも評価が高くない論評を見ることがある。その原因の一つには、収録歌数の多さにあるように思われる。秀歌のみを抜粋しているわけではないからである。おそらく、家持についても同じことがいえよう。
しかし、万葉集における坂上郎女を語るには、その歌の一つ一つの巧拙だけで云々するのは正しくないように思われる。
そこには、大伴氏という沈みつつある名門豪族を支えた女性の姿があり、伴侶を失いながらも、万葉集という私たちの大切な宝を生み出すのに少なからぬ貢献があったことに想いを致すべきなのではないだろうか。

                                 ( 完 )






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